束の間の恋人②
カフェを出たスピカの頬を、潮風が優しく撫でる。
先に店を出たレオンが手を差し出したので、スピカはそっとその手をとった。先程練習したように手を繋ぎながら、二人は商店街へと歩きだした。
ここから商店街までは、歩いてもそう遠くはない。休日の昼間、ちょうど人出の多い時間帯に商店街を歩くことになる。そんな人混みの中、レオンと手を繋いで歩くなんて。
(口から心臓が飛び出してしまうかもしれない……)
カフェでは少し顔を赤くしていたはずのレオンを見上げてみると、もう慣れたのか涼しい顔で歩いている。一方のスピカは顔が赤くなったまま戻ってくれない。これでは『恋人同士』ではなく、自分の『片想い』がばれてしまうのでは? 一抹の不安を抱えながら、商店街への道をひたすら歩いた。
休日の商店街は、買い出しの人々でひしめき合っていた。もうすぐお昼時ということもあって、そこかしこで良い香りが漂う。
「スピカさんは、なにか食べたいものはありますか?」
レオンが機嫌良さそうに歩みを進める。スピカはというと、自分の手汗が気になり過ぎて全くお腹も空かないくらいだ。
「スピカ先生! その方は恋人?」
「は、はい、ええと」
レオンと手を繋いで歩くだけで、あちらこちらから声をかけられる。その度スピカはどう言うべきか対応に困るのだが、
「こんにちは。スピカさんがいつもお世話になっています!」
と、このようにレオンが愛想良く返してくれた。彼の笑顔には有無を言わせぬ説得力があり、それだけで皆それ以上追及しない。年下ながら感心してしまった。なんて頼もしい。
「調律師の方の楽器店はどちらですか?」
「もう少し向こうの、あ、あそこです」
喫茶店と理髪店の間にある楽器店は、営業中の札がかかっていた。向かいには花屋があり、路面に沢山の花が並んでいる。
「良いですね、あそこで花を買いましょう」
「花を?」
スピカは不思議に思いながらも、レオンに手を引かれ花屋へ向かった。
色とりどりの花は可愛らしくて、見ているとだんだん欲しくなってくる。その中でもコバルトブルーの小さな花束は、どことなくレオンの優しく蒼い瞳を思わせた。
「それが好きですか?」
「はい、優しい感じが……」
「じゃあ、それを買いましょう」
レオンは早速コバルトブルーの花束を買い求めた。
「悪いですよ! 私が支払います」
「いいんです。あまりにも可愛らしいから」
「あ、可愛いですよねこれ」
「いえ、この色を選ぶスピカさんが可愛くて」
スピカは思わず後ずさった。どこまでこちらの気持ちを見透かせば気が済むというのだ、この男は。
「ちょうど今日の記念に、何か贈りたいと思っていたんです。はい、どうぞ!」
「あ、ありがとうございます……」
スピカは、満面の笑みを浮かべるレオンからコバルトブルーの花束を受け取った。
(一生、枯れなければいいのにな……)
スピカは、本気でそう思った。
「スピカ先生! その方は?」
その時、向かいの楽器店から調律師が現れた。スピカが男性と二人で並び、花を買い求める姿を見て、慌てて出てきたようだった。
「こんにちは! えーと、この方は」
「いつもスピカさんがお世話になっております! 私、このたびスピカさんと婚約しまして」
「!?」
スピカはぎょっとした。なぜかレオンがとんでもない嘘をつき始めた。『恋人』までは演技でなんとかなるが『婚約者』は無理だ、後々まで響く。やり過ぎである。
「ええ!? スピカ先生、婚約されたんですか!」
「えっと、まあ」
調律師ががっかりした様子でこちらを見た。
どう繕ってよいものか、スピカには分からなかった。この場では否定も肯定もまずい気がする。
スピカが言いあぐねていると、息子の結婚が思うように進まなかった調律師がふて腐れたように呟いた。
「こんな立派な方、先生には似合いませんよ!うちの倅にしておけばよかったのに」
(似合わない……)
調律師から出た言葉に、スピカは柄にもなく傷付いてしまった。自分の身の丈くらい、分かっているはずだった。ただ、第三者から言われてしまうとどうしても……
「失礼な方ですね」
頭上から聞こえたのは、珍しく攻撃的な言葉。スピカが驚いて見上げると、レオンは微笑んでいるように見えた。しかし笑っているのではない……これは怒っているのだ。
「スピカさん、行きましょう」
「ちょ、ちょっと……すみません、失礼します!」
スピカはレオンに手を引かれ、楽器店の前を後にした。
二人は商店街のはずれ、小さな公園にたどり着いた。レオンはずっと黙ったままだ。
「あの調律師さんは、いつもああやって歯に衣着せない物言いなんですよ。でも、これで息子さんとの噂は立ち消えると思います」
なるべく明るく「ありがとうございました」とスピカが言うと、やっとレオンが口を開いた。
「俺ではスピカさんに似合いませんか」
レオンは先程言われた調律師の言葉を、ずっと気にしているようだった。
スピカは返事に困った。似合うもなにも、レオンが『恋人』『婚約者』なんて嘘なのだから。本当なら、こんな素敵な人がスピカを選ぶはずがない。
スピカは胸が苦しくなって、思わず贈られた花束を抱きしめた。
「あれ?もしかしてスピカ先生?」
ふと、後ろから声がした。振り向くと、そこには偶然ポラールとカンセルが揃って立っていた。二人は買い出しに来ていたのだろう、カンセルが紙袋を下げている。
「ポラール先生! もう具合はいいの?」
「まだ無理はしないように言われてるんですけど。こうやって少しの外出くらいは平気になってきて」
よかった。なんとか、彼らの結婚式までには良くなるといいのだが。
「もしかして隣の人、スピカ先生の彼氏?」
カンセルが興味津々で尋ねた。
「ええと、この方は……」
「スピカさんの婚約者で、レオンと申します」
レオンがにこやかに答えた。また婚約者と言っている。なにを意地になっているのか分からないけれど、調律師に「似合わない」と言われたことが、相当頭に来たようだった。
すると、ポラールが花のような笑顔で祝福を口にした。
「ご婚約!? おめでとうございます! お似合いのお二人ですね!」
それは花束のような言葉だった。
途端にスピカとレオンの間に流れていた重苦しい空気が消え去り、ポラールの背後から後光が射した気がした。
「ポラール先生、……お似合いですか? 私達」
「ええ! とってもお似合いです」
にこにことしたポラールは、二人を交互に見た。
「きっと素敵なご夫婦になると思います!」
ポラールがきっぱりと言い切った。
もしかすると社交辞令かもしれない、でもスピカにはとても嬉しい言葉だった。
レオンとは釣り合わない、婚約者なんて本当は嘘。なのに「お似合い」と言われたことが、こんなにも嬉しいなんて。
「ポラールさん、ありがとうございます」
隣を見上げると、スピカと同じように顔を綻ばせ、嬉しそうにしているレオンがいたのだった。