笑顔の裏側
「彼、本当に良い青年だよね」
「うん」
「でも、ああ見えて伯爵家のご令息なんだよね」
「知ってるよ……」
やはりサブロは、スピカの分かりやすい気持ちなどお見通しのようだった。スピカはカウンターで頭を抱えた。
相変わらず、スピカはサブロの店に入り浸っていた。
サブロ特製のリゾットも食べ終えてしまった。もう今日はレオンも来ないだろう。諦めてそろそろ帰ろうとした時、サブロから改めて言われたのだ。「レオン様は伯爵家の人間だぞ」と。
「ど……どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって」
スピカは悩んでいた。彼のことを好きになってしまったけれど、これ以上は望むことのできない人だ。その上、もうすぐ親に婚約者も決められてしまうとレオンは言っていた。『失恋』の二文字が、目の前にぶら下がっている恋だ。でも、
「無理だと分かってても、会いたいの」
「……恋だね」
スピカの二十三年間の人生で、こんなことは初めてだった。駄目だと分かれば手を離す。身を引き、目を反らす。そうやってこれまで生きてきたのに。
「失恋するまで、好きでいるだけならいいかな……」
そう呟くスピカは、完全に恋する瞳をしていた。失恋前提の恋に、サブロも複雑な気持ちになる。
カウンターで向かい合う二人は、ささやかな秘密を共有した。
スピカは、毎日『門出の歌』を歌った。一人で、時には生徒達と共に。自分を励ますように、心を込めて歌った。
その日、歌の練習も終えて音楽室を出たとき、少し向こうの廊下にうずくまる影があった。目をこらして見ると……あれはポラールだ!
「ポラール先生! 大丈夫?」
スピカが急いで駆けつけたが、ポラールは青い顔をしてしゃがみこんだままだ。なぜこんな人気の無い場所で。
「スピカ先生。歌、本当にありがとうございます。私……そちらまで聴きに行こうと思って、それで……」
ポラールはそのまま、また黙り込んでしまった。額には脂汗をかいている。
結婚を控えた女性の、この感じ。なんとなく想像がつく。
「ポラール先生、まさか……」
スピカは一番近い音楽室へポラールを連れ帰り、とりあえず彼女を椅子に座らせた。廊下でしゃがみこんでいるよりはマシだと思ったからだ。
ポラールは、やはり妊娠しているようだった。だから結婚の報告も急だったのかと納得がいった。どうやら、つわりがどんどん酷くなっているらしい。彼女がこんな立っていられないほど体調が悪いのに、職員室でカンセルは何をしているのだろう。
「待ってて。すぐにカンセル先生を呼んでくるから」
「スピカ先生やめて下さい……言わないで」
「えっ」
ポラールは、スピカを呼び止めた。どうやらカンセルにはここまで体調が悪いことを隠していたらしい。
「迷惑をかけたくないんです……」
去年イストリア学園に赴任したポラールは、カンセルを一目見て恋に落ちた。一緒に働くうち、どんどん彼を好きになったポラールは、歓迎会の日に玉砕覚悟で猛アタックを仕掛けたのだ。結果、その日のうちに晴れて恋人となったらしい。
(そういうことだったの……)
「私が好きなだけで、カンセル先生はそれに応えてくれただけだから」
これ以上負担に思われたくないんです、と、ついにポラールは泣き出してしまった。
これってマリッジブルーだろうか。それに加えて身体の辛さ、もしかするとマタニティブルーもあるのだろう。あんなにも幸せそうな顔をして、こんな気持ちを抱えていただなんて。
スピカは、カンセルが彼女の肩を優しく支える姿を思い浮かべた。カンセルとは仕事上の付き合いしかないが、ポラールと並ぶ彼からは、彼女を大切に思っていることが伝わってきたけれど……
「迷惑に思うわけ無いじゃない、ポラール先生達はこれから結婚するのよ?」
「スピカ先生……」
ポラールは辛さや不安が重なって、スピカの『門出の歌』が無性に聴きたくなったという。
スピカは、いじらしいポラールの背を優しく撫で続けた。
結局、スピカはカンセルを呼び出した。ポラールのこんなにも健気な心の内を、カンセルは知っておくべきだ。
「ポラール!」
ぐったりとしたポラールを見た途端、彼は顔を青くした。三年間仕事を共にして様々なハプニングはあったが、あんなに動揺したカンセルを見たのは初めてだった。彼はポラールを連れて帰っていった。大事な宝物を抱えるように。
帰り道、スピカは反省を繰り返していた。彼らの表面だけを見て、妬んでいたことを。「ポラールは幸せ、私は惨め」と決めつけて、卑屈になっていたことを。
皆、笑顔の裏でそれぞれ抱えている悩みがあるものなのに……一見、なにも憂いなど無く見えるレオンのように。
そんなことを考えていたら、ちょうど前方に頭一つ飛び抜けたシルエットが見えた。彼のサラサラとしたつむじが見えただけで、スピカの心は浮き立った。
「レオン様!」
声をかけると、彼が振り向き微笑んだ。
「スピカさん。今帰りですか」
「そうです、レオン様もですか?」
心なしか、レオンにいつもの元気が無いような気がする。笑顔も……作られたもののように感じる。
「……俺は今から顔合わせなんです」
「顔合わせ?」
嫌な予感がした。レオンに会えて弾んだ心が、みるみるうちに固くなっていく。
「ほら、前に話したやつです。婚約の」
レオンが頭をかきながら笑った。
なにかを諦めたように。
「も、もう婚約者が決まるんですか」
「そうなんです。今日会って、双方の合意があれば」
「合意、するんですか……」
「スピカさん?」
このあいだ、失恋するまでは好きでいたいと心を決めたばかりなのに。
レオンが、もう誰かのものになってしまう。
「レオン様、展開が早いですよ」
「えっ?」
「ご自分で選びたいんじゃなかったんですか」
思わず、彼を責めるようなことを言ってしまった。スピカが訳のわからないことを口にするから、レオンが困惑しているではないか。彼の作り笑いがどんどん薄くなってゆく。
とうとうレオンの顔から笑みが消えたことで、我に返ったスピカはあわてて頭を下げた。
「変なことを言ってすみません! 顔合わせ、頑張って下さいね」
スピカは呆然と立ち尽くすレオンを残して、とぼとぼと帰路についた。
まっすぐ部屋へ帰ってしまったのは失敗だったかもしれない。
玄関に入った瞬間から涙が溢れて止まってくれない。一人きりだとこんなにも遠慮無く涙が出てしまう。泣いて、目を腫らしてどうするのだ。明日も仕事があるというのに。
サブロの店へ行けば良かった。彼ならきっと「またいい人が見つかるよ」って慰めてくれたのに。
スピカには、「顔合わせなんて行かないで」なんて言えなかった。レオンにとって、スピカなんて店で会うだけのただの他人なのだから。
今頃、彼は顔合わせを始めているところだろうか。相手はどんな人で、二人は何を話すのだろうか……
やっと始まった恋なのに、こんなにも早く終わりを迎えてしまった。スピカのこの胸はレオンでいっぱいになっているのに、一体この気持ちをどこへやれば良いのか分からない。
見えない婚約者を想像しながら、スピカは泣きつかれて眠りについた。