Ⅲ
俺が助けた子供は、夕方に一度目を覚ました。その時はまだ熱が高く、意識が朦朧としていたようだったが、神父様特製の薬湯を飲んでコトリと眠りについた後は、スルスルと熱も引いていった。
一晩付きっきりで様子を見ていた俺が仮眠から目を覚ました時には、もう夜が明けていた。その光で目を覚ましたのだろう。子供もそう間を置かずに目を覚まし……同時に、俺から逃げ出すかのようにベッドの上で体を跳ねさせた。
「あー、大丈夫だ。お前に手は出さねぇよ」
その様子と怯える表情で子供の意識が正常であることも、記憶が飛んでいないことも察した俺は、開いた両手を肩の上に掲げながら少しだけ体を引いた。『こちらから君を害するつもりはありませんよ』という意思表示だ。
「ここはササニ教区の端にある教会孤児院。暴漢に襲われてるあんたを、俺がたまたま助けた。体調は大丈夫そうか?」
フーッ、フーッ、と無言のまま警戒を強める子供に、俺は簡単に状況を説明してみた。俺から距離を取るかのようにベッドの奥に体を寄せた子供は、無言のまま俺を睨みつけている。
……うん。ここで下手に騒ぎ立てようとしない辺り、こいつはかなり賢い上に、度胸が据わっている。もしかしたら日々、こういう状況に陥ることを想定した訓練を受けていたのかもしれない。
……ということは、だ。
「お前、自力で帰れる? もしくは、迎えが来たり、迎えを呼べたりできる?」
当人にそういう訓練が施されているということは、周囲にも同様の訓練が施されているということでもある。
簡単に言ってしまえば、捜索隊が組織されている可能性が高い。
「俺はあんたが何者なのかを知らない。知りたいとも思っていない。面倒事に巻き込まれたくはないんでね」
俺は言葉を選ぶことなくサクサクと告げた。
「ただ、あんたをきちんと親元に帰したいとは思ってる」
そのまま言葉を続けると、子供は初めて警戒以外の表情を顔に浮かべた。
『疑問』だ。
「なぜ」
掠れた声は、少しだけ高熱の余波を残していた。やはりもう少し休ませた方がいいかと、俺は内心だけで顔をしかめる。
「なぜ、そこまで、僕を助ける?」
「あんただから助けたわけじゃない。教会孤児院でチビどもを守る立場にある者として、チビはほっとけないから助けてやるだけだ」
その言葉でようやく子供は、俺の服装に意識が行ったようだった。『教会孤児院……』と小さく呟いた子供は、俺が纏うカソックや、質素な小部屋の様子、窓の外に見える礼拝堂の尖塔の景色で、俺の言葉を信じる気になったらしい。
フーッと、空気が抜けていくかのように子供の肩から力が抜けていった。
何とか警戒を解くことに成功したと察した俺は、それまで腰掛けていた丸椅子を引いて立ち上がると、部屋のドアに手をかけた。
「メシ持ってくる。あんたはここでもうちょっと……」
「あ……っ、ぼっ、僕がそっちに行くっ!」
『ここで休んでな』と続けるつもりだった言葉は、子供の声に遮られた。『ん?』と疑問を込めて振り返れば、子供はいまだに険が抜け切っていない視線を俺に据えている。
……なるほど? 差し出される食事を疑いなく受け取っていたら、何を盛られるか分からねぇもんな? いい警戒心だ。
「いいぜ、着いてきな」
自ら生きようと足掻く人間は嫌いじゃない。生きるための努力と警戒心を忘れない人間も、だ。
俺は笑みを閃かせると、まだ乾ききっていない子供の靴の代わりに、俺の予備の靴を用意してやった。
✕ ✕ ✕
「オニイサン、ここにいたの?」
そう声をかけられたのは、子供が目を覚ました日の夕方のことだった。
俺が助けた子供は、周囲への警戒心が解けると、俺がビックリするくらいスルリとチビ達の中に溶け込んでいった。朝食のパンとスープを平らげた後にはすでにチビ達に囲まれていて、そのままチビ達に遊びに連れ出されていってしまったくらいだ。
子供当人は一瞬窺うように俺のことを見ていたが、俺がヒラリと手を振ってやるとそのまま嬉しそうに遊びに出ていった。ま、チビ達もこの教区で育ったガキだ。危ない人間に見つかるような遊び方はしないはずだと、俺は子供の世話をチビ達に任せて、俺がこなすべき仕事を片付けていた。
「ここで何をしていたの?」
子供は俺のことを『オニイサン』と呼ぶことにしたようだ。俺が『ルチル』とか『ルーチー』とかと呼ばれているのを聞き知っているはずなのに、頑なに俺の名前を呼ぼうとはしない。そこに一種の線引きを感じ取った俺は、こちらからも子供の名前を訊くことはしなかった。
ま、捜索隊がこいつを迎えに来るまでのひと時の間の縁だ。お互いに知らないままでいた方がいいこともあるということだろう。
「修道士が礼拝堂ですることなんて、限られてると思うんだがなぁ」
とはいえ、こんなに気軽に声をかけてくるとは打ち解けたものだ。チビ達と一緒に遊んでいる間に、俺への警戒心も解けたのだろう。
「お祈り?」
祭壇前に跪いて祈りを捧げていた俺は、立ち上がりながら子供を振り返った。きちんと扉を閉めてから俺の方へ歩み寄ってきた子供は、小さくて貧相なステンドグラスと俺を交互に見上げながら首を傾げる。
「オニイサンも、神様にお祈りするの?」
「何か変か?」
「だって、オニイサンは」
人殺しなのに、という言葉を、子供は寸で飲み込んだようだった。
踏み込みすぎたと思ったのか、礼を失したのかと思ったのか、どちらなのかまでは分からない。ただハッとしたように慌てて両手で口を塞ぐ様は、見ていて何だか愛らしかった。
だから俺は、溢れ出る笑みもそのままに、子供の頭をウリウリと撫でくり回してやった。『わっ!?』と驚きの声を上げた子供に遠慮することなく、気が済むまでウリウリしてやってから、俺は近場にあった長椅子に身を投げ出すようにして腰掛ける。
「殺しを、ひと括りに『悪』だとは、言われたくねぇんだよな」
ステンドグラスを見上げたまま、囁くように呟いた俺に、子供は戸惑いを顔に広げたようだった。
ま、そういう顔にもなるよな。だってどう考えたって、殺しは『悪』なんだから。
「確かに、良くないことだ。殺さず、殺す者に縋らずに生きていけるなら、その方がいい。自身の意思を以て殺しをしている俺自身は、間違いなく『悪』だと思う」
その戸惑いをすくい上げるように、俺は自ら言葉を紡いだ。的確に相手の心情を読み取れていたのか、俺の発言を受けた子供は『ならばなぜ』という疑問を続けて顔に広げる。
……お前、本当に賢いヤツなのな。
ただ、そうやって何でもかんでも顔に出してちゃ、悪い大人達に太刀打ちできねぇぞ?
「だけど殺しを一律に『悪』ってされちまったら、俺が生み出してる仮初の平和の中で生きてる人達も、『悪』に縋ってるってみなされて、一緒に『悪』って判断がされちまうんじゃないか?」
その賢さと素直さに免じて、俺は俺が思う疑問をこいつに聞かせてやることにした。神に仕える身だからこそ思う疑問ってやつだ。
……いや、本当はただ、誰でもいいから話したかっただけなのかもしれない。
数日のうちに、ここから姿を消すであろう子供。賢くはあるが、俺の言葉と思いの全てを理解できるほど賢くもなければ、世界の広さを知っているわけでもない。
そういうヤツは、俺の『愚痴』を聞かせるのにうってつけだから。
「誰かが、世界の構造ごと、まるっと作り変えてくれたらいいのにな」
神に祈ったって、神が世界を変えてくれるわけじゃない。直接パンを恵んでくれるわけじゃない。直接悪漢からチビ達を守ってくれるわけじゃない。
そうであったなら、俺は殺しなんてしなくても良かった。自分の身を守るために、自分の周りにいるチビ達を守るために、ナイフに手を伸ばすことなんてせず、ただひたすらに祈るだけで済んだならば。
それはどれだけ……どれだけ、幸せなことだっただろう。
「誰もが『悪』に縋る以外の選択肢をいくつも選べるような、そんな世界を、誰かが創ってくれればいいのにな」
自分の生まれを呪ったことなんてない。呪えるほど、他の生活を俺は知らなかったし、この生まれを呪うには俺は愛に囲まれすぎていた。
みんなが、大好きだから。
俺が殺しの道を選んででもみんなを守りたいと思ったくらいに、大好きだから。だから俺はこの生まれを呪うことはできない。
だから、願うことは、いつだってただひとつ。
──世界の構造を、誰かがまるっと作り変えてほしい。
それが神であっても、神でなくても構わない。
ただみんなが平和に、穏やかに、幸せに生きられる世界が訪れてほしい。
その祈りを、俺は時々こうして一人、この場所で捧げている。
……なーんて、ま。こんな子供にしても、仕方がないんだけどな。
「悪ぃ、難しい話をいきなりしちまって……って」
ただ口に出して少しだけスッキリはした。
その感謝とともに子供の方を見やった俺は、そこでようやく子供の異変に気付いてギョッと目を瞠った。
「え、ちょっ! お前、何泣いてるんだっ!?」
途中から妙に静かだなとは思っていたが、なんと子供は無言のままポロポロと涙をこぼしていた。『ヤッベ、そんな泣くような場所あったか?』と焦りながらも、俺はカソックの袖で子供の涙を拭ってやったが、子供の涙はなかなか止まってくれない。
そのうち俺は、何だかおかしくなってきてしまって、笑ってしまった。
「お前ってば、本当によく泣くやつだなぁ」
「! な、そんなこと……っ!」
「いやいや、今日だってチビ達相手に何か涙ぐんでること、ちょいちょいあったじゃねぇか」
指摘してやると、子供はカーッと頬を染めた。いっちょ前に羞恥心があるらしい。
「なっ、何で知って……!?」
「新入りに気を配るのは、年長者の役目なんだよなぁ、これが」
実際のところは、子供がチビどもに虐められていないかと、子供が不審な動きをしていないか、その両方の意味を込めて、己の仕事をこなす傍らでちょいちょい目を配っていた。幸いなことにどちらも心配なさそうではあったが、時々チビ達に泣かされそうになっているこいつの様子は気になっていた。
「で? 何をそんなイジメられてたんだよ、お前は」
「虐められてたのとは、……違うと、思う」
子供は少しうつむきながら、モソモソと答えた。驚いたせいなのか、止まる気配がなかった涙はいつの間にか引っ込んだようだ。
「多分、心配してくれたんだ」
「心配?」
「……雨の話になって」
俺が手を引くと、その動きを追うように子供は顔を上げた。涙の気配がまだ残っている碧眼は、常よりも色を濃くしている。
「体調を崩すから、雨は嫌いって。そういう話になったんだ」
「あー……」
恐らくチビ達は、その発言をからかったのだろう。
この教区に、そんな軟弱な体質の人間はいない。『生きてはいけない』と言った方が正しい。俺は『そういう体質の人間もいる』と知識として知っているが、チビ達には理解が及ばない話であったはずだ。
だから無知ゆえの残酷さでこの子供に反論した。同時に、心配もしたのだろう。その『心配』の部分も汲み取れる聡い人間でありながら、こいつもまだまだ子供だ。だから今、チビ達を言葉で庇いながらも、あの時は涙ぐんでいた。
「そうか。お前、雨は嫌いか」
「……オニイサンも、僕はおかしいと思う?」
「いや? 俺も昔は雨が嫌いだったし」
そのことへの感謝を込めて、俺はとっておきの話をこいつにしてやることにした。
雨の日は、視界の悪さに乗じて、こちらを襲おうとしてくる輩が増える。だから雨は嫌いだと神父様に訴えた俺に、神父様が教えてくれたとっておきの話だ。
「でもさ。一概に雨を嫌うのももったいないと、今の俺は思う」
『まぁ、ここ、座れよ』と俺は自分が腰掛けた隣を叩いた。そんな俺の呼びかけを素直に受けた子供は、俺の隣にストンと腰を下ろす。
「雨が降らなきゃ、干上がっちまうってのもあるけどさ。雨がもたらすものって、実はそれだけじゃねぇのよ」
「え?」
「お前、虹って見たことあるか? 教会ではあれを神の奇跡だーって教えるんだけど、実は違ってさ。あれって、雨が降った後に急に日が差し込むから現れるものなんだってさ」
神父様は俺にそう教えてくれた。雨があるからこそ、あの奇跡のような景色を見ることができるのだと。
物事には必ず裏表がある。一面だけを見ていては、その裏面にある幸いや、美しいものを見逃してしまう。
「……ああ、そうだ。こういう天気の時は、格別に綺麗に音が響くんだった」
ふと思い出した俺は、軽やかに長椅子から立ち上がった。俺の急な行動の意図を計りかねた子供が、戸惑ったように俺を見上げてくる。
そんな子供に俺は、不敵な笑みを向けてやった。
「ま、これも何かの縁だ。お前の雨に対する思い出を、俺がひとつ上書きしてやる」
この礼拝堂はオンボロで、町中にある立派な教会の礼拝堂のように音が綺麗に響くような設計にはなっていない。賛美歌を歌ってみたところで響きはイマイチだ。
ただ、雨が降った日の、翌日の夕方だけは。
どこかに雨水が入り込んでいるのか、あるいは湿度の問題なのか。このオンボロな礼拝堂は、格別な音を響かせる。
「俺の歌声は、人の心に虹をかけることができるって、この辺りじゃちょっとした評判があってよ。そこから名前が『宝玉眼の歌天使』なんてつけられたくらいで」
ルチルクォーツのような瞳と、歌を司る天使のごとき歌声。
その特徴から、俺に与えられた祝福の名前。チビ達が呼びかける『ルーチー』という愛称は『ルチル』がうまく発音できなくて訛った末のものだ。
……正直、名前負けしていると思う。最近では『宝石眼の殺戮天使』と書いて『ルチル・イスラフィール』と読まれることの方が多くなったくらいだし。
でも、まぁ、今は。
もしも、雨が降りしきるこいつの心に、俺の歌声が虹をかけることができるならば。
この異名も、この理不尽極まりない世界も、少しはマシなものに思えるような気がするから。
「まぁ、よく聞いとけよな」
まぁ、お前に何があったかなんて、俺は訊いたりしねぇけども。
そんな目ん玉が溶け落ちそうなくらいに雨を降らせてるお前の心に、いっちょ俺が虹をかけてやるよ。