夕焼けのコーヒー
「スピカ先生、昨日は本当にありがとう」
翌日の音楽室、スピカが一人で歌っていると、今度はカンセルが顔を出した。ポラールは今朝からしばらく、悪阻のため休暇をとることになったと聞いた。スピカはそれに安堵した。
「昨日、ポラールから色々と聞けたよ」
「そうですか! よかったです」
「まさかあんな風に思っているとは思わなかったよ」
愛しのポラールがあんなに悪阻で苦しんでいたことも、カンセルに迷惑をかけたくないと思っていたことも、立場に引け目を感じていたことも、彼は何も気付いていなかったらしい。
彼女はそれらにひたすら耐えて、カンセルの前では唯々幸せそうに微笑んでいたから。
「彼女、見た目よりも根性がありますよ。これからも頑張りすぎて無理しそうだから、カンセル先生が一番に気付いてあげないとですよ」
「そうだね、もっと彼女と話をしていくよ」
カンセルは照れくさそうに頭を掻いた。
ポラールとカンセルがあるべき姿に落ち着いて、スピカは本心から嬉しく思った。これまで以上に、『門出の歌』に気持ちを込めて歌えるだろう。
スピカは、帰宅のため軽く身だしなみを整えた。鏡を覗くとまだ少し目が赤い。それでも今朝より随分とマシになった。一生懸命、冷し続けた賜物だ。お陰で生徒にも同僚達にも気付かれなかった。
今日はどうしよう。まっすぐ帰っても良いけれど、部屋に一人だとまた泣いてしまいそうだった。サブロの店に行く? でももし、レオンがいたら?
迷ったスピカは学園を出た後、商店街に張ってあったポスターを見た。港にはちょっとした公園もあって、そこにオープンした小さなカフェのビラだった。
カフェだとコーヒーを飲みながら時間も潰せるし、一人きりになることも無い。名案だ、行こう行こう。なんとなく海も見たいと思ったのだ。
お一人様のスピカは、フットワークも軽く港へ向かったのだが。
港へ近付くにつれ、騎士の帰宅姿がちらほらと見えるようになってきた。騎士の姿を見たとたん、スピカの頭は冷えてきた。そうだった、港には騎士団の駐屯所があるのだった。
スピカは忘れていたのだ。レオンが異動してきたのが、港にある騎士団駐屯所だったことを。
港の喧騒の中、スピカは急いで回れ右をした。こんなところへ来てレオンとばったり会ってしまったとして、もし「会いに来た」と誤解をされたら? 人の良い彼でも、ただの知り合いにこんな所まで来られたら鬱陶しく思うに決まっている。
やっぱり失恋した者は失恋した者らしく、部屋でめそめそ泣こうと宿舎へ帰ろうとした時。
「スピカさん?」
後ろから、名前を呼ばれた。レオンだった。
スピカがゆっくりと振り向くと、レオンが傍まで駆け寄った。彼もどうやら帰宅するところらしかった。
とても気まずい。会いたい時にはなかなか会えなかったのに、会いたくない時こんなにもすぐ会えてしまうのは何故なのだろう。
「もしかして会いに来てくれたんですか?」
レオンは少し笑みを浮かべた。
彼はやっぱり誤解をしている。でもその表情は、スピカを鬱陶しく思っているようには見えなかった。
「そ、そうなんです。昨日の顔合わせが、どうなったかと思って」
スピカは咄嗟に嘘をついてしまった。ただ、半分は本当だ。昨日の夜は、彼の顔合わせについて悶々としていたのだから。
スピカは予定通り、港の公園へ移動した。ただしレオンも連れて。ポスターで見たカフェの横も通りかかったけれど、長蛇の列が出来ていたので諦めた。レオンは同僚と、この店に入ったことがあるらしい。
「このカフェ、午前中は空いているんです。なかなか旨いコーヒーを出しますよ」
「そうなんですか? 本当は今日、ここに行ってみようかと思ったんです」
ただしレオンには会わずに一人で。まさか一緒にここに来ることになるなんて思いもしなかった。
「じゃあ、また一緒に来ましょうよ! いつにします?」
「一緒に?!」
まさかそんなお誘いを受ける準備はなくて、思わずレオンとカフェを交互に見た。
夕方のカフェは、港の夕日に染まって雰囲気たっぷりだった。そのためか、並んでいる列もカップルだらけ。スピカは、一人で来なくて良かった……と心底思った。けれど、レオンは良いのだろうか。婚約は、顔合わせは、どうなったのだろうか……
スピカとレオンは、公園のワゴンでコーヒーを買い、カフェの近くにあるベンチに座った。
「昨日、顔合わせには行ったんですけど」
彼は、コーヒーも飲まずに話し始めた。
「帰ってから、やはりお断りしたいと父に伝えました」
スピカは驚いてレオンを凝視した。
レオンは、ただ控えめに笑っている。
「父は激怒しました。母はおろおろしてしまって」
「そんな……」
「お前など出てゆけと、言われてしまいました」
なんと声をかけたら良いのかわからない。
スピカは自分の失恋のことで頭が一杯で、まさかレオンがそんなことになってしまったなんて思わなかった。
「な、なんとかならないんですか」
「あそこまで父の怒りを買ったのは初めてなので、きっと無理でしょう」
元々、カルモ伯爵家では二十歳頃に婚約者をあてがうという。なのでレオンは、二十歳までに自分がこの人だ、と思う人と婚約をしたかったらしい。しかしそれは叶わず伯爵家へ呼び戻され、親が決めた通りの結婚をしようとしたのだ。
「昨日、スピカさんに言われて考え直したんです」
「私!?」
「自分で選びたいんじゃないのかって、あの時言ってくれたじゃないですか」
確かに……確かに、そんなことは言った。ショックで、憂さ晴らしのような言葉をレオンにぶつけてしまったのだ。
このあいだ悩んでいるって言っていたばかりなのに、あっさりと親に従っているじゃないかって。『庶民』の感覚で口に出したのだ。
「そんな顔をしないで下さい。俺はとてもスッキリした気持ちなんです」
スピカはよほどひどい顔をしていたのだろう。罪悪感を抱かずにはいられなかった。自分の子供じみた発言が、まさかレオンの順風満帆な人生をめちゃくちゃにしてしまうなんて。
「もともと俺は三男なんです。伯爵家からは、いずれ出ていかなければならないのですから」
そうは言っても、伯爵家の後ろ楯が有るのと無いのとでは全く違う人生を歩むことになるのではないか。
「レオン様は、それで良いのですか。私なんかの余計な一言で、レオン様の人生が変わってしまって」
「元々、悩んでいると言っていたでしょう。スピカさんは、背中を押してくれただけです」
だから責任を感じないで下さい。と、レオンが優しく笑う。
「でも……」
「じゃあ、また、こうやって俺の話を聞いてください! それがスピカさんの責任!」
そんなの、スピカにとってはご褒美でしかない。彼女がしばらく思案したあと小さく頷くと、レオンはまたにっこりと笑った。
「俺、嬉しかったんですよ」
「え?」
「俺に婚約者が出来ること、スピカさんは嫌だと思ってくれたんでしょう?」
スピカの心臓が跳ねた。レオンを見ると、蒼い瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。いつもと違う、こちらの想いを見透かすような、そんな笑み。
これ以上見つめ合えば、全てが暴かれてしまうのではないか。スピカはあわてて顔を逸らした。
思いがけずレオンの人生の深い部分に関わってしまったスピカは、覚悟を決めた。……とは言っても、スピカに出来ることは話を聞く位しか無いのだけれど。
それぞれの手に包まれたコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。二人は冷たくなったコーヒーを飲みながら、あかりが灯り出した港をぼんやりと眺めた。




