エピローグ:なぜ馬謖は斬られたのか
「へ? なんで馬謖が斬られたかって……ここまでの経緯を見れば一目瞭然だろ?
諸葛亮の命令に背いた挙句の大失態。ここから張郃の軍に散々打ち破られて、ほうほうの体で逃げ出す訳だし。
そりゃもう、処刑されちまうのも残念ながら当然ってカンジするけどな」
「確かに街亭の大敗による責任は重大です。この地での敗北が、諸葛亮の攻勢の中断、そして撤退に繋がり。
せっかく苦労して寝返らせた雍州三郡も奪い返され、蜀に協力した異民族の皆さんは容赦なく処断されました。
第一次北伐の失敗が蜀に及ぼした戦略的影響は、計り知れないものがあったのは事実です」
「だろ? だったら……」
「それでも、『それだけ』だったなら……ただの敗北です。
たった一度の失態でいちいち命まで取っていたら、すべての軍人は生き残る事すらできませんよ。
実際、今回素晴らしい采配をした張郃も、この手の大敗を何度も経験して、歴戦の猛者となっているのですから」
そんな莉央ちゃんの主張に、俺もようやく首を傾げるに至った。
ではなぜ馬謖は「たった一度の失態で」諸葛亮に処刑されてしまったのだろうか?
俺たちは密かに南山に登り、危機的状況に陥っている蜀軍の様子を見に行った。
喉の「渇き」というのは、怪我や飢えなどより、遥かに耐え難い苦痛を生むと言われている。
たった三日しか経っていないのに、兵士たちは死んだように倒れ、苦しんでおり痛々しかった。
しかしそれ以上に……軍の統制が全く取れておらず、まだ比較的元気な兵たちも動揺しまくっているのが印象的だ。
「なんだ? 何があったんだ……」
「これは、想像していたよりもマズイ事態ですね。下田さん、一刻も早くここから逃げましょう」
莉央ちゃんに引っ張られ、俺たちは下山を始める。
背後から聞こえてきたのは、蜀兵たちの怨嗟と混乱の喧騒だった。
「おい! なんで命令が来ない? 馬謖将軍はどこにおられるのだ!?」
「探したけど見つからねえ! 側近連中も一緒に消えてる……きっと逃げたんだ。俺たちを置き去りにして……!」
この言葉を聞き、俺は全てを理解した。
俺は勘違いしていた。これまでずっと「馬謖は戦って敗れ、そして逃げた」とばかり思っていたが、違った。
「馬謖が真っ先に逃げたから、蜀軍は戦う前から敗れた」んだ。
必死に山を下りている間に、俺は莉央ちゃんとはぐれてしまった。
そして間の悪い事に、攻め寄せてきた魏の軍勢と鉢合わせしてしまう。
「どうしてこうなった……どうしてこうなった!?」
方々で戦い――いや、一方的な虐殺が起こっている。渇きに苦しむ蜀軍に、もはや戦闘能力などありはしない。
俺の目の前にも、魏兵の槍が迫っていた。余りにもリアルな死の予感に、俺は為す術もなく――目を閉じるしかなかった。
***
「…………はッ!?」
俺は気がつくと、学校の中にいた。
隣で莉央ちゃんが心配そうに、顔を覗き込んでいる。
「気がつきましたか下田さん。
随分うなされてましたが、悪い夢でも見ていたんですか?」
「……へ、夢……? もしかして、夢オチってやつか? 今の……」
夢にせよ夢じゃなかったにせよ。どうやらギリギリの所でタイムスリップが解除され、現代に戻ってこれたらしい。
「……本当に、馬謖ってどうしようもねえ奴だったんだな……」
放課後、俺はポツリとそんな事を呟いた。
しかし最初に言った同じ台詞と、今の言葉はニュアンスが違う。
「莉央ちゃん。言っても信じて貰えないかもしれないけど……
馬謖って、戦場から真っ先に逃げたんだよ。だから処断されたんだ」
「……なるほど。敵前逃亡は重罪ですからね。
そんな事を許していては、誰も命がけで戦争しようなんて思いませんし」
後で莉央ちゃんと一緒に、三国志の史料を調べてみた。
馬謖の軍は壊滅したものの、馬謖およびその側近たちは脱出に成功しており――諸葛亮によって軍規違反で斬られたとある。
「夷陵の戦いの時の史料と比べても、確かに不自然な記述です。
部隊が全滅に近い損害を受ければ、後方にいる総大将や側近も戦死してしまう事が多い。
にも関わらず馬謖は側近を含めた将官クラスが軒並み処刑されています。戦死ではなく『処刑』。
もちろん、憶測の域を出ませんが……これは戦う前から持ち場を離れ、部隊が指揮すらされず。大混乱に陥った事の証ではないでしょうか」
馬謖が敵前逃亡したと考察できる判断材料は他にもある。敗残した蜀兵をまとめ上げ、撤退に成功したのは、副将の王平だというのだ。
つまり馬謖は指揮官としての最低限の責務もうっちゃらかし、後始末をすべて王平に丸投げしたという事に他ならない。
真相……いや、ただの夢かもしれないが……を知った今、俺は馬謖を斬って泣いた諸葛亮の気持ちに、思いを馳せた。
信じて送り出した愛弟子が、取り返しのつかない失態をしでかし。しかもプレッシャーに耐えられず敵前逃亡したため、助命する事もできなかった。
その無念たるや、どれほどのものだったろう。俺には想像すらつかない。
「孔明さんってよく、細かい仕事も部下に任せきりにできず、全部自分でこなしたせいで過労死したって言われるよな。
こんなトラウマ背負っちまったんじゃ、そうなっちまうのも無理はないんじゃあ……」
諸葛亮の期待に背いたのは、馬謖だけではない。李厳、魏延、楊儀など……いずれも蜀の柱石を担う将軍でありながら、能力不足ではなく人格が原因で失脚しているのだ。
「国を作り、大勢の人々をまとめ上げて組織運営する以上、敵だけでなく味方にも頭を悩ませないといけない。
よくある話ではありますが……悲しいとは思いますね」
俺は未だ頭にこびりついている、槍の穂先を思い浮かべた。
アレは本当に夢だったのか? 夢にしては鬼気迫るシーンだった。
莉央ちゃんは素知らぬ風で、俺が三国時代にタイムスリップした事を告げても「夢の中でも私が出てきたんですね、やらしい」みたいな事を言われ、茶化されてしまった。
しかし彼女が、どことなくホッとした顔をしているように見えたのは、気のせいか。
夢か、現実か。俺はしまいには分からなくなって、ぼんやりと教室の天井を見上げた。
(第6話 おしまい)




