第7話 阿仁鍬明人の迷惑的日常02『犬』『夏』『青』
僕は阿仁鍬明人、ここ私立金冴有場高校に在籍する二年生だ。
さっき鳴ったチャイムは、二時限目の授業の開始を知らせるものだ。
だが僕が今居る場所は、校舎の中でも教室の席でもない。
静かな校庭の片隅で、ある一人の馬鹿を眺めている。
「おい、雌豚。野良はまずいぞ。病気を持っているかもしれん」
「むむむ、どうしましょう阿仁鍬君。挑んでしまいました」
校庭に迷い込んできた野良犬に、戦いを挑んだ馬鹿がそこに居た。
犬の首には首輪が見える。
元々は飼われていたのかもしれないが、体は痩せ細り、涎を垂らしながら威嚇するその姿は完全に野生化している。
おそらく野良になってから、かなり経つのだろう。
そんな犬に無防備に近づいた馬鹿は今、向かい合ってお互いに睨み合っていた。
薄井幸子。――この馬鹿の名前だ。
僕にとってはどうでもいい事なのだが、こいつはある特殊な呪いを受けている。
毎日天からメッセージが降りてきて、三つのお題をクリアしなければ死に至るという、ふざけた呪いだ。
普通の人がこれを聞いた所で冗談か頭のおかしいやつと一笑に付すに違いないが、僕が探偵を雇って調べた所、こいつの家族は両親と姉の全員が原因不明の死を遂げていた。
自分以外の家族全員の死で、頭がおかしくなったとしてもおかしくはないが、どうにもこいつが狂っているとも思えない。
僕はたまたま呪いについて知ってしまったが、誰彼とその呪いについて吹聴している風もなければ、暮らしが激貧だという他は、特におかしな思考や行動をしているわけでもない。
いや、三題を探すその姿は、既におかしな行動になるのか。
現に今こうやって授業も受けずに、野良犬と睨み合っているのだから。
まあ狂っていようがいまいがどちらにせよ、僕にはその呪いもどうでもいい事で、なんだかんだとこいつに巻き込まれはするが、面白ければそれでいいか、というくらいには最近は開き直ってこいつに付き合ってやっているのだ。
しかし夏真っ盛りのこの暑い中で、ずっと校庭に居るのも馬鹿らしい。
おそらく今日のお題に『犬』が含まれているだろうという事は想像に難くないのだが、そろそろ僕はお暇するとしよう。
エアコンの効いた部室で先日買ったアニメのDVD観賞をするという大事な時間を、これ以上割かれるわけにはいかない。
「おい、雌豚――」
「危ない! 阿仁鍬君!」
突然こいつは何を思ったのか、危ないと言いつつ僕の方に突進してきやがった。
目が笑ってやがる。
それを見て、こいつの魂胆を理解した。
「こっちに来るな!」
雌豚が僕の後ろに隠れた刹那、野良犬が飛びかかってきた。
「くそ!」
咄嗟に腰に差してある鉄製の伸縮式の特殊警棒を抜き、一振りして瞬時に五十センチに引き延ばす。
だがその引き延ばす作業が、僕の行動をワンテンポ遅らせた。
野良犬の鋭い牙が迫る!
「はぁ!」
次の瞬間、雌豚の回し蹴りが野良犬の胴体をヒットさせて、その痩せ細った体を弾き飛ばした。
「キャウゥン!」
校庭の地面にワンバウンドした野良犬はすぐに起き上がり、あわてて走り去って行った。
「貴様! 僕を盾にしたな!?」
「いや、阿仁鍬君が危ないと思って」
「ふざけるな! 貴様がこっちに来なければよかっただけだ!」
まったくこいつの行動は、僕を巻き込む事しかしない。
「阿仁鍬君、そんな警棒を持っていたのですね」
「ふん。僕の実家は超の付く金持ちの家だからな。たまに誘拐されそうになったりもするから、自衛のために必要なのだ」
「凄いですね。お金持ちって大変なのですね」
こいつの空手の腕はそこそこだ。
最初からそうすればいいものを、何で僕を巻き込もうとするかな。
「まあいい、僕は部室に戻るから貴様は勝手にやっていろ」
踵を返し、背中を向けた僕にやつはのたまった。
「そんな、阿仁鍬君が手伝ってくれなければ、私死んじゃいます」
こいつの言う呪いにはタイムリミットがあって、深夜零時までに三つのお題を完遂しなければならないと言うのだ。
そしてクリアできなかった時には死が訪れる。
だがしかし、僕に言わせれば三次元の女が何人死のうが関係ないのだ。
アニメの推しキャラだった女の子が作品の中で死んでしまう事の方が、僕にとっては大事件なのだ。
「知るか。僕は忙しいのだ」
振り向きもせずに言い捨てると、僕はそのまま部室に向かった。
「今日は合い言葉も無しですね」
勝手に付いてきやがった。
部室にしている体育館脇の倉庫の扉を開けると、こいつはスルリと入って行く。
ふん、馬鹿め。
僕はそのまま倉庫には入らず、脇に停めてある愛車のベスパGTS300ie Superに跨ると、バックミラーに掛けてあった半キャップ型のヘルメットを素早く被り、エンジンを掛けて軽やかに発進させた。
アニメ観賞の予定に変更はない。
部室にあるコレクションは、当然自宅の部屋にも同じものが揃っているのだ。
今日は自室でゆっくりと過ごす事にしよう。
家に居るとたまにメイドや執事たちが世話を焼きに来るのでうるさいのだが、仕方がない。
僕はバックミラーで倉庫の扉から顔を出した馬鹿を確認すると、アクセルをさらにふかして加速した。
部屋に籠り、二時間程アニメを観賞していると、ある事に気が付いた。
このアニメ『とってもプリンセス♡ズッキュンかおたん』の挿入歌は実に三十曲を越え、先日第一弾CDの『赤盤』が発売されたのだが、今日は第二弾の『青盤』の発売日だったのだ。
「これはいかん、すぐに買いに行かなければ」
もちろん予約済みである。
普通のCDであれば本来はネット通販のAMEZUNで購入する所だが、今回のこれは店舗予約特典が付くので店に直接行かなければならない。
すぐに部屋を飛び出した。
バイクで隣町のアニメショップ、『アニマニア本店』に着くと、すぐにレジカウンターに向かう。
やはり本日発売という事で、カウンターの上に目立つように山積みにされていた。
『青盤』というだけあって、その青が鮮烈に目に映る。
部室に置く分と自宅で使用する分、加えて保存用と三枚を無事にゲットした僕は、店の外に出てバイクに跨った所で、ふとあいつの事を思い出した。
「そういえばお題はもうクリアしたのだろうか」
いつもはなんだかんだと最後まで付き合っていたりしたものだが、今日みたいに完全に振り切って逃げたのは初めてだ。
「まさか僕が居ないだけで、クリア出来ないって事もないよな」
そうは思うのだが、明日部室に行ったらあいつが変死体で転がっているなんて事は御免被りたい。
「ちょっと様子を見に行くか」
一抹の不安を感じてしまった僕は、ふたたび学校へと走り出した。
「おーい雌豚。今日の分はクリア出来たのか?」
部室である体育館脇の倉庫の扉を開け中に入ると、首を振っている扇風機が視界に入ってきた。
エアコンはつけていないようだ。
蒸し暑い室内で、棚に向かってやつは何かを物色していた。
「おかえりなさい、阿仁鍬君。酷いですよ、逃げるだなんて」
そう言うやつの手には『赤盤』があった。
「これってシリーズですよね、もしかしてこの赤いやつの他に『なんとか盤』ってありませんか?」
ふん、なるほど。
こいつの求めるお題には、決してそれを口に出してはいけないというルールがある。
つまりそれを知りたければ、こいつが口に出さない単語を探ればいいだけなのだ。
――つまり。
「こいつが欲しいのか?」
僕はさっき買ったばかりの『青盤』を袋から取り出して見せた。
雌豚はそれを見て、ニヤリと笑うと気持ちの悪い事を言ってくる。
「ああ、阿仁鍬君……ナイスタイミングです。さすが私の相棒、大好きです」
いつから相棒になったというのだ。
僕は一言でそれを退けた。
「ふざけるな」
だがこいつはさらに笑顔になってやがる。
どうやら僕が戻った事で、今日のノルマはクリア出来たらしい。
結局僕は、なんだかんだと薄井幸子の思惑通りに利用されてしまう。
どうせ利用されるのなら、僕は僕で楽しめなければ割に合わない。
そして今日の僕の行動は、少しも楽しめないものだったのだと気づいた時――
楽しむ為には僕はこいつと長い時間を一緒に過ごさなければならないのか、という理不尽な妄想にとらわれ頭が痛くなった。




