Ⅱ
俺は、実の母を知らない。実の父も知らない。
だが幸いなことに、育ての親と、血が繋がらないチビ達はたくさんいた。
愛を注いでくれる相手も、俺が愛を注ぐ先も、たくさんあった。温かく、まっとうな場所で、俺は物心つくことができた。
「ルチルにーに!」
「ルーチーにぃに!」
教会孤児院には俺より歳上の子供もいたはずなのだが、俺が教会を手伝うようになった頃には、俺はチビ達の中で最年長になっていた。コロコロとじゃれつくチビ達をまとめるのも、『兄』である俺の役割だと、自然に思っていた。
治安が悪い地域でチビ達が団子になって暮らしていれば、必ず悪い輩が目をつける。特に俺の周囲は、俺の目の金を本物の砂金だと勘違いしやがるバカどもが集まりやすくて、余計に荒事の気配が強かった。
そんな環境からチビ達を守るのも『兄』の役目だと思うようになったのは、一体いつの頃からだったのだろうか。もしくは『お前こそが災禍の原因だ』と糾弾されたくなかったから、周囲に気付かれるよりも早く己が救済者となる道を選んだだけだったのか。
最初に得物に選んだナイフは、教会の厨房から拝借した果物ナイフだったと記憶している。子供でも軽くて扱いやすい刃物は、殺傷力こそ高くはなかったが、護身のためにワガママは言っていられなかった。
教会孤児院で暮らし、日々の随所に神の教えは染み込んでいたが、『それはそれ、これはこれ』なのだと、随分幼い頃から割り切っていたような気がする。
祈っても、神様は物理的に自分達を守ってくれるわけではない。直接的にパンを与えてくれるわけでもない。
だから、自分達の安全と生活を物理的に守れるのは、自分達だけだ。
そんな風に完璧に割り切って振る舞っていた俺は、あの治安が最悪だった地域の中で見ても『異質』だったのだろう。
俺が立派な抑止力に成長したお陰で、俺達が暮らす教区の中で子供に手を出そうという輩はめっきり減った。下手に子供に手を出して、運悪くそれが教会孤児院の子供だった場合、どんな報復に遭うか分からなかったからだ。
周囲が早々にそれを理解してくれたお陰で、師匠に引き抜かれる直前には随分と俺も平和な暮らしができていたような気がする。
だからその日は、本当に久しぶりに得物を抜くことになったのだ。
✕ ✕ ✕
「……?」
激しい雨が降り注いでいた。
神父様の使いで外に出ていた俺が、教会に戻るために足早に細路地を歩いていると、どこからかガラの悪い怒鳴り声が聞こえてきた。この激しい雨音と、雨除けのために深くフードを被った外套の布地を貫通してまで耳に届くなんて、声の主は相当な大音声で怒鳴っているに違いない。
立ち止まって耳を澄ませてみると、どうやらゴロツキの集団が幼い子供を追い回しているようだった。おまけに音はこちらに向かってきている。
俺は反射的にナイフを抜くと、壁際に積まれていた荷物の陰に身を隠した。
「待ちやがれっ!」
「チッ! 思ってたよりすばしっこいぞっ!」
「囲め囲めっ!!」
「すり抜けられねぇように気をつけろっ!!」
──ガキ一人に対して、大人がワラワラとたかりやがって。
物陰に隠れて様子を確認していると、小さな人影を先頭にする形でいかにもガラの悪い集団がドタバタと走り込んできた。後ろを走る大人どもは先頭を走る子供を捕まえようと必死に腕を伸ばすが、そのたびに子供は小柄な体躯を活かしてスルリスルリと身をかわしている。
ただ、それももう限界だ。明らかに足元がフラついている。
タイミングを計っていた俺は、子供と大人どもの間に割り込むようにして集団の中に躍り込んだ。
先頭を走っていた三人の喉元に刃が入るまで、瞬きひとつといったところか。そのまま地面に滑り込むようにして事切れた三人は、最期の瞬間まで自分の身に何が起きたのか理解できていなかったことだろう。
「ここで騒ぎを起こすなんて。余所モンだろ、テメェら」
雨の中、血が滴るナイフをビッと振り抜くと、刃先が触れた場所から雫が赤黒く染まっていった。
その光景に集団が怯んだ隙を逃さず、俺は逃げ回っていた子供を俺の陰に引き込むと、深く被っていた外套のフードを脱いだ。
「それとも、ここが俺のシマだって知っててガキに手ェ出す、自殺志願者の集団か?」
予想外の奇襲に一行は気色ばんでいたようだが、俺の言葉と露わになった瞳を見た瞬間、その場の空気は一変した。
ヒュッと息を呑んだのは、一体誰だったのか。
それが判明するよりも早く、集団の中から悲鳴が上がった。
「ま、まさか『宝石眼の殺戮天使』……!」
「何だ、その名前は」
「だっ、誰だよっ!? こんなヤツがいる場所を現場に選んだ人間は……っ!!」
「おいっ! 一体何の話……っ」
数人でも知っているならば話が早い。さっさとお引取願おう。
雰囲気から察するに、状況が分かっている人間と分かっていない人間で半々。
ならばさっさと全員に分からせるまでだ。
俺は子供を後ろへトンッと押しやると、自身は前へ出た。体格の小ささを活かして相手の懐に潜り込み、的確に急所を切り裂いていく。
こちらを取り押さえようとする相手を蹴り飛ばし、羽交い締めにしようとしてくるのを頭突きで跳ね返し、大立ち回りを演じること数分。
数を半分以下まで減らした敵集団は、死傷した仲間の体を抱えるとサッと波が引くように消えていった。
「……で? お前はどこのやつよ?」
完璧に敵の気配が消えたことを確かめてから、俺はナイフに血振りを加えながら後ろを振り返った。
俺が助けた子供は、かなり裕福な家の子供のようだった。深く被った外套で分かりづらいが、その外套ひとつ取ってしても、俺が今までお目にかかったことなどないくらいの高級品だということが分かる。俺が雨除けに纏っている外套なんて、この子供の物に比べればボロキレのような物だろう。
腰が抜けてしまったのか、子供はヘタリと座り込んだまま、言葉もなくカタカタと震えていた。綺麗な金の髪に雫がしたたり、紙のように白い肌を濡らしていく。俺を真っ直ぐに見上げた瞳は、よく晴れ渡った空のように深い青色だった。
「俺、お前に見覚えねーんだけど?」
この教区の人間の顔……特に子供の顔は覚えるようにしている。
顔を見るまでもなく身なりでこの地区の住人でないことは分かっていたが、やはり顔にも見覚えがなかった。
俺は重ねて訊ねたが、子供は震えるばかりで口を開かない。
さて、どうしたものか。
……そう思った瞬間、不意に子供の体はフラリと傾ぎ、そのまま雨が打ち付ける道にべシャリと倒れ込んでしまった。
「え? おい、ちょっと!」
俺は慌てて子供に駆け寄り、膝をついて子供の体を抱え起こす。
触れてみると、子供の体は外套の上からでも分かるくらいに熱を持っていた。体調が悪い中、雨に打たれながら敵から逃げ回っていたらしい。
「……っ!」
迷うことはなかった。この辺りは俺も教会関係者だった、と言うべきだろうか。
俺は子供を背に負うと、教会に向かって一直線に駆け出した。