Ⅳ
「なーんか荒れてたぜ? あの王子様」
医務室で30分ほど時間を潰してから、執務室へ戻ることにした。アレクセイが不在の間に、綺麗に消えるための下準備でもしようかと考えたからだ。
その道中。中庭に面した廊下でロズに遭遇した俺は、ロズが王宮にやってきた日も密談の場になった東屋にロズを連れ込んでいる。
「してやったからな、暇乞い」
「言わずにいきなりの方が良かったんじゃねぇの? 侍従長にだけ直談判しといてさ」
「探し回られたら面倒だろ。先に諦めさせたかったんだ」
雨の日というのは、密談に向く。雨の音が周囲の聞き耳を遮ってくれるから、晴れた日よりも声が漏れづらい。
──そういえばこいつ、どうやって会議のお伴をサボったんだ?
一瞬疑問が過ったが、ロズは俺関係でアレクセイを煽りまくっていたせいか、どうにもアレクセイからの心象が悪いらしい。俺と関係性が近しいから俺の傍に置かれていて、結果アレクセイに近いところで行動しているというだけだから、『ルーシーがいないならお前もいらない』と放り出されたのかもしれない。
「ロズ、お前が暗殺者だって、アレクセイは気付いてるからな。今後、行動には気をつけろよ」
俺はふと思い出したことを口に出した。
「あと、どこの派閥の誰が雇っているのかは分からないが、俺達以外の暗殺者もアレクセイの首を狙って、王宮に潜入してきてる。そっちの行動にも注意した方がいい。この間もネズミが炙り出されてた」
「おー、イアン・ハインリッヒだろ? 第二王子の差し金の」
俺の忠告にロズは軽く答える。
『知っていたのか』と少し驚いたが、潜入前に俺の状況を調べていたならば知っていて当然か、と俺は考えを改める。
「バカだよなぁ、あいつも。いい情報といいコマを与えられてたんだから、感情に振り回されずに賢く立ち回りゃあ、書庫でアレクセイを潰せてただろうに」
だが俺の納得は、ロズが続けた言葉によって再び疑問に戻された。
『いい情報といいコマを与えられていた』
どういうことだ?
『いいコマ』がスネーク・シャドウのことを指しているならば、『いい情報』は一体何に対して言っている? 『感情に振り回されず』っていうのは、俺への嫉妬とか、そういうことの話か?
つまりは……
「……ロズ」
違和感をなぞるように考えを転がした俺は、大教会で襲撃を受けた際に、疑問を覚えたことを思い出した。
『あの時、僕が書庫に行くきっかけを作ったのは、そもそもお前だったね? イアン』
そうだ、あの時に覚えた違和感。
なぜイアンはあの時点で、俺をエサにすればアレクセイが釣れると確信できたのか、という疑問。
──もしも誰かが、かなり早い段階でアレクセイが俺に向けている執着に気付いていて、その情報をイアンに吹き込んでいたとしたら?
俺が王宮に潜入したことを、先に王宮に潜んでいた誰かが察知していたのだとしたら? その誰かはずっと俺の行動を監視していて、俺の初回の襲撃が失敗したことも、それがアレクセイによる逆ハニートラップの結果であることも、全て知っていたのだとしたら? 誰よりも早く、アレクセイが俺に向ける執着に気付いていたのだとしたら?
その誰かが第二王子派に与していて、そいつがもたらす情報が、第二王子を介してイアンに伝えられていたのだとしたら?
俺の疑問に、全て答えが出るんじゃないか?
そしてその場合、そんな真似ができる人間は……
「お前、確かここ最近、ずっと長期の仕事に出てて、ギルドに帰投報告してなかったよな?」
俺は気取られないようにそっと、袖の中のナイフに指を伸ばす。
「一体、どこの仕ご、と……」
だが俺の指先がナイフに触れるよりも、俺の死角から翻された刃が俺の脇腹を薙いでいく方がわずかに早い。
「っ……!?」
「あーあ。気付いちゃったかぁ」
反応できなかった。視界が霞む。出血が酷い。手足が痺れて力が入らない。体の自由が効かない。
何かがおかしい。普段、これしきのことでこんな対処不能な状態に陥ったりなんかしないのに。
「お前ね? 暗殺者たるもの、自分以外が調合したモノを、不用心に飲んじゃいけませんよ?」
俺は踏ん張りきれずにその場に片膝をついた。切り裂かれた左脇腹を必死に押えて止血するが、大した傷口じゃないはずなのにやたらと血がこぼれていく。あっという間に足元には血溜まりができた。
全身から抜けていく力を必死にかき集めて首を上げると、ロズが手の中でナイフを弄んでいた。俺が扱う物とよく似た細身のナイフの柄には、そこにあるはずのない紋章が刻まれている。
王冠を被った髑髏と、その両の眼窩に交差されるように突き立てられた二本の剣。
──あれは……『高貴なる闇』の紋章……なんでロズのナイフに……っ!?
「『シェイクスピア』を仮病用に使った時の症状って、『アズライール』を盛られた時の症状とよく似てるんだよなぁ」
『アズライール』
それは遅効性の毒薬の名だ。一定期間、一定量を服薬しないと症状が現れないため、長期間の潜入任務で自然死に見せかけて相手を殺す時に用いられる薬であったはず。
ゆっくりと相手を死に近付けていく様は、まるで『死の天使』の羽ばたきに耳を澄ませるかのよう。
そこから名を取られた毒薬は、見た目と服用の仕方だけを見れば、仮病用に用いられる『シェイクスピア』と酷似している。副作用の中に血の凝固を抑える……つまり出血が止まりにくくなるというものもあるから、ある程度まで盛ったらサクッと刺しても効果的と俺に教えたのは、他でもないロズだった。
「なん、で……!?」
問わずとも、何となく流れは読めていた。
ロズは俺がアレクセイの暗殺依頼を受けるよりも先に、カインの手先として王宮に潜伏していたのだろう。それのみならず、敵対ギルドである『高貴なる闇』とも通じていた。
アレクセイの元に現れた新人侍従補佐官が俺であることを見抜いたロズは、その情報を第二王子派にリークし、イアンを操りアレクセイ暗殺を実行しようとした。しかし手柄の横取りを防ぐべく俺が動いてしまい、結果イアンはアレクセイによって捕縛されてしまった。
──ロズはギルドからの応援なんかじゃない。俺を排除するために第二王子派から派遣されてきた、刺客だったんだ……!
「あれは、俺の獲物だ」
俺の視線の先で、ロズは指先で弄んでいたナイフをパシッと手の中に収めると、足を振り上げて俺を東屋の外に蹴り出した。今の俺にはその蹴りを避ける余力もなければ、踏みとどまれる力もない。
為す術もなく蹴り出された体は、雨が打ち付ける地面に投げ出された。一度倒れ込んだ体は、重たすぎてもう指の一本さえ動かない。サァサァと降り注ぐ雨は俺の傷口にも染み込み、ただでさえ止まる気配のない出血をさらに促進させていく。
「悪いが、消えてくれ」
あの書庫では俺が口にしていたセリフを、今はロズが俺に告げる。
──あぁ、これは詰んだな。
酷く寒い。それでも体が震えている気配はなかった。俺の体はもう、生きることを諦めている。痛みももう薄ぼんやりとしていて、全ての感覚がどこか遠い。
俺は霞んできた目をそっと閉じると、全てを吐き出すように細く、長く、息を吐いた。
そんな俺の脳裏にふと、痛みが滲んだ碧眼が過る。
『……それでも、逃さないから』
「ざ……ん、だっ……、な」
──残念だったな。
いくらお前でも、あの世までは追ってこれないだろうよ。
ふと浮かんだそんな言葉になぜだか酷く満足しながら、俺は笑みとともに意識を手放す。
最後まで意識にへばりついていたのは、静かに降り注ぐ、サァサァという雨の音だけだった。