転:靴磨き少年の神話と、暗黒の木曜日――世界恐慌!
「へっへ、お兄さん。今、どんな株を買えば儲かると思います?」
そんな事を俺に言ってきたのは、靴磨きの少年だった。
「ふーむ、どうだろうねえ。っていうかパット。きみ、株に興味あるのかい?」
「もちろんです。ここニューヨークは、いつだって株の話題で持ち切りですもん。
僕もお金があったら、○○株を買うんですけどね。アレはいいですよ、間違いなく儲かります!」
そんな他愛ない、俺と靴磨き少年の会話を聞いていたのか――莉央ちゃんはボソリと呟く。
「……なるほど確かに、そろそろ潮時のようですね」
「潮時って、何が?」
「下田さん。今年は1929年です。世界史の授業で習いませんでしたか? いったい何が起きるのか」
「今年……1929年……あっ」
俺はしばらく頭を捻ってから、ようやく思い出した。
「……世界恐慌か!」
「はい。正確に言えば、今年の10月24日から、株価の暴落が始まります」
そう言えば、俺も聞いた事がある。
靴磨きの少年ですら株の話をする。投資に最も縁がなさそうな人間まで「株が儲かる」などと言い出すのは、凋落の前兆。何故ならもう、新たな株の買い手が誰もいないからだ――と。いわゆる「靴磨き少年の神話」というヤツだ。
「……しっかし、今は1929年迎えたばかりだけど。
全っ然、大暴落が起きるようには見えねーよな……相変わらず、みんな羽振りは良さそうだし」
「……本当にそう思いますか? 下田さん。
ニューヨークに行き交う人々を、よく観察してみて下さい」
莉央ちゃんに言われ、俺はじーっと街の人たちを眺めていた――やがて気づく。
「うん……? よーく見てみると、くたびれた服を来た、みすぼらしい人がチラホラといるような……?」
「気がつきましたか。彼らは元・農夫です。
十年以上前になりますが、第一次世界大戦の頃はヨーロッパが主戦場となり、食糧不足が予想されました。
そこでアメリカ人は食糧価格が上がると見込んで、皆こぞって農地を買い、農家を始めたんです」
しかし戦争が終わって数年経つと、欧州の農業生産力も次第に回復していき――徐々に食糧価格は下がり始め、彼らは思ったように儲からなくなる。
都市部が好景気に浮かれている中、農村は一足先に不況で苦しんでいたのだ。
「加えて今年、1929年の秋は豊作になります。このあおりを受けて食糧価格はとんでもなく下がり、利益が見込めなくなるでしょう。
そして土地代を支払えなくなった農家の皆さんは、泣く泣く農地を二束三文で手放すハメになるのです」
「それであいつら、あんな浮かない顔してるのか……でもそれって、農民だけだろ?
都市部はまだまだ景気良さそうなカンジするけど」
「彼ら農民だって、経済を回す消費者である事に変わりありません。彼らが貧乏になれば、それだけ需要は縮小します。
ですがそうなっても、年々好況が続くと思っていた都市部の製造業は、急に生産縮小とかはできないんですよ。結果、どうなると思います?」
「…………あっ」
小さくなった需要に見合わない供給過多。その行き着く先は――商品価格の下落。利益の減少。芋づる式に――農業と同様、工業も深刻なダメージを受けるだろう。
「やべーじゃん! 急いでジョーおじさんに報せないと!」
「……恐らく必要ないと思われますが、一応行きましょうか」
俺と莉央ちゃんは早速、ジョーおじさんの所に向かったが――彼はいち早く株を売り払っていた。
なんでも彼の友人からすでに「株式市場はそろそろヤバイ」という忠告を受け、それに従っていたらしい。流石というか、何というか。
そして迎える――1929年10月24日。後に「暗黒の木曜日」と呼ばれる、悪夢の日がやってきた。
この日の株価下落は、銀行が介入し一旦は下げ止まったものの――翌週には再び株価が下がってしまう。
これを見た投資家たちは「もうだめだ、おしまいだぁ!」とパニックに陥り、売り注文が殺到――もはや大暴落に歯止めが利かなくなった。
世に言う、世界恐慌の始まりである。
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それから起きた事は、本当に「悲惨」の一言に尽きる。
預金の取り付け騒ぎが起こり、企業や銀行が次々と倒産。
投資家たちの大半は「どうせ値上がりするから」と、個人財産の数百倍にも及ぶ巨額の信用取引をしていた。これは当たれば大儲けできるが、もし外れたら凄まじい金額の罰金が発生する、ハイリスク・ハイリターンな取引である。案の定、投資家たちは莫大な罰金を工面できず――自殺者が相次いだ。
「みんな失業して、腹を空かせてるな……農村には食糧が有り余ってるってのに」
「皆さん、お金がないんですよ。だからモノがあっても、買う事すらできないんです」
アメリカ経済の失速は、全世界に波及し――世界各国が未曽有の不況に襲われるハメになる。このクソみたいな事態が原因で、後の二度目の世界大戦に繋がる事は――改めて述べるまでもないだろう。
余談だが、この不況が解消され、株価の水準が元に戻るまで……実に二十年以上もの歳月を要する事となる。
「ジョーおじさんはこんな状況でも、株の売却で大金持ちです。
もっとも、映画女優とは折り合いがつかず、ハリウッド進出は断念したようですが」
「なあ……いくらなんでも、飢えてる人たちが不憫すぎる。何とかならないかな、莉央ちゃん?」
俺がすがるように言うと、莉央ちゃんは「やれやれ」と溜め息をついた。
「下田さん。こんな状況では、わたし達だけでできる事なんて限られています。
たとえ事前情報を知っていたとしても、世界の流れを食い止められるなんて、思い上がらない事です」
「ぐっ…………」
言葉に詰まる俺に、莉央ちゃんはボソリと呟く。
「――でも下田さんなら、そう言うだろうと思っていました。
あなたの自己満足を叶えるため、ささやかですが、やれる事をやっておきましたよ」
「えっ」
そう言って莉央ちゃんに案内された先は、俺たちが所有する倉庫のひとつ。
そこには沢山の食糧が運び込まれていた。
「おお! なんかスゲエ! 莉央ちゃん、いつの間に――!?」
「何しろ、食糧価格は下がり切っていましたからね。わたしも株の空売りでそれなりに儲けましたし。
ジョーおじさんにも許可は貰っています。これを一般に開放しましょう」
「さすが莉央ちゃんだぜ! ありがとう!」
「礼を言われるほどのモノではないですよ。大した元手もかかっていませんし。
個人で集められる規模では、失業者すべてに行き渡らせるには到底足りません」
普段はクールに振る舞っていて、冷たい印象を受ける莉央ちゃんだが。
この時ばかりは、平静を装ってても声が震えていた。彼女もきっと、悔しかったんだろうな。
だから俺は、茶化さずにただ――莉央ちゃんに感謝の言葉を述べ続けたんだ。