急:負けた側が同情できるとは限らない
中国南部・広東省。
1839年3月に着任した林則徐は、アヘンを徹底的に取り締まる旨をイギリス側に通告した。
「林則徐大臣! 何なのだこの一方的な要求は!?」
「何とはまた……異な事を申されますな、チャールズ・エリオット外交官殿。
まさかご存知なかったのですか? 我が国ではたびたび、アヘンに対して禁令を出しております。
あなたの国ではどうだか知らぬが、少なくとも清国内でのアヘン『密売』は違法なのですよ」
「ああ、知っているとも。だがこの件はすでに、鄧廷楨殿と話がついていたハズだ!」
「彼のやり方は手ぬるいと、各方面から不満が噴出しておりましてねェ。それで代わって私が派遣されたという訳でして。
それにイギリス商人の皆さま方は、私の再三にわたるアヘン引き渡し要求を無視してしまっている。由々しき問題でしょう?」
「つい先日までは、アヘン取引を止めればそれでいいという話だったのに、いきなり全部引き渡せと言い出す方が無茶だろう! アヘンだってタダではない。商人たちが高い金を出して買った、れっきとした商品なんだぞ?
しかもこの過激な通告はどういうつもりだ? 『今後一切、アヘンを清国に持ち込むな。従わなければ積荷没収の上に死罪に処す』とは……!
鄧廷楨殿が現地人にやっていたのを見たが……お前たちの国の死刑というのは、罪人を少しずつ切り刻み、できるだけ長く苦しめるという、あの残虐きわまる凌遅刑であろう? 正気の沙汰ではない! こんな要求、断固として受け入れる訳にはいかん!」
出た、中国伝統の最も過酷な刑罰である凌遅刑。心臓の弱い方は絶対画像検索などしてはいけないヤツだ。
「そもそも清国のアヘン禁令など、今まで有名無実も同然だったではないか。
貴様ら清国の役人どもは、禁令を知りながらアヘン商人に賄賂を要求し、その見返りに取引を黙認していた。
林則徐大臣、あなたもその一人だった! 私が知らないとでも思っているのか?」
「……はて、そんな事もございましたか。ですがねエリオット殿。状況が変わってしまったのです。
賄賂を払えば見逃してもらえる――そんな腐った時代はもう、過去のものだ」
「詭弁だな。分かっているぞ? 貴様らが目障りなのは、最も売れている我がイギリスのアヘンだけだ、という事ぐらいな。
今回の勧告も、アヘン取引量が最も多い我が国が、一番被害を受ける。それに引き換えアメリカやドイツはお咎めなしも同然だ。こんな不公平な話があるか!」
林則徐は憤慨するエリオットの言葉に対し、面白くもなさそうにフン、と鼻を鳴らした。
「分かりました。そこまでおっしゃるのであれば……我が国の本音をお話ししましょう。
今や清国の中央政府は、黄爵滋一派が牛耳っている。いかな過激で不平等だろうが、彼らの意向に従わねば私の地位が危ないのですよ。
なあに、たかが一筆、誓約書を書くだけじゃありませんか。その場しのぎに。後からいくらでも変更は利きますよ」
「それは、そなたら清国においての常識であろう……! 我らイギリスではそうはいかぬ。破るつもりで軽はずみに条約を結ぶなどあり得んのだ。それにそんな約束をすれば、ただでさえ銀不足の我が国の経済が破綻してしまう……!」
「なるほど、あくまで誓約書は拒否なさると。では致し方ございませんな。
……お前たち。直ちにこの船に積まれたアヘン全てを運び出し、処分せよ」
「ははッ!」
林則徐の部下たちの強引な手法に、イギリス商船の船員から悲鳴が上がる。
「やめろ! やめてくれえ! ベンガル産の高級アヘンだぞ!
仕入とここまでの運賃にどれだけカネをかけたと思ってる? それを全部没収なんて……! 俺たちは明日からどうやって生きていけばいいんだッ!?」
「悪辣な密輸商人ごときの生活など、私の知った事ではございませんな。
鄧廷楨はあなたがた外国人を敵に回す事を、極端に恐れていましたが……私は違う。やると言ったらやる男です」
止める手立てはなかった。武装した役人を引き連れている林則徐側と違い、イギリス側には戦力が存在しなかったのだ。
やむなくエリオット外交官はアヘン引き渡しには応じたが、誓約書の署名は頑として拒否した。
すると翌日九竜半島にて、自棄になったイギリス船員が現地人を殺害するという事件が発生してしまう。
「まずい事になった。向こうに更なる強硬策に出る口実を与えてしまった」
「エリオット殿。許しがたき罪人たるイギリス船員の身柄、引き渡していただきましょうか!」
エリオットはこの要求も拒絶。応じれば死罪になるのは明白だったからだ。
イギリス人たちは5月になると、身の安全の確保のため、ポルトガル領マカオへ避難するのだった。
***
「……いよいよのっぴきならねえ事態になったなぁ。ここまで強気に出られたら、もう戦争待ったなしじゃねえか」
俺と莉央ちゃんは、こっそり広東まで来ていた。
じきにアヘン戦争が始まり、ここは戦場となるだろう。危険極まりないのは疑いようもないが……珍しく莉央ちゃんから「当時の様子をつぶさに見たい」と申し出があったのだ。
「開戦前、現地にいたイギリス人は皆非戦闘員でした。
しかもアレをご覧下さい、下田さん」
莉央ちゃんが指さす先には、夜陰に乗じてマカオに潜入している清国人の姿が見えた。
「何やってんだ? あれ」
「井戸に毒を放り込んでいるのです。マカオに住むイギリス人を皆殺しにするために」
「なんだよソレ……非戦闘員相手にそこまでする……?」
「当時の中国人の価値観では普通なのかもしれませんが……清廉潔白な烈士というだけあり、情け容赦ないですね」
林則徐は、決して越えてはならない一線を、軽々と越えてしまった。
イギリス人たちは結局マカオからも脱出し、自国の船へと逃亡する事に。
と、その頃ちょうど、広東近海にイギリスの戦艦が二隻、姿を現した。
「おおっ。ついにイギリス海軍が救援に来てくれたんだな!?」
「いいえ下田さん。本格的に助ける気なら、最も小さい六等艦たったの二隻というのはおかしな話です。
アレは戦闘目的ではなく、たまたまエリオットの上司が様子見で派遣しただけのもの。威力偵察用といった所でしょうか」
「……えぇえ……うわ、もう清の軍船がワラワラ集まってきてる。
大丈夫なのかアレ……?」
何とも心もとない戦力。それでもエリオット外交官は――選択の余地もなかったのだろうが――この二隻で戦う事を決めたようだ。
たちまち清国の軍船に取り囲まれ、激しい海戦となる。二隻vs二十九隻という、数だけ見れば絶望的な戦力差だったが……それでも勝利したのはイギリス側だった。
「ふえー。さすがに一隻、中破したみたいだけど……すげえなイギリス海軍。マジで勝っちまった」
「清国はこの頃、海戦に長けた漢人士官をリストラしてたんですよ。満州人・モンゴル人のポストが足りなくなってしまい、その穴埋めのために。
もちろん技術格差も大きかったでしょうが、それ以上に軍の経験不足が響いていたのです」
その後の経過については、今更語るまでもないだろう。
当初こそ開戦に難色を示していたイギリス政府だったが、清の軍事力が弱体と見るや、一気に主戦派の勢いが強くなり――本格的に軍を派遣する事に。
あの鄧廷楨さんが守っていた都市は、英国軍の撃退に成功したようだが……その他の局地戦はイギリス側の圧勝。英海軍はどんどん北上し、首都北京にほど近い天津にまで迫る事となる。
これを見て清国皇帝は愕然とした。何しろ本人の下には色好い報告しか届いておらず、戦況は優勢だと思い込んでいたのだ。
「林則徐よ、これは一体どういう事だ……?
これまでそなた、『我が軍大勝利』と報告していたではないか!」
「ええっと……それは、その……」
そもそもがして皇帝は、外国との戦争など最初から望んでいなかった。
林則徐は不用意な対応をして、今回の戦争を引き起こした責を問われ――全権大臣から解任。新疆ウイグルに左遷される。
でもそこから彼は左遷先での功績を認められ、「太平天国の乱」の時に再び全権大臣に返り咲いたりするんだから、世の中ホント分からないね。




