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ナイトハイク

 目が覚めました。芋虫のように寝袋に包まっていた僕は、寝袋の口を少し開けて右手だけを伸ばします。テントポケットにあるスマホを掴みました。時間を確認します。真夜中の2時。


 昨晩は、ライターが無いというトラブルを発生させてしまい、食事の開始が遅れました。鶏モモ肉の粕汁で身体を温め、ビールと日本酒で心を温めた僕が寝袋に潜り込んだのは21時だったのを覚えています。予定よりも就寝が1時間以上も遅れてしまいました。寝袋の口を完全に締めて耳を澄ませると、何か強大な野獣が吠えている様な轟音が断続的に聞こえてきます。大雪渓で吹き荒ぶ風の音でした。


 ――テントは大丈夫だろうか?


 時々、風によってテントが揺らされます。割りばしペグの耐久性を心配しながらも、思いのほかグッスリと寝ることが出来ました。


「よし!」


 大きな声を出して、気合を入れました。寝袋から抜け出し、登山に向けて準備を始めます。極力荷物を減らしたいので、テントや寝袋と言った荷物はこのまま置いていきます。ナップザックには、ダウンジャケット、ツェルト、水、行動食を入れました。気温は低いですが、ダウンジャケットは着ません。歩きはじめると、暑さで必ず汗をかくからです。ダウンとツェルトは、遭難した場合の準備でした。遭難はあってはいけないことですが、その対策は必要です。


 下着は、汗をかいても乾燥しやすいように化繊のものを使用しています。その上にフリース。アウターとしてレインウェの上下を着込みました。一見薄いように感じますが、山を登り始めればきっと暑いはずです。登山靴を履いて、それにアイゼンを装着。ピッケルはナップザックに掛けておいて、両手でストックを掴みました。


 地図の代わりとして、頸からスマホを吊り下げています。ヤマップを起動しました。GPSによって僕の現在地が表示されます。登山初心者の僕にとって、このヤマップは必要不可欠のアプリでした。登山道を外れたとしても、このヤマップの地図を見ることで修正することが出来ます。雪上にはトレースがあるとはいえ、足跡は方々に伸びていました。思い込みで歩くと直ぐに道を間違えてしまいます。これから僕は、初めてのナイトハイクを経験します。このヤマップのアプリだけが頼りでした。


 夜空を見上げました。昨晩は星が見えたのに、今は見えません。雲が掛かっているようです。天気予報では、今日は晴れの予報でした。晴れることを願いたい。ヘッドライトを足元に向けます。暗闇の中に白い足跡が浮かびました。この足跡が道標になります。ストックを突きつつ歩き出しました。


 今回、ナイトハイクを決行したのは、白馬で日の出を見たいからです。理想は山頂で拝みたいのですが、流石にそれは難しい。ヤマップを使った登山計画では、山頂の到着は8時の予定でした。日の出は5時5分なので、大雪渓を登っている途中で拝むことになります。現在の時刻は2時半前。あと2時間半は、真っ暗な中、雪道を歩かなければなりません。


 ヘッドランプを頼りに、慎重に歩きました。アイゼンを装着しているとはいえ、足を滑らせてしまえば、どの場所でも転げ落ちてしまいます。特に雪の斜面をトラバースする場合は、細い足跡だけが頼りです。ヘッドライトの光を下の方に向けてみました。光が届きません。どうも崖になっているようです。絶対に足を滑らせてはいけません。慎重に歩きました。


 闇夜の中しばらく歩いていると、後方からヘッドライトの光が幾つも追いかけてきました。足が速い。僕は、細い雪道を開けて、彼らを先行させました。お決まりの挨拶をします。


「おはようございます」


「……」


 無言でした。ちょっと驚きです。山で誰かとすれ違う時は挨拶をするようにしていたのですが、この5人からなるグループは、みんな無言でした。歳の頃は40代くらいかな。装備はしっかりしています。僕は歩き始めたばかりですが、彼らは二股からスタートしたはずです。それなのに歩き方に疲れを感じません。赤穂浪士がこれから討ち入りに行くような緊張感を、彼らから感じました。返事がないことに驚きはしましたが、僕はナイトハイクに不安を感じています。分からない雪道を先行してくれるのはとても有難い。折角なので、彼らの後を付いていくことにしました。


 ただ、彼らは足が速い。ヘッドライトの光がチラつくので、見失うことはありませんが、ジリジリと引き離されていきます。このスピードに合わせると、僕の息が上がるので一旦足を止めました。それと少し疑問に思ったことがあるのです。どうも道が違うような気がしました。ヤマップを立ち上げます。


 やはりそうでした。彼らは登山ルートから外れています。本来であれば、つづら折りに左手の斜面を登っていくのが正規ルートでした。彼らの行き先が心配になりつつも、僕はつづら折りの正規ルートを進むことにしました。ただ、一人になってしまうと少し不安になります。ヤマップのルートでは真っすぐなのですが、幾つかの足跡は更に雪の斜面を登っている場所に出くわしました。ヤマップを信じればよいのか、足跡を信じればよいのか判断が付きません。ヤマップを信じるべきですが、僕は足跡を追いかけることにしました。かなりの急斜面です。足跡があるから間違いはないと思うのですが、気を抜くと滑り落ちそうでした。雪質は柔らかく、つま先を蹴り込まないと足場が作れません。一歩一歩、階段を登るようにしてこの急斜面を登り切ります。


 そこは雪が堆積している広々とした高台になっていました。テントが幾つか張られています。更に、雪のブロックを積み上げたイグルーもありました。後から分かったことですが、ここは白馬尻小屋という場所で、夏はここに登山客のための小屋が設置されるそうです。とても見晴らしの良い場所でしたが、僕が無理に立ち寄る必要はありませんでした。


 この白馬尻から谷を挟んで向かいに、白馬岳主稜が見えます。一般的な登山道は大雪渓を登っていきますが、雪がある季節だけこの主稜を登るバリエーションルートが現れます。アイスピッケルを両手に持って登る上級者向けのルートなのですが、暗い闇夜の中、その主稜を登っていくヘッドライトが5つありました。僕を追い越していった赤穂浪士のグループです。彼らはルートを間違えていたわけではなく、主稜を目指していたのです。感心しながらその5つの光を眺めてしまいました。憧れはしますが、僕はそこまで本格的な登山をするつもりはありません。今は、自分がすべきことに集中します。大雪渓に向かいました。


 白馬尻を出発したのが3時40分。歩みを進めていくと、空が仄かに明るくなってきました。それに従い、大雪渓の威容が姿を現わします。全長3.5km、標高差600m。日本最大規模の雪渓。部分的な最大斜度は45度もありました。


 大雪渓を眺めた後、一旦ナップザックを肩から下ろします。両手に持っていたストックを折りたたみナップザックに収納しました。代わりにピッケルを取り出します。ここからは、いよいよ本格的な雪山登山でした。練習はしていませんが、足を滑らせた場合はこのピッケルを雪に刺して滑落を停止させなければなりません。休憩ついでに、行動食のカロリーメイトゼリーを口にしました。


 ――さてと。


 腰を上げました。ナップザックを背負います。ピッケルを斜面に刺しました。前傾になりながらアイゼンの前爪を雪に刺し込みます。体重を載せたあと、もう片方の足の前爪を雪に刺しました。一歩一歩確実に歩みを進めます。暫く登ると、息が上がりました。想像以上に辛い。背筋を伸ばして、少し休憩しました。首を回したついでに後ろを振り返ります。下の方から誰かが登ってきました。背中にはスノーボードを背負っています。バックカントリーを楽しむのでしょう。このだだっ広い大雪渓で、後方から追いかけられるプレッシャーを感じました。負けじと僕も登り始めます。しかし、直ぐに息が上がりました。結局、追いつかれてしまいます。彼に挨拶をしました。


「おはようございます」


「おはようございます」


 気持ち良く返してくれました。


「登るの早いですね」


「いやいや、そんなことないですよ。二股から登ってきたんですか?」


「いえ、僕はテントで宿泊したから」


「あー、ありました。ありました。二股のゲートが閉まっているって辛いですよね」


「ああ、そうですね。ただ、僕は猿倉まではスーパーカブで登ってきたので……」


「えっ、いいなー。でも、どうやってゲートを通ったんですか?」


「いや、ほら、自転車みたいに、横のところを登って」


「あー、なるほど。そうか~。帰りも二股まで歩くことを考えると億劫で……。ところで、この大雪渓を登っているのは貴方だけですか?」


「いや。ほら、その主稜をアタックしているグループがいます」


「ああ、そうですね。そう言えば、ライトを光らせていましたね。大雪渓は、もっと多くの人が登っていると思っていました」


「元気ですね~。若く見えますが20代ですか?」


「ギリギリです。……あの~、お願いがあるんですが?」


「ええ、どうぞ」


「背中のナップザックから、ピッケルを取ってくれませんか?」


「いいですよ。……はい、どうぞ」


「ありがとうございます。では、先に登りますね」


「ええ、どうぞ。どうぞ」


 愛嬌がある元気な男の子でした。足が遅い僕と違って、ドンドンと登っていきます。ところが、しばらくすると、彼は前方で腰を下ろしました。なんだか寛いでいる様子です。


 ――何故だろう?


 と疑問に思いながら後ろを振り返ると、いま当に太陽が昇る瞬間でした。崩れるようにして僕も腰を下ろします。アイゼンの爪を雪に食い込ませて、ピッケルを斜面に突き立てて、滑り落ちないように体を支えました。大雪渓から見下ろす大パノラマは左右の稜線によって、V字に切れ込んでいます。白い雪渓を舞台にして、その真ん中から赤い太陽が刻一刻と昇っていました。壮大な物語が始まる、序章のようです。昇りきるまで、僕は動くことが出来ませんでした。

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