Ⅰ
僕を刺客から救い出し、教会まで運んで看病してくれたその人は、僕に名前を名乗らなかった。余所者である僕を警戒していたのかもしれないし、もしかしたら明らかに訳ありである僕が名乗らなくて済むように、あえて自分も名乗らなかったのかもしれない。
周囲の幼子達は『ルチル』とか『ルーチー』とかと呼びかけていたけれど、僕は彼のことを『オニイサン』と呼ぶことにした。どのみち、捜索隊が僕を見つけるまでのわずかな間だけしか関わり合えないのだ。あえて名前を呼ばなくてもいいと思った。
「殺しを、ひと括りに『悪』だとは、言われたくねぇんだよな」
神父様と呼ばれていた男が用意してくれた薬湯のおかげで、僕の熱はビックリするくらい簡単に下がった。教会に担ぎ込まれた時点で一度目が覚めて、そこで薬湯を飲んでコトリと意識が落ち、次に目を覚ました時には熱が下がっていたから、翌朝には熱が下がっていたことになる。
「確かに、良くないことだ。殺さず、殺す者に縋らずに生きていけるなら、その方がいい。自身の意思を以て殺しをしている俺自身は、間違いなく『悪』だと思う」
どうしてそんな話になったのかは、覚えていない。
覚えているのは、この件だけだ。
僕のその後の人生を決定付けた、大切な大切な言葉達は、この時の彼の唇から紡がれた。
「だけど殺しを一律に『悪』ってされちまったら、俺が生み出してる仮初の平和の中で生きてる人達も、『悪』に縋ってるってみなされて、一緒に『悪』って判断がされちまうんじゃないか?」
当時の僕には、少し難しい話だった。
ただ、鮮烈な夕日が差し込む小さな寂れた礼拝堂の中で、ささやかに形作られたステンドグラスを見上げるオニイサンの横顔が、酷く静謐だったことだけは覚えている。
「誰かが、世界の構造ごと、まるっと作り変えてくれたらいいのにな」
その日まで、僕は知らなかった。
日々のパンを手に入れることさえ難しい人々が、同じ都に暮らしているということ。まだまだ自身だって子供であるのに、武器を取り、手を血に染めなければ、安らかに眠る家さえ守れないような暮らしをしている人がいるということ。
そんな人達が、いつも心のどこかで『こんな世界を誰かに変えてほしい』と願っていること。教会にはそんな願いを抱えてやってくる人々も多いけれど、ただ祈るだけでは世界なんて変わりっこないということ。
「誰もが『悪』に縋る以外の選択肢をいくつも選べるような、そんな世界を、誰かが創ってくれればいいのにな」
……僕になら、その力が手に入るかもしれないと思った。
僕は、この国の第一王子だ。生まれつき体が弱くて、誰にも成人を望まれていないけれども。
それでも、賢く生き延びることさえできれば。
王族として、国王に近い立場に立って、政に関わることができれば。オニイサンが夢物語だと語った世界を、実現できるかもしれない。
生きる目的がなかった僕の人生に、道が開いた瞬間だった。
「……え、ちょっ! お前、何泣いてるんだっ!?」
その時抱いた感情を何と呼べばいいのか、僕はいまだに理解できていない。
ただ僕はあの時、言葉にできない感情が胸からあふれ出てしまって、ただただ静かに泣いていた。
「お前ってば、本当によく泣くやつだなぁ」
呆れたように笑って僕の涙を指先で拭ってくれたオニイサンは、僕のためにとっておきの『秘密』を教えてくれた。
それだけじゃない。
「そんな目ん玉が溶け落ちそうなくらいに雨を降らせてるお前の心に、いっちょ俺が虹をかけてやるよ」
そう啖呵を切ったオニイサンは、僕のためだけに歌ってくれた。あの時に聞いたオニイサンの賛美歌以上に美しい音色を、僕は今になっても知らない。
宝玉眼の歌天使。
その名にふさわしい歌声は、間違いなく僕の心に虹をかけてくれた。
✕ ✕ ✕
「殿下」
タイラーからの呼びかけにハッと我に返った。慌てて顔を跳ね上げれば、タイラーが気遣わしげに僕のことを見つめている。
「すまないね、タイラー。ちょっと感慨深くて、ボーッとしてしまっていたみたいだ」
僕はタイラーを安心させるために小さく微笑んだ。言葉ほど大丈夫ではないということは、きっと見透かされてしまっているだろう。だがそれでも僕は『大丈夫だから』と言葉を重ねる。
僕の十八歳の誕生日は、まるで天までもが僕を祝福しているかのように、スッキリと晴れ渡った穏やかな天候となった。
ここまでの怒涛の日々を乗り切った僕は今、華やかな装束に身を包み、まさにこれから立太子式に臨もうとしている。
だが誰よりもこの晴れ姿を見てほしかった人の行方は、結局今に至っても生死さえ分かっていない。
──生きていれば、必ず今日、僕の前に姿を現すはず。
デス・ザ・スターキッドの依頼完遂率は100%。敵勢力は、僕が正式に王太子と認められる前に僕を殺したいと願ったはず。ならばタイムリミットはそう長くはない。
ただしそれは、他の暗殺者にとっても同じ条件であるはずだ。
「サルストール卿」
僕はそっと気を引き締める。
そんな僕の耳に、タイラーを呼ぶ声が飛び込んできた。タイラーとともに声がする方を振り返れば、侍従の一人が焦った顔でこちらへ駆け寄ってくる。
「出立直前に申し訳ございません。実は……」
何かトラブルでも起きたのだろう。タイラーの傍らで足を止めた侍従は、タイラーの耳元に口を寄せて何事かを囁く。僕にその内容は聞き取れなかったが、余程重大なことが起きたのだろう。サッと顔色を変えたタイラーが一度険しい顔で侍従を見やり、次いで僕に視線を投げる。
それだけでタイラーが何を言いたいのか分かった僕は、小さく頷きながら唇を開いた。
「何か大変なことが起きたようだね」
僕の言葉に一瞬、タイラーがグッと表情を険しくする。だが結局タイラーは、余計なことは言わずに首を縦に振ることで答えた。
そんな頼りになる侍従長に、僕は穏やかな笑みを向ける。
「僕は大丈夫だ。タイラー、行ってきてくれ」
この流れは予測できていた。タイラーと僕の間で打ち合わせも終わっている。
それでも一瞬、タイラーは渋るように唇を躊躇わせた。そんなタイラーの背中を押すように、僕は笑みを深めて言葉を付け足す。
「遅刻するなよ?」
僕のイタズラめかせた言葉で、ようやくタイラーも決心がついたらしい。
「すぐに戻ります。……殿下、どうかお気をつけて」
おっと、タイラー。そんな余計なことを言ったら、向こうに勘付かれてしまうかもしれないじゃないか。
「君もね」
そんな内心を綺麗に隠してタイラーを見送る。
タイラーが侍従を連れて部屋を出ていくと、途端に室内は静かになった。元々タイラーがうるさかったわけではないのだが、不自然すぎる静寂に僕という存在が浮き出ているような気がする。
儀式に出立する直前。大教会までのパレードに出向く前の僕に用意された控えの間は、雑多な人の気配にさらされないよう、少し表からは離れた場所に位置している。
本当は居室を控えの間として使うのが一番安全ではあったのだが、居室からだと表まで距離がありすぎるという話になり、最終的な時間調整のための部屋が普段の僕の行動範囲外に用意されることになった。
そう、ここは本来、僕の行動範囲外。僕のホームではない場所は、僕を殺すのにうってつけの場であるはずだ。
「……誰かいるんだろう?」
僕は不自然すぎるほど静かな空気の中に問いを投げた。
「時間が勿体ないから、早く出ておいで」
「……おやおや」
案の定、僕の他に誰もいないはずである部屋の中から声が返ってきた。
椅子から立ち上がり、声の方を振り返れば、カツリ、という微かな足音とともに、不愉快な人影が姿を現す。
「俺に気付くよりも早く、サクッと殺してやろうと思ってたのに。まさかご自身で呼び立てるとは」
燃えるような赤毛を揺らし、翡翠の瞳を細めて笑っていたのは、ロズウェルだった。
一連の儀式に一切参加できないロズウェルは、普段と変わりない服装に身を包んでいる。そんな中、体の後ろに回した手に握られた細身のナイフが、チリチリと部屋に差し込む光を微かに反射させていた。
こいつは、やろうと思えば、僕を殺す瞬間まで凶器の存在を覚らせなかったはずだ。
つまりこれは、分かりやすい脅し、ということなのだろう。
「最後に聞かせてくれないか。君を雇ったのは誰だい?」
「最後、だなんて。どうせこの流れを想定して、対策は打ってあるんだろう? 情報を引き出そうったって、そうはいかないさ」
確かに、その通りだ。
僕を確実に始末したいならば、やれるタイミングは限られてくる。僕の行動スケジュールは皆に知られているから、向こうも計画は立てやすかったはずだ。
そして僕達の方も、タイミングが予測できれば対策もできる。
だが相手はそこにまで対策を講じてきたらしい。
「時間稼ぎをしようとしても無駄だよ、殿下。分かっているだろう?」
「っ……」
そう、分かっている。
今、この部屋の周囲は不自然なほどに静かすぎる。部屋の外にいるはずである衛兵の気配さえしない。僕とタイラーが配備したはずである、影護衛の気配さえ、ひとつも掴めない。
──カインが動いたか……!
「殿下。殿下の下に潜り込んでいたネズミは、案外数が多かったみたいだね?」
焦燥は顔に出ていないはずだ。それでもロズウェルは追い詰めたネズミを前にして笑う猫のように嗜虐的な笑みを見せる。あとは自分が王手を指すばかりだと、確信できている者の笑みだ。
「そうだったのかもしれないね」
元々の配備が無効化されてしまっているならば、後は呼び出されたタイラーが一刻も早く戻ってきてくれることに賭けるしかない。
ただ、向こうも僕達がそう考えることは読めているはず。タイラーは今、本当にタイラーでしか対処ができない、かなり面倒くさいトラブルで呼び出しを喰らってしまったはずだ。
──力を貸して、ルーシー。
僕はさり気なく体の後ろに腕を回すと、いざという時のために袖口の中に仕込んでおいたナイフに指を伸ばした。
ルーシーがずっと袖口に暗殺用のナイフを仕込んでいたことは知っていた。ルーシーはカソックを着ていた時代も、そこにナイフを仕込んでいたから。だからいざという時のために、参考にさせてもらった。
──武術が苦手な僕が自分で武装しているとは、こいつもカインも思っていないはず。
事実、武術は苦手だ。僕が刃物を握ってみたところで、実際どれだけ役に立つかも分からない。
ただ僕は、こんなところであっさりと、こんなヤツに片付けられるわけにはいかないんだ。
「無事に立太子式が終わったら、大掃除をしなくちゃね」
──僕は生き延びて、僕の人生の目的を果たす。
覚悟とともに、僕はロズウェルに笑いかけてやった。その笑みを、死を前にした僕の虚勢と受け取ったのだろう。僕を憐れむかのように微笑んだロズウェルは、その笑みを消さないままスッと一歩前へ出る。
「そうだな」
だがその笑みは、次の瞬間凍りついていた。
「立太子式が終わったら、と言わず、立太子式が終わるまでに片付けるか」
しっとりと部屋の空気の中に染み入るように、その声は響いた。
同時に、ロズウェルの首筋から一筋、朱色の軌跡が宙を舞う。
「……っ!」
反射的にロズウェルは真横へ体を逃がしていた。それでもしぶいた血潮が絨毯に散る。
ロズウェルは信じられないという顔をしていたが、対面で全てを見ていたはずである僕も、信じられなかった。
そこにはいつの間にか、闇がわだかまっていた。
体をスッポリと覆い隠す漆黒のマント。中からチラリと覗いている衣服も黒で、ほっそりとした指先も漆黒の手袋に包まれている。装飾に使われた銀と手に握り込まれた細身のナイフが、まるで夜闇の中で輝く星々のように慎ましく輝きを添えていた。
顔の上半分は銀の仮面に覆われていて、詳しい容貌は分からない。だがほっそりとした顎へ続く曲線は、優美な顔立ちを彷彿とさせる美しさがあった。
首筋でひとつに括られた髪は、全身を包み込む漆黒よりもなお深い艶やかな純黒。そんな黒と銀で構成された存在の中で、唯一仮面の下から敵を見据える瞳に散った金が存在を主張している。
「ルーシー、テメェ……!」
「俺の名前はデス・ザ・スターキッド」
混乱から憤怒に感情が切り替わったのか、ロズウェルは首筋の傷口を押さえながら荒っぽい声を上げた。
そんなロズウェルと、呆然と見つめることしかできない僕を傲然と見据え、『彼』は初めて僕の前で名乗りを上げた。
「『名前を笑ったヤツは皆殺し』をモットーとする暗殺者。ふざけた名前をしているが、これでも依頼完遂率は100%。現在のマトは、ルーベンス王国第一王子、アレクセイ・ブロワ・ルーベンス」
そこまで一息に言い切った『彼』は、手にしていたナイフを逆手に構えると悠然とロズウェルに笑いかけた。
「悪いがそいつは、十二年前から俺の獲物だ」
──十二年前。
その言葉に、涙腺が勝手に緩んでいくのが分かった気がした。
「悪いが、俺の獲物を横取りしようってんなら、俺がお前を消す」
仮面で顔が半分隠れていても分かった。
『彼』は十二年前に僕を救ってくれた時と同じく、あの殺意が混じった極上に麗しい笑い方で今、ロズウェルに笑いかけているんだってことが。