Ⅲ
「ちょっと遅かったんじゃない?」
俺が大教会の礼拝堂に踏み込むと、アレクセイが俺を振り返った。キラキラとステンドグラスから注ぎ込まれる光を浴びたアレクセイは、まるで虹の中に佇んでいるかのようだ。正装が白を貴重にされているから、余計にその光が映えて見える。
「儀式自体は、無事に終了しちゃったよ」
「ああ。見ていたから、知っている」
教皇が執り行う儀式自体は、すでにつつがなく終了している。今この時間は『祈りと審議の時間』と呼ばれていて、儀式を経た王太子が神と対話をするための時間だ。
この時間だけは、礼拝堂の中から人が締め出され、アレクセイだけが中に取り残される。外の警備は厳しいが、突破さえできてしまえばあとは無防備もいいところだ。
「神がお前の王位継承を拒否した。だからアレクセイ殿下は、祈りと審議の時間の間に、神によって殺された」
理論的に考えれば無茶苦茶だが、他派の人間からしてみれば理論的な思考などどうでもいいはずだ。要はアレクセイが『王太子に相応しくなかった』というイメージがつくシチュエーションで死ねばそれでいいのだから。
「ねぇ、ルーシー。ひとつ、質問いいかな?」
神の奇跡を体現するかのように虹の光が注ぎ込まれる中で、俺達は距離を保ったまま対峙していた。一方は真昼の光を紡いだかのような純白の正装に身を包み、対する一方は夜の闇が凝ったかのように純黒の装束に身を固めている。
何から何まで相容れない。
そうでありながら、白は黒に焦がれるような視線を注いでいた。
「僕が生き延びたことで、少しはマシな世界になったかな?」
アレクセイが口にしたのは、前回ここで肩を並べた時にも向けられた問いだった。その問いに答えをもらえるまでは死ねないとばかりに、アレクセイは真っ直ぐに強い視線を俺に据えている。
「『悪』に縋る以外に道を選べない人々が、少しでもそれ以外の道を選ぶことができるような。そんな世界へ進むきっかけを、僕は作り出すことができたかな?」
「……ああ」
その問いに。前回は答えられなかった問いかけに。
今の俺は、答える言葉を持っている。
「変わっていたよ。俺がかつて生きていた世界も」
師匠が俺を担ぎ込んだ隠れ家は、かつて俺が暮らしていた教会孤児院の教区にあった。
死んだことになっている俺は、万が一知り合いと顔を合わせたらマズいと思って、師匠に引き抜かれてからは一度もこの教区に足を踏み入れてなかった。
だから今回、体力回復のために町の中で走り込みをしていて、ようやく俺はこの町が徐々に変化していっているのだということに気付いた。
「治安も衛生もかなり改善されて、身寄りのないチビでも、家の外で無邪気に笑って遊んでいられる町になってた」
安全な町は、活気も生まれる。俺が暮らしていた頃よりも商店が増えて、人々の生活が豊かになっているのを感じた。もしかしたら俺が暮らしていた教会孤児院も、暗殺者達に庇護を求めなくてもやっていけるようになっているかもしれない。
「お前が上奏してくれた政策なんだってな」
食料品の買い物ついでに町で暮らす人々にそれとなく話を訊いてみたが、何がきっかけでここまで状況が変わったのか、住人達は分かっていないようだった。ただ良い風が吹いて、その風が自分達の周りを明るく照らしてくれるようになった、という感じの言い回しを皆がしていた。そう語る住人達は皆、明るい表情をしていた。
だから俺は王宮に乗り込む策を立てるついでに、色々と調べてみた。
そうやってしていて分かったのは、アレクセイが政に関わるようになってから、度々民の生活の改善のための施策を王に提言し、実現させてきたということだった。
「誰が奏上していたっていいんだ。その施策がきちんと実行されて、きちんと民の生活が良くなっているならば」
俺の言葉に、アレクセイは嬉しそうに微笑んだ。心底嬉しくって仕方がないという、俺に好意をダダ漏れにさせていた時とは少し色が違う、今までの道を噛みしめるかのような笑い方だった。
その笑顔に、俺の心の奥底が揺れる。『デス・ザ・スターキッド』になりきれていない『ルシウス』の部分が、迷いに揺れているのが分かる。
──アレクセイを殺すことは、正しいことなのか?
いや、殺しに正しいも正しくないもない。全て等しく正しくないに決まっている。
暗殺者は、依頼を受ければ殺すだけ。そこに己の意思は関係ない。
今までの俺なら全て割り切れた。迷うことなどなかった。
だけど、こいつは……
「でも、君の口から、その言葉が聞けて良かった」
「……っ」
そんな俺の迷いを見抜いているかのように、アレクセイは呟いた。そのままはにかむように俺に笑いかける。
──こいつは……
アレクセイは、俺との出会いを通して、俺の言葉を聞いて、行動を起こしてくれた。俺が夢物語だと思っていた儚い願いを、部分的にとはいえ実現に導いてくれた。
いわば俺は、アレクセイに恩がある。俺が『どうにかしてくれ』とアレクセイに縋りついたわけでもなければ願ったわけでもないが、それでも俺はアレクセイの行動を『恩』だと感じてしまった。
そんな相手を、薄汚い王宮の陰謀のために、殺してしまっていいのだろうか?
果たしてそれはデス・ザ・スターキッドとしての美学に照らし合わせて考えた時に『美しい』と言えるものなのだろうか。
「ルーシー」
美しく微笑むアレクセイは無防備で、その気になればすぐに殺せそうだった。
世間から見れば今この空間にはアレクセイ一人しかいない。このままアレクセイを殺し、跡形もなく俺が消えてしまえば、きっと世間は百年経ってもアレクセイを殺した人間の正体には辿り着けないだろう。
まさに仕事にうってつけのシチュエーション。
だというのに俺は、ナイフを抜いたものの構えることができていない。
「迷ってくれて、ありがとう」
不意に。俺が迷ってしまったその隙に。
俺へ向けた笑みを、アレクセイは唐突に深めた。
その笑みが一瞬ですり替えられたとに気付いた俺は、本能的にナイフを構える。
「ルーシーが優しかったおかげで、間に合った」
「あーあー、まさか殿下の勝ち逃げとは」
同時に、俺の手の中からはナイフが消えていた。
それどころか、顔の上半分を覆っていた仮面と体をスッポリ包んでいたマントも、一瞬のうちに剥ぎ取られている。
俺を相手にそんな真似ができる人間など、世界中に一人しかいない。声の方を振り返ると、案の定俺の隣に、いつの間にか俺から剥ぎ取った仮面とマントを装着し、俺から奪い取ったナイフを手の中で弄ぶ師匠が立っていた。
ってか近っ!! いきなりな上に立ち位置ちっか!!
「し、師匠っ!?」
「馬鹿弟子、もうアレクセイ殿下を殺さなくていいぞ」
「はぁっ!?」
さらにはそんな言葉まで投げかけられた俺は、状況も忘れて素っ頓狂な声を上げていた。
そんな俺に対し、師匠は実に悩ましげに仮面に覆われた眉間に右手の指先を添えると、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「依頼人がアレクセイ殿下の配下に捕縛されてしまってな。依頼を完遂しても報酬が振り込まれない状況になった上に、依頼人を捕縛したアレクセイ殿下から直々に『依頼が行っていることは知っているんだぞ』という趣旨の脅しがギルドに届いた」
「嫌ですね、初代。僕はお話し合いを申し込んだだけですよ」
そのクサい仕草に鳥肌が立った俺が反射的に横へ飛び退くと、さらに師匠はとんでもないことを口にする。そんな俺達に対し、場の主導権を裏で握っているらしいアレクセイは、俺が事態を理解するよりも早くニコニコと師匠に反論を並べ立てていた。
え? お知り合い、で?
「私にロズウェルの『おいた』についてタレ込んできたのが、そもそもアレクセイ殿下でな」
そもそも、俺にアレクセイ暗殺の依頼をしてきたのは、第三王子エドワードその人であったらしい。
俺の初回暗殺が失敗した直後からその情報を掴んでいたアレクセイは、エドワード捕縛のタイミングを図りつつ、俺周辺と王宮の影で跋扈する権謀術数に耳を澄ませて情報を集め、『烏の王冠』を交渉の場に引きずり出す機会を狙っていたらしい。
……交渉? いや、交渉って、何を?
「本来、王族の暗殺を企てるなんて大罪だ。関わった人間は皆死罪。依頼人も、実行犯も、みんな処刑されるのが常だ。依頼がギルドを通じてなされたならば、ギルドも殲滅対象に入る」
先程まで年相応に無邪気な笑みを浮かべていたはずであるアレクセイは今、獲物を前にした猫のような笑みを浮かべていた。嗜虐と夜の艶を思わせる……俺の本能が激しく警鐘を鳴らす笑い方だ。
「でも、僕は今、優秀な影護衛を欲していてね。どうしても手に入れたい人材が殲滅対象の中に含まれてしまっていたものだから、なるべく殲滅は実行したくない」
俺の足が無意識のうちにジリッと下がる。意外なことにアレクセイは、無闇に距離を詰めてこようとはしなかった。
代わりになぜか、師匠がさり気なく俺の退路を防ぐ。……って、いや、何でっ!?
「だから事の元凶と交渉で済むように、色々と調整したんだ」
ニコリと笑みを深めたアレクセイは、スッと指を一本伸ばした。
「まずひとつ。依頼人が捕縛された時点で僕の暗殺を諦め、金輪際僕関連の依頼は断ること」
……うん。すごく真っ当だ。
なるほど。さっき師匠が口にした『殿下の勝ち逃げ』とか、アレクセイが口にしていた『間に合った』とかいう発言は、この『依頼人が捕縛された時点』というタイムリミットのことを指していたのか。
思わず納得する俺の前で、アレクセイはさらにスッともう一本指を伸ばした。
「そしてもうひとつ。僕が生き延びた時は、今回の詫びとして、二代目デス・ザ・スターキッドの身柄を僕に献上すること」
詫び? 献上? 何を? てか誰を?
いや、『二代目デス・ザ・スターキッド』……つまり『俺』をアレクセイに献上っ!? 今そう言わなかったかっ!?
「はぁっ!?」
「いやぁ、まさかこんなに早く愛弟子を嫁に出すことになるなんてなぁ。考えてもいなかったなぁっ!」
完璧に裏返った声を上げる俺の後ろで、師匠が棒読みもいいところな声を上げていた。さらに師匠は『ヨヨヨヨヨ……』と口で呟きながら、どこからともなく取り出したハンカチを仮面越しに目元に当てる。
いや、師匠っ! わざとらしい嘘泣き演技なんていらねーっすよっ!
てか『嫁に出す』って何だよっ!? 『嫁に出す』って!!
俺は男で、アレクセイも男っ!! 俺達、男同士なんですがっ!?
「ルシウス」
展開が予想のナナメ上すぎて、俺は口をパクパクさせることしかできない。
そんな俺に正面から向き直った師匠は、俺の両肩にポンッと両手を置いた。
「すまない、ルシウス。『烏の王冠』存続のためには、お前を殿下に差し出すしかもう道がない」
「そっ……」
「暗殺者の私達も驚愕するくらい、アレクセイ殿下はやり手でな。ギルドマスターと頭を捻ったんだが、逃げ道がすでに微塵もなかった」
「なっ……」
「すでに『高貴なる闇』がアレクセイ殿下の手で潰されかかっていてな。その手腕を見せつけられたせいで、いかんともしがたい。というよりも、殿下は『烏の王冠』を脅すためだけに、見せしめとして『高貴なる闇』を潰した感じがあってな」
「はっ……」
「すまない、ルシウス。デス・ザ・スターキッドには私が復帰する。心置きなく引退し、アレクセイ殿下と余生を送ってくれ!」
そこまで一方的にまくしたてた師匠は、バッとマントを翻す音を残して忽然と姿を消してしまった。
ただどこからか、声だけが聞こえてくる。
「喰われないように気を付けて、達者に暮らせ、愛弟子よ!」
「無茶を言うな、クソ師匠ぉぉぉっ!!」
この状況でっ!! こんな風に身柄を差し出されてっ!!
俺の身が喰われずに済む道がどこにあるっつぅんだよぉぉぉっ!!
そんな内心を全力で叫んでみたところで、もはやどうにもならない。
気付いた時には、俺と師匠の叫びの余韻がこだまする礼拝堂に、俺とアレクセイだけが取り残されていた。
……え? これ、どうすればいいの? もしかして俺、さっそく貞操のピンチ?
「ルーシー」
俺は思わずそのまま体を強張らせる。
そんな俺の背後から、キラキラと光が散っている様が目に浮かぶような声が飛んできた。いや、小花が散っているようなと表現した方が適切だろうか。
って、いやいやいや。今はそんなことどうでもいい!
俺はありったけの勇気と力を振り絞り、全身をギシつかせながら背後を振り向いた。もちろんそこにはアレクセイがいて、俺の記憶史上最高に煌めいた笑顔を俺に向けている。
「王太子披露宴が終わったら、次は結婚式だね!」
「待て、何がどうしたらそうなるっ!?」
「ハネムーンはどこがいい? 候補はある?」
「話を聞けっ!!」
「え? この状況で逃げられると思っているの?」
俺は思わず後ずさる。だがなぜかごくごくゆっくりと足を進めているはずであるアレクセイとの間合いは広がっていかない。むしろ、確実に距離は詰まってきている。
「逃げられないし、逃さないよ、オニイサン?」
結局、俺は逃げ出すこともできないまま、アレクセイに捕まってしまった。
本能的に、分かっていたのかもしれない。
俺のために世界を変えようと動き、俺を手に入れるためだけに暗殺者ギルドをふたつも手玉に取ったこの王子様から、もう俺はどう足掻いても逃げ出せないのだということに。
十二年前のあの時から、俺はこいつの獲物だったのだということに。
「ひとまず、囲い込みには成功したから」
俺の手をそっと掴み、下から俺の顔を覗き込んだ麗しい王子様は、執着を隠さない顔でうっとりと微笑んだ。
「だからゆっくり、僕のところに堕ちてきて?」
その言葉に、俺の全身にゾワッと鳥肌が立つ。
同時に、心のどこかがキュンッと痛んだのは、きっと気のせいだ。……気のせいったら気のせいだっ!!
「お、おおお堕ちたりなんか! しませんっ!!」
俺は全力でアレクセイの手を振り払うと、シャカシャカシャカと壁際まで必死に後ずさる。そんな俺を見て、アレクセイは楽しそうに、少年らしい顔で笑っていた。
その笑い声に驚いたかのように、注ぎ込まれる極彩色の光が揺れる。
相変わらず俺にとっては、神様もアレクセイも意味不明で理解できない、人知を離れた存在だけども。
──ま、でも。
こんな結末は、悪くもないのかもしれない。
その結論に落ち着こうとしている俺は、結局アレクセイに絆されているのかもしれなかった。
いやっ! でもっ!!
──俺はまだっ!! そういう意味では清いままでいたいんだぁぁぁあああああっ!!
というか、そういう意味では永遠に清いままでいいんだがっ!?
もしかしたら俺は、今からでも、我が身を守るためにこいつを暗殺した方がいいんじゃないか?
俺は脳裏で『【急募】暗殺対象の王子の執着から逃れつつ暗殺を完遂する方法』という文言を駆け巡らせながら、ひとまず逃げを打ったのだった。