いつか
カウンターの中にはエビのトマト煮を作るサブロさんと、それを興味深く眺めるレオン。
店に入るなり、エプロン姿のレオンに「いらっしゃい!」と迎えられてスピカは目が点になった。
「レオン様いいですか。海鮮も肉も、とりあえず何でもトマトで煮込めばそれなりに旨くなりますからね。あとは塩加減です」
「なるほど……」
レオンがメモをとっている。どうやらサブロから料理を習っているらしい。
「これは……どうしたんですか」
「最近ようやく自炊を始めたんですけど、楽しくて。サブロさんにも少し教わりました」
そう言って、スピカの目の前には玉子のサラダが差し出された。
「これ、俺が作ったんです!食べてみて下さい」
「レオン様が!」
レオンが料理なんて嘘みたいだ。きれいに盛り付けられたサラダを一口食べると、優しく素朴な味がする。
「おいしい! おいしいですよレオン様!」
スピカが大袈裟に褒めると、レオンもサブロも楽しそうに笑った。
「スピカちゃん。ごめんね」
先程のトマト煮を食べていると、サブロがおもむろに謝った。しかしスピカは、何を謝られているのか分からない。
「二人をいちいち線引きして悪かったなって。これからはもう、応援するつもり」
常々、サブロは心配ゆえに身分について苦言を言い続けていた。レオンは伯爵令息だから、貴族だから、深追いはしないようにと。
「ううん。こちらこそ心配させてごめんなさい」
サブロの反応こそ当たり前なのだ。今だって、心配症のサブロとしては複雑な心境だろう。想いが通じあったとはいえ、スピカとレオンは手放しで祝福できるような関係ではない。それでも応援してくれていることが、彼女は嬉しかった。
「俺、頑張りますよサブロさん」
レオンが、サブロを安心させるように宣言した。一生懸命庶民の生活に寄り添おうとしているレオンを、サブロは微笑ましく思った。
「なぜいきなり自炊を始めたんですか?」
不思議に思って、帰り道をゆっくりと歩きながら聞いてみた。港町には店が沢山あるし、一人暮らしの男性くらいなら自炊しなくとも生活はできてしまう。
「やってみると思ったより楽しかったですし……スピカさんと暮らすためには、出来たほうがいいでしょう?」
「私と……暮らす?」
「はい」
「私と暮らす!?」
「なんで二回も聞くんですか」
レオンからの爆弾発言は、スピカには衝撃が強すぎて受け止めきれなかった。
「い、いつから」
「いつ、どんな形になるか分かりませんが、いつかは一緒に暮らすことになりますよね?」
レオンはそれが当たり前の未来だというように語る。
「俺、スピカさんのことは諦めないことに決めたんです。諦めるのなんて無理でした」
レオンは、先日から何度も伯爵家へ出向いていた。自身の立ち位置をはっきりさせるために。まだ彼の籍は伯爵家にあり、伯爵は相変わらず聞く耳を持たないらしい。それでもレオンは食い下がっているようだった。
「俺、頑張ります。頑張りますから、許しをもらえたその時は……」
レオンの優しい瞳がスピカを捕らえた。期待に高鳴る胸を抑えられず、じっと彼を見つめる。
「本当の、婚約者になってくれますか」
本当にそれが実現可能かどうかは分からない。ただレオンが諦めないでいてくれる。スピカとの未来を描いていてくれる。
そんな彼を信じる以外、スピカに出来ることはあるだろうか。
「はい。もちろんです……」
まただ。レオンを前にすると、また涙が出てきてしまう。目頭に力を込めて、涙をこらえようと挑戦してみた。でも、無理だった。
「レオン様、ありがとう」
スピカは、両手で顔を覆った。この情けない泣き顔を隠すために。あとからあとから涙が溢れて止まらない。これではどちらが年上なんだか分からない。
「ありがとう、ありがとう……」
「スピカさん、顔を見せて」
「無理ですよ……」
「顔が見たいです」
「駄目です……あっ」
しばらく押し問答を繰り返していると、焦れたレオンが彼女の手を顔から取り去り、スピカの泣き顔があらわになった。
彼によって両手が封じられたスピカは、抵抗も出来ずに唯々涙を流し続ける。
「スピカさん、好きです」
レオンは、小さな彼女の顔を覗き込んだ。
どちらともなく瞳は閉じられ、二人は柔らかなキスをした。
ある日の放課後、職員室はざわついていた。
スピカは音楽室から戻ってきたばかりだった。隣の机で日誌を広げているリブラに事情を聞こうか。とりあえず自分も雑務を終わらせようと着席すると、噂好きのリブラから声をかけられた。
「正門の脇に、謎の馬車が停まってるの。学園長の馬車でもないみたいで」
「学園長のお客様じゃないんですか?」
「学園長室にもお客様なんていらっしゃらないのよ」
では誰かを迎えに来た馬車なのだろうか?仕事が溜まりにたまっていたスピカは、まあいいか……と他人事のように机仕事を始めた。
日もすっかり暮れて雑務に一段落がついた頃、スピカも、ようやく窓の外に目をやった。職員室は、防犯のために校門がよく見える造りとなっていた。確かに校門の傍には質の良い馬車が停まっている。
ただし、彼女にとってあれは『謎の馬車』ではなかった。あれは……
スピカの指先がどんどん冷たくなっていく。
「スピカ先生……あの馬車、もしかしてスピカ先生を待ってるんじゃない?」
カンセルが傍まで来て耳打ちした。実は彼にもあの馬車は見覚えがあったのだ。それもそのはず、あの方を案内したのはカンセルだった。
あの馬車は……以前、レオンの母・カリーナが乗ってきた馬車だ!
スピカはバタバタと身支度を整え、急いで職員室を後にした。どれほど待たせてしまったのだろうか。ヒールの低い靴で良かった、スピカは全速力で校門まで向かった。
彼女が校門まで近づくと、御者がおもむろに礼をした。
「スピカ先生とお見受けしますが」
「はい……」
「カリーナ様よりお連れするように承っております、どうぞこちらへ」
御者は、流れるような動作で馬車の扉を開けた。中には誰もおらず、乗り込むのはスピカ一人のみ。
「あの……どちらまで?」
不安になったスピカは、失礼を承知で質問した。
「ファーブラ男爵家までと仰せつかっております」
ますます意味が分からなくなってしまった。ファーブラ男爵家など、聞いたことも無い。一体、どこにあるのかも。
「お帰りは必ずご自宅まで送り届けるとお約束致しましょう。さあ、こちらへ」
物腰穏やかな御者だが、圧が凄い。スピカはカリーナを信じて、こわごわ馬車へと乗り込んだ。




