31話
魔獣退治に本腰を入れろとサフィールは言いたいのだろう。
彼女の弁も分からなくはない。魔獣の魔素にやられて、怪我もしていないのに引退をするハンターは多い。
魔素にやられると、五感がだめになる。目がかすみ、耳が聞こえにくくなり、今までできていたことができなくなるのだ。
そこを魔獣にやられるハンターも多かった。だから、魔獣を狩ることのできる体質と技術を兼ね備えたハンターは、本当に貴重なのだ。
レオンはそれを理解していた。
だからあまり人里に近づかなかったのだ。「天使の目」を隠したかっただけでなく、自分がハンターとしてこき使われることが目に見えていたから、それを避けたかった。
「ふむ。あまり前向きに依頼を受けてはくれなさそうだね」
「……いや、腹を括ったよ。ただし、依頼を受ける自由は俺にあることを忘れるなよ」
「無論だとも! しかし君の行動の変化が分からない。以前は最低限、金を稼ぐために魔獣退治の依頼を受けるだけだったのに、こうして街に下りてきている」
サフィールはちらりとレオンの顔を見て、聞いた。
「それは、あの彩師の娘のためかな?」
「ん?」
「つまり、惚れてるのかって話」
「ああ」
レオンは笑った。
「そんなわけあるか。さすがに俺にも選ぶ自由ってもんがある。……ただ」
言葉を探すように唇を舐めたレオンは、ぽつぽつとこぼれるように言葉を紡いだ。
「何だろうな。あいつと会ってから、急に全部が自分ごとみたいになったんだ。今まで遠かった世界が、急に近くなったというか……」
ジョッキのビールをごくりと飲む。レオンにとっては水のようなものだ。ジョッキに何杯飲んだって、酩酊は訪れない。
「俺はずっと、外敵を倒すことを日常としていた。前だけ見てれば良かったんだ。怠けたって自分が死ぬだけ。今にして思えば、びっくりするほど簡単な摂理で生きてた」
「言うほど簡単でもないだろう。耐えがたいこともあったはずだよ」
レオンは笑いながらもどかしそうに首を振った。
騎士見習いだった幼い頃も、ハンターとなった今も、ただ目の前の敵を倒すことに集中していた。他のことを考えたことはなかった。
レオンの育ての親は健在だ。弟もいる。
そこそこ裕福な家で、エルナが初めて会った時に言い当てたように、ブショング・ショアでは名の知れた地主だった。
騎士になることを嘱望されて騎士見習いとなったが、見習いとして入った家の令嬢に気に入られてしまい、それを拒んだらあっけなく追い出された。
八年近くを過ごした家を、こうもあっさり追い出されるのかと、若いレオンは驚き、憤ったものだ。
けれど追い出されたものは仕方がない。
紆余曲折を経て、ここ石裂大陸を行き来する商隊の護衛などをして、日銭を稼ぐようになった。
そして、天使を見てしまった。
天使を見た時のことは、詳しく覚えていない。
けれど、世界が一変するほどの衝撃だった。
心臓を引っこ抜かれて、粘土でできたまがいものに取り換えられてしまったかのような、そんな虚脱感を今も感じ続けている。
そこで死ねたら良かったのだ。何者にもなれなかった男の他愛のない人生として、闇に葬られるはずだった。
けれどレオンは生き延びた。
その目に「天使の目」を宿して。
そこからは絶望で、凪で、真っ暗だった。
周りはレオンを好奇の目で見つめ、狙い、酷い者はレオンの首を薬漬けにして保存しようとたくらんだ。
誰もレオンをレオンとして見なかった。彼はただの「天使の目」の保持者となり、レオンは逃げることしか考えなくなった。
「戦うか、逃げるか。それだけが俺の世界だった。――でもあいつと一緒にいると、それだけじゃ駄目なんだと思うようになった。あいつの見てる世界は俺と全然違っていて、色が豊かで、綺麗なんだ」
「あんたのは必要に迫られた上での行動だろう。というかそもそも、生き方に駄目も良いもないんじゃないか」
サフィールはウイスキーのお代わりを頼みながら、
「生き方なんて自分で選べるものじゃない。その時々を必死に生きた結果としてできた道筋を、後から生き方と呼んでるだけだ」
「ふむ。副団長様の教え、ありがたく受け取ろう」
「思ってもないことを言うな、気色悪い。……つまり、だ。あの彩師の娘は、あんたの人生をがらりと変えたんだね?」
「そうなるな。目の前しか見えていなかった俺に、世界の広さと悲惨さを教えてくれた」
「前者はともかく後者はどうなんだ」
「大事なことだろ。俺は自分より惨めな奴を初めて見た」
サフィールは思い切り顔をしかめた。
「なんだ、それってつまり、自分より不幸な人間を見てほっとしてるってだけじゃないのか」
「そうだ。少なくとも俺は、十代の大事な時期を地下室で過ごすようなことにはならなかった。望まないことも多くあったが、望みを果たす機会は何度かあった」
けれどエルナにそれはなかった。
彼女は八年もの長きに渡り、地下室の中で、ただひたすら魔導具を作り続けた。
そんな彼女が、人々を助けるために魔導具を作りたいと言ったのだ。
初めて知った怒りという感情を、少し持て余し気味に。けれど確実に自分のものにしながら。
それはレオンにとって奇妙な光景だった。
だってエルナは、打ちひしがれていない。己を不幸だと思っていない。
彼女はただ、魔素を取り出す機会を逃すまいと、虎視眈々と世界を見つめている。
そんな生き方があるのか、とレオンは思ったのだ。
そんな風に、世界を恨まずに生きていても良いのだ、と。
そのことに気づいたレオンは初めて、周囲を見回す余裕ができた。
自分よりも弱い人々が困っている姿を見た。ギルドという複雑な社会の一部を垣間見た。狩った魔獣の後処理が、あんなふうになっているのだと初めて知った。
「あいつは、よく分からないが、凄い奴だ」
「ほーん? ……惚れてないって、ちなみに本気で言ってる?」
「男女と見るとすぐ番わせるのはやめろ」
「いやいやぁ、自然の摂理だろって」
サフィールはニタニタと笑いながら、二杯目のウイスキーをくっと飲み干した。かなりペースが早いが、ちっとも顔色が変わっていないところを見ると、酒豪なのだろう。
「ま、あんたの気持ちが聞けて良かったよ。これから改めて、よろしく」
カウンターから離れてゆくサフィールに、レオンはジョッキを掲げて応えたが。
「……ジョッキじゃなんかこう、締まらんな」
と、笑って呟くのだった。




