大雪渓
滑り落ちないようにアイゼンを雪にめり込ませながら、太陽を背にして白馬大雪渓を見上げました。白馬岳の東側の山腹は、強大なスプーンで抉られたように凹んでいます。その凹みに大量の雪が堆積していました。いや大量という言葉なんかでは言い表せません。それは白馬岳に寄り添う、標高600mの雪の山でした。
大雪渓に平地というものはなく、だだっ広い白い雪の斜面があるだけ。アイゼンが無ければ、はるか下の方まで滑り落ちてしまいます。そんな斜面に、ピッケルを突き立て、アイゼンの爪を突き刺しながら、一歩一歩足を運びました。一歩の幅は20センチもありません。登っても登っても、景色が変わらない。同じことの繰り返し。ずっと同じことを繰り返していると、登っているのかどうかの判断すらが曖昧になってきます。
ふと、上を見上げました。先ほどの男の子が、元気よく登っています。かなり距離を開けられました。この大雪渓を登るために定期的にランニングをしてきましたが、トレーニング量が全然足らなかったようです。これほどに辛いとは思いませんでした。足が重くて、遅々として進まない。大台ヶ原で出会った登山家は、僕に言いました。
「急な登りはね、足を置くだけで良いんです。置くだけ。急いでは駄目です」
繰り返し繰り返し、足を置きました。上も見ず下も見ず、延々と繰り返します。太陽が昇ってから2時間が経過した頃、後ろを振り返りました。白馬尻が遥かに下の方に見えます。大雪渓の中腹まで登ってきていました。標高で換算すると2,000mは越えていました。僕が登った最も高い山は、奈良県大峯山系の標高1,719mの山上ヶ岳だったので、その記録を上回ったことになります。でも、白馬岳の登頂を考えると、これでやっと半分。それなのに、この段階で僕の体力はかなり削られていました。
この2,000m付近から、斜度が上がりました。大雪渓の最大斜度が45度とのことですが、登っている僕からすれば60度を超えているのではと思わされます。二本の足だけではもう登れません。ピッケルを斜面に刺しつつ、もう片方の手も雪を掴み、四つん這いになりました。僕の体重を支えている脹脛と太腿が悲鳴をあげていました。
更に悪いことに、この2,000m付近を超えた辺りから風が強くなりました。いや強いなんてものではなく、殴りつけられるような強風です。山間の地形の関係か、大雪渓の真ん中でつむじが定期的に発生しました。そのつむじの威力が凄まじく、その風で身体が浮きました。斜面の雪を巻き上げ、僕の顔や体にその雪の礫を叩きつけてきます。つむじに巻かれるたびに、膝を折って蹲りました。斜面に刺したピッケルを握りしめて、嵐がおさまるのを、じっと待たなければなりません。断続的に襲い掛かるつむじの合間を縫って、また登りました。
そんな格闘を繰り返している頃、山頂から降りてくる三人の登山家の姿を確認します。僕が見上げていると、彼たちの周辺で白いつむじが巻き上がりました。そのつむじに巻かれた一人が体勢を崩します。糸が切れた人形のように転げ落ちました。
――あっ!
小さく叫びました。僕の位置からは遥かに遠く、どうすることも出来ません。目を見開いて見ていると、何とか滑落を停止することが出来ました。仲間らしき二人が、慎重に慎重に駆け寄ります。ただ、どこか怪我をしたのか滑落したその人は動くことが出来ません。強風の斜面の上で、三人が何かをしています。
そんな様子を確認しつつ登っていると、彼らの元から二つの手袋が滑り落ちました。ひとつは明後日の方向にへ、ひとつは僕の方に。その手袋を掴むために少し横に移動し、何とか回収することが出来ました。この大雪渓では手袋をしていても、寒さでかじかみます。それなのに手袋なしでは、あまりの寒さに耐えられないはず。その手袋を持って、僕はその三人の元に向かいました。ただ、これまたゆっくりとしか登れない。じれったい気持ちに苛まれながら、三人のところまで登り切ります。
「大丈夫ですか?」
滑落したのは若い男性で、彼の傍に彼女らしき女性が寄り添っていました。もう一人、僕と同世代ぐらいの壮年がいましたが、二人とは無関係のようです。面倒見の良い方みたいで、心配そうな表情を浮かべていました。彼女が、自信なさげに僕を見ました。
「ええ、なんとか」
僕は手に持っていた、手袋をその男性に差し出します。
「手袋が落ちてきました」
顔を歪めながら、男性が僕を見ました。
「ああ、ありがとうございます」
彼の手は、インナーの軍手だけになっていました。手袋を外していたということは、もしかすると手首を捻ったのかもしれません。しかし、手袋の一つは落ちて行ってしまったので、片一方しかありません。この後の下山が大変だろうと思いました。そんなやり取りをしていると、傍にいた壮年が、僕に声を掛けました。
「風が強いですから、気を付けて登ってください」
僕はその壮年に会釈をしました。
「ええ、ありがとうございます」
これ以上は僕に出来ることが無いようなので、後ろ髪を引かれながらも、僕は登山を開始することにしました。ゆっくりではありますが、一歩また一歩と登っていると斜度が少し緩くなりました。緩くはなりましたが、風は更に強さを増します。前方に大雪渓にしては珍しく岩が露出した場所がありました。その岩に寄り添えば滑り落ちることはありません。這いつくばりながら、その岩に身を寄せました。
滑り落ちる心配はなくなりましたが、風は防げません。強風に煽られながらではありますが、休憩することにしました。ナップザックを肩から下ろします。先ずは行動食のゼリーを口にしました。体力の消耗が激しく、肩で息をしていたからです。水も飲みました。ホッと一息ついたところで、時刻を確認します。
――8時10分。
ヤマップで作成した予定では、これは白馬岳に登頂している時刻でした。現在の標高は2,610m付近。頂上宿舎まではあと150mほど、白馬岳登頂まではあと322mほど高度を上げれば到達できます。道のりで換算すれば、登頂まで片道1.2km程でしょうか。でも、その距離が遠い。現在の僕のペースは、高度を200m上げるだけで1時間も掛かっていました。体力が消耗しきっているこの状態で、これ以上登るのはかなり過酷です。山荘で宿泊する予定なら、無理を押してでも登ったでしょう。でも、僕は降りなければなりません。降りないと大阪に帰れない。それに、何よりも風が怖かった。このつむじが逆巻く大雪渓で、僕も滑落するのではないかという恐怖がありました。つむじに抵抗するだけの体力は、もうありません。
「よし、帰ろう」
口に出すと心が決まりました。未練が無いわけではありませんが、ここが潮時です。撤退することにしました。