第1話『かばん』『わたあめ』『王女』
【三題噺】(さんだいばなし)とは、落語の形態の一つで、寄席で演じる際に観客に適当な言葉・題目を出させ、そうして出された題目3つを折り込んで即興で演じる落語である。三題話、三題咄とも呼ぶ。 ――ウィキペディアより。
「あ、穴があいちゃいました」
薄井幸子は左足に履いた靴下の親指部分を見て、溜息をついた。
「はあ……、今日はもう素足でいいですね。替えももうないですし」
替えになるものはすべて洗濯してしまった後なので、今すぐに履けるものはない。
使用している二層式洗濯機には乾燥機などというものは付いていないし、元々幸子の所有する靴下は全部で七足しかなかった。
素足にローファーを履き、玄関を出る。
春の風が心地よく吹き抜け、幸子の長い黒髪をなびかせた。
出てきた場所は築四十年のボロアパートで、階段の脇に小さく『一流荘』と書かれた板が掛かっている。
「あっ」
二階に住む幸子がアパートの外階段を降り切った所で、通りがかったバイクが電柱に激突した。
「激しくぶつかりましたね……。ちょっと痛そうです……」
事故の原因はよそ見だ。バイクの運転者はたまたま、アパートから出てきた幸子を見てしまったのだ。
視界に入った幸子に釘付けになり、そのまま電柱に激突したのだった。
いったい幸子の何に気を取られたのか。――高校の制服であるブレザーは一度もクリーニングに出した事もなく、チェック柄のプリーツスカートも同様だ。足元はソックスを履かない素足にローファー。だがそれらは走行中のバイクの操縦者の視界に入ったからといって、特に目立つ要素でも気を逸らすようなものでもないはずだ。
「大丈夫ですか?」
幸子はバイクの男に向かって尋ねると、転倒したバイクから放り出されて転がっていた男は元気に飛び起き、――開口一番。
「ぼ、僕と結婚してください!」
――求婚していた。
着ているシャツやジーンズのパンツは地面に擦られたせいでボロボロだが、とくに怪我らしい怪我はしていないようだ。
「気を付けてくださいね」
突然求婚されても動じなかった幸子は、男の無事を確認すると踵を返して歩きだす。
「待って! せめてお名前を!」
幸子はその美貌を振り向かせ、笑顔で答えた。
「ただの通りすがりの者です。名乗る程の者ではありません」
幸子の天使のような笑顔に打たれ、感動のあまり泣き出した男は呟く。
「ああ……女神だ。僕は今、女神様に会ったんだ」
幸子は類いまれなる美貌の持ち主だった。神の手による造形とも言えるその容姿は、誰もが振り返る美しさだ。
十六歳の女子高生だが、制服を着ていなければ百七十センチの身長とモデル顔負けの容姿は、とても少女には見えない。
そして彼女はとてつもない美貌を持ちながら、とてつもなく貧乏で――
「あ、お題が降りてきました……今日のお題は……」
――とてつもない呪いを、その細身に受けていた。
幸子は一日に一度、天からの啓示を受ける。
相手が神とは限らないので、啓示と呼ぶのは適切ではないのかもしれないと幸子は考えたが、他に適当な言葉が思い浮かばなかっただけだ。
幸子の頭に直接降りてくるそれは三つのキーワードで、その日のうちにそのキーワードを絡めた行いをしなければならない。
それにはしっかりとルールが定められていた。
①一日三つのお題を受け取り、それをその日の行動に絡める事で合格とする。
②期限はお題を受け取った日の深夜零時までとする。
③お題を一つでもこなせなかった場合は死をもって終了とする。
④お題を口に出してはならない。言葉として発した場合、死をもって終了とする。
口に出すのも厳禁という事で、他人に助けを求め辛くなっている。
行動に絡めるというのもクセモノで、触っただけでクリア出来るものや、それを使用しないと駄目なものまで、お題によって変わってしまう。
もしそれが達成出来なかった時には、容赦なく死が訪れる。
幸子にはそのルールが嘘でない事は、身に染みてよくわかっていた。
それによって既に家族を亡くしているからだ。
「今日のお題……キツイですね」
タイムリミットは深夜零時だ。それまでにお題を達成しないと幸子の命はない。
幸子はまず、手に持っている学生かばんに力をこめた。
(ピンポン!)
お題達成を告げる音が頭に響く。
クリアすれば正解音が鳴り、それを教えてくれるのだ。
「あとひとつは商店街に行けばなんとかなるでしょうか……今日も学校へ行く暇はないですね」
幸子はそのまま通っている学校とは違う方向へ足を向ける。
目指すは商店街にある駄菓子屋だった。
「これをクリアしたとしても、最後のお題がやっかいです」
商店街は幸子の住むアパートから十五分も歩けば着いた。
その駄菓子屋は早起きの老婆が営んでいて、朝の通勤、通学前の早い時間からお店を開けていた。
幸子はそこで袋入りのそれを買い求めたが、クリア音が鳴らない。
店の外に出て袋を開け、小さくつまんで口に含んだ。
(ピンポン!)
どうやら『わたあめ』は手にしただけでは駄目で、食べる事がクリアの条件だったようだ。
幸子はかばんからスマートフォンを取り出し、次のお題を検索した。
「現代日本でこれはちょっと……無理じゃないでしょうか」
納得のいく検索結果ではなかったらしい。
だが諦めるわけにはいかない。それすなわち死なのだから。
幸子は一つ思いついた事があったが、それをするには自宅アパートでは必要な機材がないので無理だと思った。
「学校にはありましたね」
答えがまだどこにあるのかも分からない状況の中、焦る様子も見せずに、幸子は学校へと歩を進めた。
幸子の通う高校はこの商店街と同じ町にあって、歩いても行ける。
だが幸子が町を歩けばどうなるのか。――学校に着くまでの短い時間で五人のストーカーを生み、幸子の後方に従える事になった。
たまたま通りがかって幸子の美貌に惹かれた者や、既に虜になって毎日幸子の顔を拝もうと通っている者たちだ。
さすがに校内へはストーカーも追っては来ないようで、校門の外で未練がましく幸子の後ろ姿を見つめていた。
幸子は校庭を突っ切ると、そのまま体育館の脇にある倉庫へと向かった。
扉の前に立ち右手でコンコンと二回叩くと、中から男の声が響く。
「マジカル☆ひかりんは!?」
それを聞いた幸子は一瞬の間を置き――
「俺の嫁」
――そう答えた瞬間、ガララと横開きの倉庫の扉が開いて、肥満体で小柄な男が飛び出してきた。
「貴様! 何故僕が今考えた合言葉の答えを知っているのだ!?」
眼鏡を指でクイクイさせながら、額に脂汗をかく肥満生徒は唾を飛ばして叫ぶが、幸子はさも当然といった顔で答えた。
「あなたが考えそうな事だから……」
「なんだと!? それは僕に対して――」
「おじゃましますね」
幸子は肥満生徒をそれ以上相手にせず、倉庫の中に入った。
本来使用されていないはずのこの倉庫は、『漫画・アニメ研究会』の部室という事になっている。会員はこの肥満生徒ひとりしか居ない。
「阿仁鍬君、授業は?」
「ふん、僕は忙しいんだ。授業なんか受けている暇はない。貴様こそあいかわらずサボりか?」
肥満生徒、阿仁鍬は幸子の美貌を前にいささかも動じてはいない。彼はアニメや漫画のような二次元の女の子にしか興味が湧かない特殊な体質だった。
「こら! 勝手に僕のコレクションに触るな!」
アニメや映画のDVDが収められている棚を物色していた幸子は、いくつかの作品をピックアップしている。
「プレーヤー借りますね」
「こらこら! いつ僕が許可した!? 勝手に触るなと言ったろうがこの雌豚!」
現実世界の女子に耐性が無く、触る事の出来ない阿仁鍬は叫ぶ事しか出来なかった。
それを理解しているのか、幸子はやりたい放題だ。
DVDマルチプレーヤーにDVDをセットした幸子は、リモコンを手にモニターを睨んだ。
映し出されたアニメは早送りされて、あるシーンで止まった。絢爛豪華な王室のシーンで王族たちが何やら会話をしている。
その部分だけを再生して暫く観た後で、幸子は一言零した。
「駄目みたいですね」
次のDVDをセットする。今度は海外の実写映画だ。
古き良き時代の名作映画のそれは、往年の名女優が生き生きと演じていた。
お姫様が身分を隠し、知り合った新聞記者と街で楽しく過ごした後でお互いに恋に落ち、最後にはその彼の目の前で身分を明かして叶わぬ恋を終わらせる。
この映画は早送りせずに、二時間掛けて最後まで観た。
「困りました。これも駄目ですか……」
「やっと観終わったか。……貴様、今度はいったい何を探しているのだ?」
「それは……言えません」
阿仁鍬はこれまでにも、彼女とこういうやりとりをしてきたのだろうか。
幸子の突然の意味不明な行動に迷惑そうではあっても驚く事はなく、『またか』といった顔をしている。
阿仁鍬はたった今幸子が観ていたDVDのジャケットケースを見ながら、幸子に問いかけた。
「これは貴様がなる事では解決しないのか?」
薄いDVDケースを右手の親指と人差し指でつまんで、ヒラヒラと振って見せる阿仁鍬。
「私が……ですか?」
「そうだ、ちょっと待っていろ雌豚」
阿仁鍬は部屋の奥に積み重なっていたダンボール箱の一つを漁りだした。
やがてそこから取り出した二つのアイテムを幸子に見せた。
「どうだ? これは『とってもプリンセス♡ズッキュンかおたん!』のコスプレ衣装だ」
「それは……阿仁鍬君が着たものですか?」
「ば、ば、ば、バカ言うな! ぼ、ぼ、ぼ、僕が着るわけないだろう!? 僕は自分で着るよりも観賞する方が趣味なのだ!」
顔を真っ赤にしながら言い訳をする阿仁鍬。
幸子は受け取ったローブを羽織り、そして頭に王冠を乗せた。
「……コスプレじゃ駄目みたいです」
お題クリアの音が鳴らない。
失敗だと思った幸子は既に諦め、次に何をすればいいのか思考を始める。
幸子のその様子を見た阿仁鍬は、眉をひそめた。
「諦めるのは早いんじゃないのか雌豚。……現存在分析って分かるか? 貴様という存在は他人が認めて初めて存在出来るのだ。つまり貴様がたった一人でここに居ると主張しても、それを見て認識する者が居なければ、存在を証明する事にはならないのだ。……ならば僕が認めてやろう。貴様はその衣装を身に着けた時点で、とってもプリンセス♡ズッキュンかおたんだ。王女様だよ」
(ピンポン!)
その音は幸子の頭の中でこだました。
三度目のそれは、今日を生き残ったという証だ。
『王女』というお題は彼女が衣装を身に付けただけでは意味はなかったが、他人がそれを見て『王女』だと認めた瞬間、その条件をクリアさせたのだ。
少し驚いた表情をしていた幸子だったが、やがて瞳は優しげなものに変わり――
その美貌で作られる天使の微笑みを、小柄で肥満な生徒――この部室の頼もしい主に向けていた。