懺悔
「いつの間に婚約したんだい、スピカちゃんは」
まだ夕方には早い時間、空いている店内。ため息をつくサブロに問い詰められ、縮こまるスピカがいた。
スピカがレオンという『婚約者』を連れて商店街に顔を出したことは、いつの間にかサブロの耳にも入っていた。
スピカの気持ちやレオンの身元を知っているサブロは、二人が嘘をついていることに当然気付いた。その上で心配しているのだ。
「レオン様が協力してくれて調律師から出た噂は無くなったけど、今度はレオン様との噂が広まってしまってるじゃないか」
そうなのだ。しかも今度ばかりは全くの嘘、実現不可能な噂。そんな噂を、スピカは自らばら蒔いた。ポラールに「お似合い」と言われて浮かれていたが、今後どうすればよいのかスピカは頭を抱えていた。
「レオン様、なんで『婚約者』だなんて言っちゃったんだろう」
「好きだからだよ」
スピカは抱えていた頭を勢い良く上げて、サブロを見た。
「な、何言ってるのサブロさん」
「どう見ても、スピカちゃんのことが好きだからだよ」
「駄目! やめて! 期待しちゃうから!」
スピカは急いで耳を塞いだ。実はスピカもそう思ってしまって仕方がなかったから。
スピカと『似合わない』と言われて怒ったレオン、『二人はお似合い』と言われて顔を綻ばせたレオン。まるでスピカのことを好きだと言わんばかりの態度ではないか。
でもそれがスピカの自惚れだとしたら?その可能性が僅かでもあるだけで、期待することが恐ろしすぎた。
それに、スピカはただの庶民で、レオンは……
「家を出たとはいえ、レオン様は貴族階級のお方だからね。それを忘れちゃいけないよ」
スピカの浮ついた心に、サブロが小さな声で釘を刺した。
当然、学園もお祝いムードで溢れていた。
「スピカ先生、ご婚約おめでとうございます!」
例の、スピカとレオンの噂は学園中にも広がっていた。廊下で生徒とすれ違う度に祝福の言葉がかけられ、職員室では「式はいつのご予定で?」などと具体的な話が飛び出す。
どんどん「嘘です」なんて言えなくなっていった。スピカは嘘を重ね続ける罪悪感でくたくただった。
その日も、スピカは音楽室に残り、歌を歌っていた。一人きりの音楽室はほっとする。一息ついていると、入り口にカンセルがやって来た。
「スピカ先生。お客様がいらっしゃってるけど、お通ししても?」
「お客様? どうぞ」
自分に客など、業者以外は滅多に無い。不思議に思っていると、カンセルの後ろから小さな女性が現れた。
見たことの無い人だ。年は四十台くらいだろうか。彼女は上品な佇まいでゆっくりとお辞儀をしてから入室した。「では」とカンセルは帰って行き、音楽室には彼女とスピカ、二人きりとなった。
「あの……どのようなご用件で?」
スピカが控え目に女性へ尋ねると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「歌、少し聴かせていただいたの。とても素晴らしかったですわ」
「ありがとうございます……?」
見知らぬ女性から、歌声を褒められた。
「ご同僚の結婚式で、歌われるそうですね?」
「はい」
「スピカ先生ご自身の結婚式は、いつになりますの?」
「えっ?」
この女性は、スピカの『婚約』を知っているようだった。様々な人から何度も訊かれたこの質問には、スピカも苦労していた。
「いつになるかは……未定といいますか……まだ何も」
「何も、決まっていらっしゃらないの?」
「ええと、はい……結婚するかどうかも」
言い淀むスピカを見て、女性は眉を下げた。
「結婚しないかもしれない、ということ?」
初対面の女性は、スピカにぐいぐいと質問を寄越した。じりじりと近くなる距離に、思わず後退りをしてしまう。
「その可能性も……ありますね」
「困ったわ。じゃあうちの息子は誰と結婚するというの?」
女性は頬に手を当て、大袈裟に困って見せた。
スピカは、石のように固まった。
目の前の女性は今「うちの息子」と言った。この人は。
スピカが顔を青くしている姿を見て、女性は安心させるように微笑んだ。
「私、レオンの母です。スピカさん、どうか怖がらないで」
女性はカリーナと名乗った。レオンが家を出てからも、伯爵家は彼の様子を探っていたという。
「結婚はしないと家を出たレオンに、『婚約』の噂が立っているものだから……嬉しくなってしまって」
お相手がどんな人物なのか気になってつい会いに来てしまったの、とカリーナは笑った。
カリーナは伯爵夫人だ。音楽室の固い椅子に座って頂いたが、失礼ではないだろうか。準備室にある古くて安いコーヒーしかお出しできないが、それでも出すべきだろうか。廊下に控えているお付きの方も、椅子に座ってもらったほうが……先程からスピカの背中に、いやな汗が流れる。
「スピカさん」
カリーナは動揺しているスピカを落ち着かせるように目を合わせ、語り始めた。
「私自身は、レオンを応援したいの」
カリーナは、カルモ伯爵の後妻だった。
先妻は産後の肥立ちが悪く、レオンの兄二人を遺して儚い人となったらしい。その後、若くして未亡人となっていたカリーナが、レオンを連れて伯爵家へ嫁いだ。
「つまり、レオンは伯爵や兄二人と血が繋がっていないのよ」
伯爵も兄達も、あからさまな差別などはしなかった。彼も兄達と同じように教育され、同じように衣食住を与えられた。
ただ、ずっとどこか余所余所しかった。兄二人が遊んでいても、レオンは一人残される。兄二人が伯爵に呼ばれても、レオンは一人残される。まるでレオンは伯爵家の子供ではないと、そのように感じるまでに。
そんな毎日を、レオンは何も主張せず、ただにこにこと過ごしていたらしい。カリーナは知っていた。レオンの、その笑顔が『心の盾』であったことを。笑っていれば、伯爵も兄達も何も思わない。レオンが彼らの態度について「不快」に感じていることも、漏れることは無い……。
伯爵家で軽い存在だった彼を、カリーナは切ない気持ちで見守っていた。
「だから、レオンが王都の騎士団へ入団した時はらホッとしたわ。ようやく彼も自由になれると思って」
十八歳で王都へ出たレオンの選択を、カリーナは大いに喜んだ。彼はこのまま伯爵家にいるべきではないと、彼女はそう思っていたから。
なのに、伯爵は二十歳になったレオンを呼び戻したのだ。兄二人と同じように、婚約者をあてがうために。
「しばらくはレオンも、あれこれ理由をつけて伯爵家へは戻れないと拒んでいたの。でもある時突然、拒むことも諦めてしまって」
伯爵家へ帰ってきたレオンは、拒んでいたことが嘘のようにずっと穏やかに暮らしていた。そして伯爵の選んだご令嬢と、すんなり顔合わせまで済ませたのだ。
「そこからよ。レオンが帰るなり突然『断って下さい』って頭を下げてきたの」
レオンから聞いた、伯爵大激怒事件だ。これまで伯爵の意に背いたことの無かったレオンが、断固として意思を曲げなかったらしい。
そして伯爵から出ていけと言われたレオンは、嬉々として家を出ていったのだった。
「ここまでが、伯爵家の中の出来事なの」
カリーナの話が終わり、スピカは強い不安に襲われていた。庶民の分際で、カルモ伯爵家の更に深い部分まで知ってしまったのだから。
「なぜ、私がこのようなことを貴方に話したのか分かるかしら」
「わ、分かりません。私などになぜ」
「貴方のことを逃がしたくないからよ」
とても穏やかな笑みを湛えて、カリーナは恐ろしいことを口にした。
「貴方には、レオンと共にいて欲しい」
カリーナは、そっとスピカの手を取った。
少し力のこもった手に、カリーナの想いが伺えるような気がした。レオンを大切に思う気持ちが。
彼女の暖かい手によって、スピカの胸に積もり積もった罪悪感がついに決壊した。
「申し訳ありません。レオン様が伯爵家を出たのは、私のせいなのです」
自分の余計な一言で、レオンを振り回してしまったこと。本当はレオンと婚約などしていないこと、『婚約』はスピカを望まぬ噂から守るための嘘だったこと。
スピカは誰にも言えなかった事実を、カリーナに全て懺悔した。耐えきれずに、目からは涙が滲んできてしまう。
「あなたにこんなにも責任を負わせて、レオンってばどうしようもない男ね」
辛かったわね、ごめんなさいねと、カリーナはスピカを抱き締めた。