序:アヘンはイギリスだけの物じゃない
「……あーあ。下田さんが余計な事を言ったせいで、また過去にタイムスリップしてしまったじゃないですか」
「え、これって俺のせいなの!? っていうかまたかよチクショウ! ここはどこだァ!?」
俺は絶叫した。え? 歴史好きとしては垂涎モノの特殊スキルだって? 埋もれた過去の謎を解明できるじゃないか、だって?
……誰の仕業か知らねえけど、何の準備もしてねーのに、コンビニ感覚でいきなり過去に飛ばされる方の身にもなってくれ!
確かに真実は知りたいけど、別にタイムスリップしたいなんて思った事、一度だってねーから!
「ここは19世紀半ばの中国大陸の江南地方――長江の玄関口たる上海ですね」
相も変わらず莉央ちゃん、クールすぎる。あと場所の特定がG××gleマップより早い。早過ぎる。
「へー、ここがあの上海……ってか、それにしても随分と荒れ果ててねーか? あっちこっち水浸しじゃあねーか」
「ふむ。私の記憶が確かならば恐らく、今は1830~35年といった所でしょう。
実はこの時期、南の長江下流および、その北に位置する淮河で大規模な水害が起こった事が記録されています。
このため農作物に甚大な被害が出て、人々は飢え困窮し――苦しみを紛らわせるため、アヘンを欲したのです」
いつもの事ながら、女子高生の知識レベルじゃないよね莉央ちゃん。今更もう驚かねーけど。
「なるほど。でもなぁ、いくら飢えたからって麻薬に走るなんて……とんでもねえ話だな」
「下田さん。我々現代人の価値観で、当時のアヘンを『忌まわしき麻薬』と決めつけるのは、早計というものですよ」
「そーなのか? でもつまりこーゆー事だろ? 飢えてる清国人たちの需要につけ込んで、イギリス人がアヘンを大量に持ち込んだ。
アヘンに蝕まれた国を憂い、林則徐さんが正義のために立ち上がったのも、無理もない話なんじゃねーの?
そりゃ、結果だけ見ればボロクソに負けた訳だから、やり方は間違ってたのかもしれねーけどよ」
林則徐。清国からアヘンを一掃するため、皇帝から全権を委任された大臣だが……そのためにアヘン戦争の引き金になったとされる人物だ。
ところが俺の言い分に、莉央ちゃんの笑顔が心底乾き切った、蔑みさえ感じるようなモノに変わった。
「下田さん……林則徐が正義の人だなんて、あり得ませんよ。
ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから」
「え!? そこ授業で思いっきりそう教わるトコだよね!? ファンタジー扱いされるような内容なのォ!?」
「まあ、当時アヘンが中国を蝕んでいた……という主張は『間違ってはいない』と思います。
もっともそれは、下田さんの考えているような理由からではありませんが……そもそもの話をしましょう。
アヘンはイギリスの専売特許ではありません」
「…………へっ…………?」
そう言うと莉央ちゃんは、俺を連れて上海の街をあちこち歩き回った。
いわゆるアヘン窟と呼ばれる場所で、みんな細長いパイプに黒い粉を入れてプカプカ吸っている。
そしてそれを取り扱っているのは、莉央ちゃんの言うように――イギリス人ではなかった。思いっきり辮髪を結った、現地の商人だったのだ。
「お分かりいただけましたか? 下田さん。
アヘンはイギリス以外の国も売っていました。もちろん清国の中にすら、アヘンを取り扱う業者が存在したのです」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ莉央ちゃん! じゃあなんでイギリスだけが槍玉に上がってたんだ!?
やべー麻薬であるハズのアヘンを、なんでどこの国もフツーに取り扱ってるんだよッ!?」
「先ほども言いましたが、その『アヘン=やべー麻薬』っていう固定観念をまず、捨て去って下さい。
この当時のアヘンは、医薬品・嗜好品といった扱いだったのです。痛みを和らげてくれるので、麻酔代わりに使っていました。
古くは元の時代からアヘンを吸うのは貴族のたしなみ、的なノリだったので。
それが今回の水害騒ぎで、庶民も買い求めるようになっていった……例えるなら、今の日本でいうタバコみたいなもんですね」
「マジかよ……」
「では何故、イギリスのアヘンだけ目の敵にされたのか? その答えは『質が良かった』からです。
当時のアヘンの最高峰は、ベンガル地方(註:現在のインド東とバングラデシュの辺り)産。
ベンガル地方を抱えるインドはこの時代、当然ながらイギリスの植民地です。
なのでイギリスの持ち込んでくるアヘンが一番の売れ筋で、他のアヘンはシェアを食われていた訳ですね」
「え。つまり『国民を麻薬漬けにするなんてけしからん!』っていう人道的な理由じゃなくて。
単に儲けをかっさらわれてたから、排除したいって……そーゆー商業的な理由だったわけ?」
「ええ。まあ一応、アヘン禁令はたびたび出されていましたから、違法は違法なんでしょうけど……
ですが地方の役人たちは、アヘン業者から賄賂を受け取って、彼らの商売を事実上黙認していました。
これに関しては林則徐も例外ではありません。ちゃっかり彼らから大金をせしめていたのです」
「ウッソだろオイ……全然正義の人じゃねーじゃん林則徐ォ!?」
「といっても別に、この手の贈収賄は不正というより、慣習としての側面が大きいんですけどね。
何しろ中国役人って、元の給料が安すぎるので。賄賂がないと部下に褒美を与えたり、生活を維持する事すら困難な有様だったのですから」
「う、うーん……」
「……とまあ、この時代の清は政情不安だった訳です。
で、その混乱につけ込み、極端な言動で政治の実権を握ろうとする一派が出てくるのは世の常というもの。
それが林則徐も傾倒した『黄爵滋』なる知識人です」
「こ、黄爵滋……だ、誰?」
「そうですね。現代風に例えると、過激な論説で注目を集めたがる、辛口コメンテーターとでも言いましょうか……
黄爵滋は世情の混乱に対し、現地の実情を顧みない理想論をブチ上げまくります。
例えば『アヘン吸った奴は全員死刑にしろ!』とか。日本でいうなら喫煙者を全員絞首刑に処せ、とか言ってるようなモンです。
一体何万人を捕えて処刑せねばならないか。もし本当に実行したら、間違いなく国家経済は機能不全に陥る事でしょう」
「俺もタバコの煙は嫌いだけど……だからって皆殺しはやり過ぎだよなぁ……」
こういう時、人々はしばしば「○○のせいだ!」と物事を単純化し、犯人探しをしたがる。ナチスドイツもやっていたし、現代でも似たような事が行われている。
「まーでもさ。こーゆー過激すぎる意見は普通、通らねえだろ。非現実的だし」
「私もそう、思いたいですがね……では実際の所どうなったのか。首都北京に行って確かめてみましょうか」




