五:遣隋使のナゾ② ~対等外交だったのか?~
「資金の出所は分かったけど、二度目の遣隋使の時って確か、相手の皇帝を怒らせてなかった?
ホラ、『日出処の天子~』とか何とか言っちゃってさ」
俺も一応、この第二回遣隋使(607年)についてはちょっと資料を漁って読んだ事がある。
大和を日が昇る国、隋を日が沈む国と称したのは、まるで日本が上であるかのように聞こえるが――仏教的にこの言い回しは、単に方角を意味するだけで、特に上下の差はないそうだ。
隋の皇帝・煬帝が怒ったのは、自分を差し置いて「天子」と名乗ったからだという。しかし当時の隋は朝鮮半島の強国・高句麗と緊張状態にあり、大和を味方につけておきたかった。それを見越して強気に出たのだとしたら、聖徳太子もなかなかどうして、したたかな一面がある。
「下田さんのおっしゃるように……太子は国際情勢を熟知していて、敢えて対等外交に臨んだ――という説はよく聞きますね」
「んん? また引っかかる言い方だな。異論があるのか?」
「もちろんこれは、一説に過ぎませんが……実は大和は、煬帝に対し敬意を払っていたという説もあるんですよ」
莉央ちゃんが言うには、隋書に曰く――国書を読み上げる前に小野妹子は、煬帝の事を「菩薩天子、重興佛法」と褒め称えいる、というのである。
「つまり妹子さんは煬帝を『仏法を重んじ、熱心に興した素晴らしい天子』である、と持ち上げたのです。
特に後半の言い回しは、煬帝の父・文帝がよく使っていた文言で、聖徳太子は隋についてよく学んでから二度目の使者を送った事をアピールしたんですね。
もし本気で怒らせてしまったのなら、隋側も翌年に返礼の使者を送ったりしなかったでしょうし」
「えぇえ……そーなの? じゃあ大和っつーか、聖徳太子は別に対等外交なんて狙ってなかったって……?
だとするなら一体なんで、そんな説が……」
「……それはもちろん、日本書紀の編纂者が都合よく『当時のウチは大国・隋とも対等に外交できたんですぜゲヘヘ』とイキってみたかったからです。
何しろこの頃にはもう、隋は滅んで唐になってますから。死人に口なしといった所でしょうか」
「…………」
俺は呆れて絶句してしまった。日本も結構、やりたい放題やってるんだなぁ。




