束の間の恋人①
ピアノの調律師がスピカに言った。
「スピカ先生。そろそろ諦めて、うちの倅の嫁に来ませんか?」
「はあ」
今日は講堂にあるピアノを調律してもらっていた。調律してくれるのは、この港町でも腕利きの調律師だ。彼のことはとても頼りにしているのだが。
(また始まったなあ……)
これは初めての事ではない。この人からは、調律している間「息子の嫁に」と何度も何度も口説かれるのだ。調律師の息子もまた調律師で、彼の後継ぎだった。たまに息子が調律に来るのは、彼の差し金なのだろう。
「息子さんにも好みがありますし……私なんかでは勿体無いですよ」
「いえいえ、我が家も倅もスピカ先生みたいな方なら大歓迎なんです。音楽にも理解がありますし気立てもいいし」
「私はまだまだ働きますし、家の事も出来るかどうか分かりませんので……」
「それなら私共と一緒に暮らせば良いのですよ。結婚後もスピカ先生は存分にお仕事されていて構いませんよ」
こうやって、スピカが何度遠回しに断っても通じないのだ。これからも仕事上のお付き合いは続けていかなければならず、どうしたものかとずっと頭を悩ませている。
「それではスピカ先生、考えておいて下さいね」
調律師は圧を含んだ笑顔を向けてから帰っていった。
「そういえばスピカちゃん、今日調律のおじさんが行ったって?」
「サブロさん、なんで知ってるの?」
今日店に行くと、サブロが教えてくれた。街のあちらこちらで、あの調律師が「うちの倅もようやく結婚出来そうだ」と触れ回っていたと。その相手がイストリア学園のスピカ先生だと聞いてサブロはびっくりしたのだ。
「参ったなあもう」
自分のことを気に入ってもらえるのはありがたい。でもこれは行き過ぎだ。こうやって外堀を固められていくのは、正直良い気がしない。そもそも、調律師の息子自身はスピカに会おうが淡々と仕事をして帰って行くだけ。完全に父である調律師の独りよがりなのだ。
「息子さんって、どんな人なんですか」
となりに座って話を聞いていたレオンが割り込んだ。
「うーん、良く分からないです。髪をこう、一つに束ねていて、あまり喋らなくて……寡黙な人?」
「歳は?」
「二十七って言っていたでしょうか……」
「歳上なんですね」
正直、スピカもそのくらいの情報しか持っていない。そのくらい、調律師の息子に関心が無い。
「スピカさんは、年上の男性って魅力的ですか?」
「別に、特に何も」
「じゃあ年下は?」
「えっ?」
思わずレオンをみてしまった。伺うようにこちらを見る彼と、ばっちりと視線が重なる。
「わ、分かりません」
スピカはみるみるうちに顔が熱くなってしまって、あわてて持っていたグラスを凝視した。そんな彼女を、レオンは微笑ましそうに見つめた。
そんな二人を訝しげに見ていたサブロが、口を開いた。
「なんか……二人とも、なにかあった?」
「な……なにかって?」
「全体的に、距離が近い」
勘の良いサブロに言われて、スピカとレオンは顔を見合わせる。
確かに、この間爆発してしまった日から、色々な意味でレオンとの距離が縮まった。
これまでは席一つ開けて隣に座っていたレオンが、遠慮無くスピカの隣に座るようになった。スピカ自身への質問も異様な程増えて、何より、以前のように笑顔一辺倒では無くなったのだ。
「レオン様、あんまりスピカちゃんをからかわないで下さいよ?」
「からかってなんかないですよ!」
レオンが眉を下げてにっこりと笑った。
スピカはレオンをじっとりと見上げた。彼女には、なんとなく感じ取れる。この笑顔は『建前』だと。つまり、彼はスピカの気持ちを分かっていて「からかっている」のだ。
悔しくなったスピカは、もう帰ることにした。サブロにお礼を言って席を立つと、レオンも当たり前のように席を立つ。悔しかったはずなのにレオンに送ってもらえることが嬉しくて、彼女は並んで帰るのだった。
「調律師の方は、どの辺にお住まいなんですか」
帰り道、レオンが先程の話を持ち出した。
「あの方なら、商店街に楽器のお店を構えていますけど」
「じゃあ今度の週末、俺と商店街を歩きましょう」
「レオン様と?」
要は、スピカが『お一人様』として有名なのがいけないのだと彼は言う。
『学園の先生』としてこの辺りでは顔が割れているスピカだが、普段どこへ行くにも一人きりでうろうろしている。そのため、特定の相手がいないことも容易に想像できた。
スピカに恋人の存在を確認出来れば、調律師も諦めが付くのではないか、とレオンは思い至ったのだ。
「駄目ですよ。そんなのレオン様が勘違いされちゃうじゃないですか」
「調律師の方を勘違いさせるのが目的なんですから、それで良いんですよ」
そうは言っても……スピカは恐れ多すぎて、レオンの提案に頷けなかった。そんなことをしたら勘違いするのは調律師だけではない。目撃する多くの人が勘違いするだろう。
「俺も、勘違いされるくらいで丁度良いんです。スピカさん、俺が女の子に囲まれるの嫌でしょう?」
躊躇しているスピカに、とても良い笑顔でレオンが言い放つ。それを言われると、彼女は何も言えなくなってしまうじゃないか。
弱いところを突かれて顔を真っ赤にしているスピカを、レオンはやはり優しく見つめるのだった。
週末、二人は例のカフェで待ち合わせをした。以前「一緒に行こう」と約束した、港のカフェだ。レオンが言っていた通り午前中は行列も無く、店内も空いていて快適だった。
「スピカさん」
窓から海を眺めているとレオンがやって来た。彼もコーヒーを頼むと、スピカの隣に着いた。
「レオン様。今日はすみません。結局来ていただいて」
「いいんです! 休みの日もスピカさんと会えて嬉しいくらいですよ」
紳士的な社交辞令を言う彼は、白いシャツに黒いパンツというシンプルな装いであった。長い手足が良く目立つ。スピカはというと、ラベンダーのスカートに柔らかなブラウス。昨晩悩みに悩んでこれにした。
「スピカさん、いいですか? この店を出たら、今日は一日『恋人』らしく振る舞ってくださいね」
「わ、分かりました。でも具体的にどうすれば良いのか分かりませんよ私は……」
何せ、お一人様歴イコール年齢のスピカ。世の中の恋人達が、どういう風に振る舞うものなのか全く見当がつかない。
「とりあえず、手を繋ぎましょう。こう」
そう言うとレオンはスピカの手を取り、テーブルの上で手を繋いだ。指と指が絡まり合い、手のひらが密着する。
(この間と握り方が違う!)
手を繋いで帰った夜もドキドキとしたが、この握り方のそれはまるで段違いだ。これが『恋人』の繋ぎ方。
動揺したスピカが助けを求めるようにレオンを見ると、彼も少し頬を赤らめていた。
「少し照れますね」
顔を赤くした二人は、少し目を合わせるとそのまま黙り込んでしまった。