包帯男と超現実
静かな皿の上に鎮座していると、いやに息苦しさを覚えて潜水服の中に卵を産み付けてしまう。それは、単なる非生産的な遊戯ではなく、白樺の木が白昼にさらされている真冬のベンチのように、窮屈な私の身を細やかな祝福の消火器にくべてくれる。さらには、1万個の結晶が行列を組んで料亭に衝突する時、諸君は行間を読むだろうか。
私の白昼の夢は、いつしか現実になっていた。それは単なる妄想や空想などではなく、確かに今ここで呼吸をする現実という空間、すなわち腕時計を見るためにスッと腕を上げてみて、その上で見える長針と短針が示す1から12の束縛が、現実と呼ばれるオブジェである。その中ではっきりと起きた体験、客観的に見れば事象である。ここでは神の望遠鏡を借りることにしよう。
ある男がいた。地元の中学校に通うなんの変哲もない青年、だがその空虚を睨みつける鋭い視線は、指名手配犯のような不気味さを醸し出している。ただ不信感を人一倍持っているだけなのだが。
その日彼は、いつも通る通学路ではなく、あまり人に出会いたくなかったものだから、裏手の別ルートを歩いていた。現在はスーパーや飲食店などができて賑わっているこの道も、当時は廃れた道路で、冬の朝8時代であるにも関わらず、夜のような静けさを有していた。その男は、有料駐車場のそばを通って歩いていたのだが、ふと斜め左前の旧市役所に目をやると、血だらけで、頭に包帯をグルグルに巻きつけたスーツ姿の男を視認し、だが次の瞬間、その男は消えてしまった。ただそれだけである。
主観で見れば、それはいつもとは違う通学路の様子を伝えるエッセイにもなるし、少し脚色して怪談にすることもできる。だが神の望遠鏡で見れば、それらはただの既成事実であり、オブジェであり、二人の男なのだ。そして、その空間は、私という現実に存在する事象が、別の現実に頭を半分突っ込んだのか、はたまた包帯男の現実がこちらに近づいてきたのか(まぁどちらでも良いが)、現実が一つ上の段階にある現実との連続の中で、融合したから起きた出来事なのだ。それは、ただ客観視した上での確信なのではなく、その時に私自身が感じた、現実と連続する何か透明な壁があって、そこに一瞬入ってしまったかのような、現実をさらに濃密にした『超現実=シュルレアリスム』の体験が決定づけているのだ。私の父も、若い頃に似たような体験をして、その話を主観を中心にした怪談として度々話してくれたのだが、今思えば、私の父も同じように超現実の連続に巻き込まれただけであって、しかしその事実を知らないので、怪談という言語に置き換えて話していたのに過ぎない。そう思えるのだ。