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異なる世界で  作者: OMF
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生に飢えた吸血鬼

吸血鬼に人生を狂わされた少女の物語

主要人物

ソフィア

吸血鬼に血を吸われた、眷属の吸血鬼

元々はとある商家のちょっとしたお嬢様

エミレーツ

異世界側の住人

軟弱者に厳しいが、評価できる人は評価する

 吸血鬼。全く知らない人はまずいないであろう怪物の代名詞。

 この世界には人ならざる存在は『異端』と呼ばれて迫害される。

 当然吸血鬼もそれに分類されるが、ある意味では一線を画す存在だ。

 迫害はされない。だって迫害するほど人前に出てこないのだから。

 出てくるときは人を襲うとき、そして殺されてる時ぐらいである。

 だから私にも縁遠い…そんな存在だと思って気にも留めなかった。

 …あの日までは。


 私の名前はソフィア・G・クリス。

 これでもイギリスで少しは名の知れた商家のお嬢様『だった』わ。

 …そう、過去形。誰かがこの物語を聞くことがある時、

 私の過去をなくしては少々語りにくい部分があるの。

 少し長くなることを先にお詫びするわ。


 物凄く端的に言えば、私は吸血鬼に襲われた。

 …いきなり端折るな? それ以前の情報を語ろうとも、

 この物語に何ら影響がないのだから別にいいじゃない。

 血を吸われたら、眷属…基吸血鬼にされるって言う話は有名ね。

 ええ、なりましたとも。元々人だったのに背中から翼は生えて、

 鋭利な牙に、日光は…当たれないわけではなかった。気分は悪いけども。

 眷属だとそういうものなのか、太陽に当たると灰になるのが嘘なのか。

 何にしても私は吸血鬼に…即ち異端になってしまったと言うこと。

 今まで愛してくれた家族もこれは庇えるものではなく、私は勘当された。

 目撃者もいた以上、私が異端になってると言うことは時期に暴露される。

 異端なら何をされても文句は言えない。まるで魔女狩りみたいな時代錯誤。

 身内に異端がいたのでは世間の風当たりは強く、私が迫害を恐れて逃げ出す。

 そんなシナリオの形で出ることになったが、それを受け入れたの。

 居座っても一家揃って道連れにするだけだし、私は家族が大好きだから。

 大好きだからこそ共に不幸にしたくない…それだけの理由よ。

 それに、父は一方的に追い出したりはせず逃亡先や手段を、

 ばれれば大変なことなのに娘だからと提供してくれたのだ。

 もう化け物の領域なのに、それでも私を娘と言ってくれた。

 辛くとも、これで家族を恨むなんて…できるわけないじゃない。


 吸血鬼として生きることを余儀なくされたけど、

 思いのほかなんとかなったのは、少し意外だった。

 牙は目立ちにくいし、羽は意識すれば簡単にしまえるから、

 身体的特徴にょって異端だと気付かれにくいからね。

 でも、元は名家の人間。庶民的生活の差は中々に堪えたわ。

 慣れるまでは時間を要したし、独り身で弱音を吐きたくもあった。

 でも、本来ならこうして生きること自体できなかったのかもしれない。

 『クリスタルのような輝きを』クリス家の家訓にして、私を支える誇り。

 家は離れても、私はあの家の人のように輝きを曇らせないように生きた。

 元居た場所から遠く離れたロンドンで、大成こそないが静かに生きる。

 異端となった私には、余りある幸せで充実した人生だと。


 静かに暮らしてから暫くして、

 ある人のバースデーパーティに私は誘われた。

 相手はお嬢様で、豪勢な催しを盛大にやるのだとか。

 ロンドンではただの一庶民でしかない私が行っても、

 場違いだと断ろうと思っていたことなんだけど、

 知人によって強引ながら、連れていかれることに。

 素材はいいんだからと言われたけど…元々貴族だからね、そこは。

 亡き母の形見である、黒いドレスに身を包んで出席した。

 ちょっと背中が出ててるから私が着ると背伸びに感じるけど、

 皆は評価してくれたから嬉しかったのは記憶してる。


 でもそう上手くはいかない。

 パーティへ出席した時に、ちょっとしたことで怪我をしたの。

 それ自体は大したことではないし、怪我も指から血が出た程度。

 問題はそこから。背中に強い痛みに何かいやな予感がして、

 適当に誤魔化しつつ人のいない庭へと逃げるように皆から距離を取った、

 ほぼ同時に、背中から翼が勝手に飛び出してきたの。私の意思とは無関係に、

 しかも肩幅を出てなかった翼は、両肩以上に広がってしまっている。

 眷属にされた人は慎ましく人として生きられるのではないかと思っていた。

 それは違った、生きられないんだ。これは後に分かったことだけど、

 怪我をしたり血を見る…それだけで吸血鬼の部分が露出してしまう。

 普段は器に収まってても、外的要因で器が揺れてそれが零れる。

 零れた部分が、今の私でいう翼の部分と言うべきだろう。

 もっとコントロールできるようになれば話は別なのかもしれない。

 でも、皆それができる頃には───


「な、吸血鬼か!?」


 バレて大事を起こすのだと。

 近くを通りがかった修道服の青年に背中を見られた。

 咄嗟の反応で振り向いてしまい、顔もしっかりと見られる。

 思考が混濁して、私はその場から逃げるように走りだす。

 只管に走った。とにかく追われないように、段々と高い場所を使って。

 翼のおかげで飛行はできないけれど、滑空に近いことはなんとかできた。

 ぶっつけ本番なのにできたのは…何故かしら? 勘なのか本能なのか。

 これのせいでこうなってるのに、これに助けられる…皮肉なものよ。


「逃がさないからなぁ!」


 でも相手は逃がしてくれない。

 翼はない…恐らく人間なのだろう。

 なのに、隣のビルへと躊躇わずに飛ぶ。

 落ちれば間違いなく死ぬ高さでその行動。

 別の意味で恐怖してしまったわ。命知らずなのかと。

 何度やっても振り切れず、羽も体力的にも限界で、


「貴方、本当に人間? 普通躊躇うでしょ、こんな場所で!」


 少し諦念気味に歩みを止めて、振り返った。

 修道服で大人びて見えたが、顔は思ったよりも子供っぽい。

 緋色の髪は実に鮮やかで、紅茶好きとしてはこの色は好きだ。

 そんなことはどうでもいいとして、彼に対しては私は引いている。

 命知らずな神父だか牧師に追われるなんて現実を認めたくないだけ。

 そう言われると否定はできない。


「少しはパルクールやってたから、

 いけると思ったら行けちまうんだよ。」


「パ、パル…?」


 ゆっくりと迫りながら、息を整えている。

 私よりも年下と思しき姿だけど、全身を駆け抜ける悪寒。

 普段は感じないけどこれが何かは察した…これは殺意だと。

 吸血鬼専門で退治をする存在がある…そんな噂は聞いたことがある。

 噂だけだ。そんな殺し屋みたいな仕事、表立ってあるわけがない。

 いくら異端、それも吸血鬼専門だとしてもだ。


「パルクールだよ! 道具も使わず勢いで街走る動画とかあるだろ!」


「ああ、あれね。命知らずの不法侵入動画。」


 知り合いから何度か動画を見せて貰ったことがある。

 軽快な動きで街や森と言った場所を走り回る、スピーディな動画を。

 でも、どう見ても私有地に入ってる場面も多くてあまり好きじゃない。


「風評被害って否定したいのにあんまりできねえ!

 って、なんで吸血鬼に教えなくちゃならないんだよ…」


 まるで日常会話のようなやりとり。

 向こうは殺気を放ってるのに、なにやってるんだろう。

 私は吸血鬼の自覚がまだ薄くて人間らしく振る舞うから、

 相手はそれに乗ってしまっただけなのかもしれないけど。

 でも、もうこれは今後経験することはないのよね。

 あるとするなら、此処から遠く離れた何処かの地で。


「大人しくするならなるべく苦しませないように殺す。どっちだ?」


 噂は本当だったらしい。吸血鬼専門の暗殺者。

 選択肢から殺すと言うことだけは確定事項。

 当然よね。吸血鬼は世間では人を襲って事件を起こす。

 人を脅かし異端を増やす。最早ウイルスのようなもの。

 言ってしまえば、生まれたこと自体が罪に等しい。


「…このまま私が飛び降りればそれで逃げきれるのに、

 生殺与奪の権利を主張するなんて、随分と下に見てくれるわね。」


「だったら初めからそうしてるだろ?

 その様子から、結構疲れてるようだしな。

 飛び降りてもいいぞ? もっとも、その時点でこっちが勝つけどな。」


 ブラフを仕掛けてもすぐに見抜かれた。

 ええ、今日がまともに飛行したばかりなのよ。

 しかも、別段運動神経がいいわけでもないし。

 飛び降りれば滞空もできず、下で潰れるでしょう。

 元々ビルを飛び越えたのも振り切りたいからしたのに。

 文字通りに飛び越えてやってくるなんて思いもしなかった。


「名前、聞いても良いかしら。

 私はソフィア…ソフィア・G・クリス。」


 覚悟を決めて死ぬ? できるわけがなかった。

 吸血鬼に身を穢されて、眷属になったことで家を出て、

 遠い地で漸く手にできた慎ましい生活すら終わったのに。

 満足した人生…もう死んでもいいなんて誰が思えるの。

 まだ生きたい。生きて、もう一度穏やかな生活を手にしたい。

 どこでもいい。私が穏やかに生きられる場所なら、どこへでも。

 だから死ぬつもりはない。此処で彼を殺すかどうかは別として。

 今から行うのは騎士道精神と言った礼儀や作法なんてものはない。

 殺すか殺されるか…できれば殺さないで逃げるのがベストだけど。

 最低限の礼儀ぐらいは、戦う前にしても罰は当たらないはず。

 名前だってそのうちばれてしまうだろうし、本名を名乗った。

 もし死ぬとしても、偽名ではなくソフィア・G・クリスとして死ねる、

 なんて後ろ向きなのか前向きなのか分からない理由もあるのだけど。

 逆に殺した相手の名前を絶対に忘れないようにする意味合いもある。


「…クルス・C・インリット。」


 吸血鬼に教える名前などない。

 なんて返しもされそうだったけど、礼儀には礼儀で返してくれた。

 紳士的な相手なだけに、こんな形で出会うことになるなんて。


「名乗ってくれたこと、感謝するわ…でも、

 貴方の要求は受け入れられない。貴方が殺す気なら、

 逆の…殺される覚悟もしてきてるなら、かかってきなさい!」


 啖呵を切るような発言と共に、何処かで見た構えをする。

 どこのマーシャルアーツだったかは知らない。対して興味もなかったし。

 ドレス姿の吸血鬼で恰好はつかないだろうけども。それで立ち向かう。

 一応護身術は多少程度には覚えてるけど、相手は多分場数は踏んでるはず。

 元一般人の付け焼刃と殺す相手の技術、優劣なんて決まってるようなもの。

 一歩踏み出すと一気に間合いを詰めてきて、既に互いの手が届く距離になる。

 目には見えてた。多分吸血鬼になったせいで夜目に限らず向上したのかも。

 でも見えるだけ。すぐに反応できる程思考が追いつけたわけではない。

 低い姿勢からの拳だから、アッパーを狙ったものだと分かっただけで、

 故にそこからできたのは来ると気付いて両腕をクロスさせて顎をガードするだけ。

 間に合わないとは思ってたけど、反応が遅れるとその前の行動を取るってものよ。


「!」


 でもそこから先は何もされなかった。

 攻撃できるチャンスを掴んだはずの彼…クルスは、

 何をするでもなく急にバックステップで戻ってしまった。

 確実に一撃は受けると覚悟していたから、困惑したわあの時。

 殺す相手である以上、自分が秘策を隠し持っていたと思ったのか。

 勿論そんなものはないわ。あればそれに頼ってるぐらい速かったし。

 では一体何が彼をそうさせたのかは、視線を見てようやく気付いた。

 彼の視線は私には向いていない。私の顔よりも高い方角だと。


「おい、なんだよそれ…そういう『力』なのか?」


「…え?」


 その言葉と共に振り向けば『それ』は確かに存在していた。

 空中に周囲の風景が捻じるように浮かぶ、黒い渦のようなもの。

 無音で蠢きながら宙に漂うそれを見て、私も同じ表情に変わっていく。

 異端は種族的な意味以外にも、何かしら力を持つことは少なくない。

 私はその意味の異端ではないわ…今のところ、とはつきそうだけども。

 当然だけどこれは私のものじゃあない。無意識に使った可能性もあるが。

 何か分からないけど、直感で離れないとと思った、でも既に遅かった。

 だって羽を使ってないのに体が浮いて、既に身動きが取れなかったんだから。


「え、え!? ちょ、ちょっと待って!?」


 渦へ吸い込まれることに恐怖がないはずがない。

 渦の先に何があるのかわからず、ブラックホールとさえ思ってしまう。

 そう思えば、入ったらまず生きて帰ってこれないって思うのは当然だ。

 だから何かに掴まろうとしたけど、開けた場所だから掴めるものはなく。

 大した抵抗もできないまま、ただ悲鳴を上げることしかできなかった。


 自分の身体さえ見えない暗闇の中でも私は悲鳴を上げ続ける。

 あの時の夜に負けない程の、絶望の悲鳴だ。あの時もどれだけ叫んだか。

 襲われたことの悲鳴じゃあない。確かにあれも怖かったし痛みはあったわ。

 でも、それ以上に吸血鬼に…異端になった事実の方が叫ぶような声が出たの。

 私は異端を好意的には見れなかった。別に私に限った話ではないことだ。

 大抵の人は多かれ少なかれ、異端に何かしらの被害を受けているのだから。

 悪戯に力を振るう…言い方は悪いけど、社会で爪弾きされて当然の立場。

 私も母の死因が異端による事故だと言われてて、私は他の人以上に強い。

 分かってはいた。異端と一緒くたにされたいい異端もいただろうことは。

 理解はできてても、納得は出来なかった…でも今度の私はその厄介者。

 逃亡中にSNSを見ていたら、皆から揃って関係が絶たれていた。

 少し前まで話し合ってた友達は、今や私を化け物としか見ないらしい。

 これが、私が一緒くたにしてきた人達の視点と言うわけだ。

 そんなことを思い出しながら、私は何かに引っ張られるような感覚がした。

 誰かいるのかと思ったけど、さっきの吸い込まれるときと同じ。

 何処かへ飛び出すと同時に、頭を強く打つ。


「イッツ!!」


 食卓のテーブルの裏に頭をぶつけたように、

 雑多な音が頭上で奏でられているが今はそれどころではない。

 意識が文字通り何処かへ行きそうな衝撃の痛みに頭を押さえる。

 声にならないような悲鳴と共に、私は悶えるしかなかった。

 とはいえ、これはあくまで私だけの場合だ。


「な、なんだ!?」


「頭ぁ! 机の下に女がいるんですけど!」


「まさか奴ら来やがったのか!?」


 上、と言うより周囲もまた騒ぎになりだす。

 視界には悪そうな、強面の男達は今の状況に慌てふためく。

 後に分かったことだけど、此処は所謂盗賊の根城だったみたい。

 盗賊だけど人身売買も兼任…まあ、ありていに言えば奴隷商人。

 ある意味、最悪な場所に来てしまったことは意識が向けば、

 なんとなく肌で感じ取れたけど、此処に来た時点でもう手遅れ。

 簡単に石畳の地面に組み伏せられた状態にされてしまい、

 そこへ、更に人が姿を見せる。


「騒がしいな、一体なんなんだ?」


 ガラの悪そうな中だと、意外と端正で若い顔をした男性だと感じた。

 金髪の碧眼にがっしりとした銀の鎧。さながら物語の騎士そのもの。

 寧ろ、彼らを成敗するのが正統派な物語だと普通は思う。

 言い忘れてたけど、この頃の私は彼らの言葉を理解してない。

 私の知らない言語で喋り合う人達は何を話してるのか。


「あの、助けてもらえませんか!?」


 内容を理解してないが故に。

 物語のように、颯爽と駆け付けた人とばかりに願った。

 英語なら、ある程度話せる人も多いだろうから、

 てっきり大丈夫なのかと思っていたのだけれど。


「…ってわけでして。」


「お前、そんな間抜けな奴が連中だと思うのか?

 こいつの言葉も、フィン語やエド語でもないし、

 話から考えるにディレント(異世界)人じゃあねえのか?

 最近ディレント人が増加傾向があるって街でも言ってたぜ。」


 でもまるで意に介さない。

 寧ろガラの悪い連中と親しげな間柄だ。

 だからなんとなくだけどこの時点で感じる。

 この人はグルどころか、この中でも立場が上だと。

 言葉は分からないから確信を持てない。

 でも分からないからこその恐怖がある。


「見たところ素材は結構よさそうだな。

 どこかの令嬢か? 衣装も上品だし…」


 値踏みをするかのように、

 組み伏せられた私を見る甲冑の男性。

 凡そ騎士らしからぬ、野卑に満ちた目つき。

 以前、学校でもそういう目で見られた記憶がある。

 だから何となくこれから先の展開を察して暴れだした。

 でも多勢に無勢。押さえつけられてはどうしようもなく、

 できたのはせいぜい相手を睨むだけが許されている。

 反抗的と受け取れるような、単純な眼差しで。


「いい瞳だ。これは高くつくだろうな。」


 その視線を受けた相手は頭に手を置く。

 一体何の意味があってそんなことをしてるのか

 理解できずに困惑していると、そのまま頭を地面に叩きつけられる。

 床は石畳、痛いだけですまない。しかも加減をしてる様子はなく、

 意識が身体から飛び出したかのような衝撃と痛みを味わう。


「ちょ、顔面まずいですって!」


「悪い。昔ホロックで靡かなかった女を思い出して腹が立った。

 といっても、さすがに意味は分かってくれたんじゃあないのか?」


 何の話をしてるのかはやはり分からない。

 分かったところで、理解したくない内容だろうけど。


 吸血鬼によって平穏を奪われた。

 でも諦めなかった。クリス家の家訓を胸に秘めて、

 死に物狂いで新しい生活に適応したんだから。


 異端の力によって安寧は潰えた。

 これでも諦めない。私のほうに非があるとしても、

 それでも私は生きたい。あんな場所で終わりたくなかった。


「クリ…スタルの、ような…」


 家訓を忘れないように生き続けた。

 でも理不尽が過ぎる。底がないのか? 私の転落人生は。

 人が羨むような人生から、小さな安寧すら許されないなんて。

 あまつさえ慰み者としての末路。下へ落とすのがどれだけ得意なのよ。

 何も悪いことなんかしてないのに…とかそんなことは言わない。

 問題を起こしたこともあったし、知らないとこで誰かを傷つけたかも。

 クルスと言う、明らかに私よりまっとうな少年を殺してでも生きようとした。

 その時点で私は何も悪いことをしてないなんて、言えたものではないのだ。


 それでもだ。

 此処までの理不尽を、なぜ私が受けないといけないのか。

 前世でどんな大罪を犯せば今に至れるような運命を辿るのだろう。

 全てを呪いたくなる。運がないとかの次元で済まされない。

 涙を流しながら、抑えられた腕で地面を叩くことしかできなかった。






「まず聞くけど。何故新人が三人も逃げだしてるの? アレン。」


 朝日が近づきつつある、薄暗い鬱蒼とした森の中。

 青藤色のショートヘアーの女性が一人の男性を睨む。

 黒紫と白を基調としたコルセットスカートを中心に、

 服装よりも明るめのケープを羽織った妙齢の女性だ。

 マントと帽子があれば、さぞ魔法使いらしい姿をしている。

 白のコルセットが身体のラインを明るめに強調するも、

 御世辞にも彼女の体型は恵まれてるとは言えなかった。

 決して貧相と言う程致命的でもないし、

 幼さ残す年頃の顔つきに惹かれる人も多いだろう。


「三人ともディレント人なもので、死体を見慣れてなかったようですね。」


 視線に委縮している男…アレンは、

 軽装と言うより凡そ森へ来る恰好ではない。

 襟の大きな、紅茶色のコートは町中での恰好になる。

 コートの下もフィールドワークをするには向いていない。

 喫茶店の店員と言えば信じられるほどに軽装だ。


 アレンの表情は苦笑気味だが、それもそのはず。

 目の前の女性…エミレーツと呼ばれる女性は、

 彼の仕事場の上司であり、彼女に仕える一人である。

 加えて今、彼が指導に当たっていた人が現場を放棄してしまったのだ。

 しかもこの現場は悪人を捕まえるための場なのだから余計に重圧があった。

 当然監督不行き届きであるためこの状況の責任は勿論彼にあり、

 同時に本来なら彼女が出張る程のない些事に駆り出されている。

 これらによって、エミレーツの機嫌はかなり悪い状態だ。


「ホロックの仕事が何かは分かってる?」


「ディレント人の保護、指導や職の斡旋等と共に、

 魔物討伐等を筆頭とした、治安維持が役目ですッ!」


 背筋を伸ばしてはきはきと答える。

 腑抜けた態度でいた先程までとは別人のようだ。


「よろしい。では私の仕事を増やさないようにちゃんと教育しなさい。

 どうせ逃げた三人も、剣だ魔法だと浮かれて志願した軟弱者だろうけど。」


 別段、この世界では異なる世界から来る人間はおかしくない。

 エミレーツも結構な人数のディレント人と関わったことがあり、

 そんな彼らに仕事を斡旋する『ホロック』と言う組織が存在する。

 とは言え此方へ招かれる人数に対してホロックの対応は追いついてない。

 改善の為の準備をしていたと言うのに仕事を増やされたのでは、

 その心情は推して知るべきことだ。


「やっぱ分かりますか。」


「何度目かわかったもんじゃあないわ。

 しかし…空想と現実を理解できない人が多すぎる。

 まったく、向こうの教育者ときたら…とりあえず、

 全員見つけ次第『捕縛』して、イズのところへ送るように。」


「え、レオ様のところではなく?」


 ホロックは合計で十二店舗存在しており、

 地域によって環境が大きく異なってるのも特徴だ。

 なので彼らは心身鍛え直すことは適任の人がいると思ったのだが、

 ではイズと呼ばれた人の場所はと言うと…最悪の一言に尽きた。

 労働環境が酷いの一言に尽きる、余り好ましくない場所になる。

 一番酷い場所へ送り込むのは、容赦がない。


「私は見込みのない人間の先なんて興味もないの。

 遊び半分で人の命に関わる仕事をしないで欲しいわ。」


 彼女とて、この仕事が単純なものでないのは分かってる。

 人の命を預かる仕事と言っても差し支えがないのだから、

 そんな仕事を軽々しくやろうとする人に憤慨するのも、

 アレンは理解していた。


(旦那のジーニアス様が努力家だからなんだろなぁ。)


 もっとも、そこに私情に惚気が混ざっているので、

 全肯定するには流石に無理があると言うものだが。

 彼女自身そんな伴侶に自分の武勇伝を聞かせている。

 十分人のことを言える立場ではないものの、

 これを言えば首を切られそうなので黙っておく。


「第一、彼らより年下の…ええっと、誰だったかしら?

 ジーニが預かっている、少年がいたような気がするけど…」


「ユウキのことですか。」


「そう。彼は逃げてないの?」


「あそこでまだ吐き気と戦ってます。」


 アレンの指す方向に、木の傍で蹲ってる少年がいる。

 銀色の髪を持った、黒を基調とした現代人らしい恰好をした少年だ

 二人よりも幼いであろう少年が(嘔吐はともかく)耐えてるのに、

 それ以上のいい年をした大人が逃げたのでは、格好がつかない。


「でも彼はそこそこ此方で活動してた経歴がありますからね。」


「いずれにせよ、三人はそう処分するわ。

 イズのところでなら、彼らでも十分やってけるでしょ。」


「…そーですなー。」


 あそこは仕事が楽なのではなく、

 彼女の生活の為に使い走りにされるだけである。

 なので『やっていける』の意味が全然違うだろ。

 とは言いたかったものの、言えば自分も同じ立場になる。

 そう思うと口にせず、これまた黙って話しを聞き流した。

 別に逃げた三人に大した愛着は持ち合わせてはいない。

 指導したと言えば指導したが、言ってしまえば事務的なもの。

 別段態度が良かったかと言われるとそんなでもなかったのだから。

 言ってしまえばよくある、有象無象。彼らのような現実に打ちのめされ、

 逃げたり死んだりしていった人間など、いくらだって存在している。

 その中で目に留まるような存在と言うのは、ほんの一握りだ。


「───で、事態の説明は?」


 アレンの仕事は昨晩に判明した盗賊の根城の制圧。

 確かその準備を終えて向かったはずだが数人は逃亡、

 ユウキと呼ばれた少年に至っては嘔吐するような状況。

 前者はまだわかる。想像以上の臆病者で片が付く。

 一方で、吐くような状況が起こりうるのか。

 誤って対象を殺めてしまったとかであるなら、

 それはアレンからの報告で済んでしまう。

 態々此処に自分を呼ぶ理由がない。


「俺も結構状況に困惑してまして、

 どこから説明したものか…とりあえず中を見てください。」


 にも関わらず、アレンの歯切れの悪い言葉。

 単純な話ではないのかと、首をかしげながら建物を見やる。

 彼女等の活動する街から離れた森に、静かに建っていた煉瓦の建造物。

 何の理由があってこんなところにあるのか。誰かの別荘か、隠れ蓑か。

 推測は多いが今となっては彼女にも分からなければ興味もない。

 事態の把握の方が優先なものの、


「…死人が出てるのはどういうこと?」


 錆びれた扉を開けると漂う悪臭は覚えがある。

 何度も経験した血の臭いと、死体の臭いだ。

 経過してないのか死臭はなく、扉を開けるまでは彼女も気付かなった。

 もっとも死臭がないだけで血や、露出した臓物等で悪臭は酷いが。

 しかもこの異臭の強さから、少なくとも一人や二人ではないだろう。

 ともなれば、子供なら先程の様子も十分に納得できるものの、

 あくまで彼らには捕縛するのが仕事であって殺害するものではない。

 尋ねた時点で答えは出ている。来る前に既に片が付いていたと言うこと。

 こう言った仕事もホロックが請け負ってるので、誰かが把握してるはず。

 報告を忘れるような人物に対して、その行為を認めた覚えもない。


「酷い有様ね。」


 内部を二人が歩くが、地獄絵図とはこのことか。

 千切れた腕、人だったと思しき血まみれの肉塊。

 エミレーツにとっては凄惨ながらも大したことはない。

 だがこれを見れば、逃げ出すなり嘔吐するのは無理からぬことだ。

 普段ですら、このような殺され方をした人は見たことがないのだから。

 吹き飛んだ、それとして例えるのが余りに正しいであろう死体の数々。


「当然だけど、貴方はやってないよね?」


「こんな台風をぶつけたような殺し方、俺に出来るわけないでしょう。」


 肩をすくめて自嘲気味のアレン。

 別段彼は弱い人物ではないし、彼女も重宝する。

 しかし優れてるのは主に人事に関することであり、

 戦闘方面においてそれほど期待をしているわけではない。

 このような所業も、当然できるはずがないのだ。

 特に一部はクレーターができる程の状態で、

 彼の筋力ではとてもできそうにない。


「あら。この男…」


 腕が千切れて、胴体に穴が開いた男がいる。

 他の男と違い、装備がどことなく豪勢だ。


「知り合いですか?」


「いつだったかリラのところの、

 アンスリアって子と揉めてた人ね。

 それが遠因で解雇されたけど、まさか賊に成り下がってるなんて。」


 賊に成り下がって死ぬとは

 随分と哀れな人生を送ったものだと彼を憐れむ。

 名前も覚えてない以上、大した腕ではなかったのだろう。


「誰がやったかの検討はついてるわけ?」


 彼の名前なんてどうでもいい。

 問題はこれを誰がやったのかだ。


「ディレント人です。」


「は?」


 アレンの一言に一瞬思考が止まった。

 保護の対象たるディレント人がこれをやったと言うのか。

 ありえない話ではない。彼女達も異端とは何人も出会っており、

 完璧とまではいかないにしてもそれらに対する相応の知識は有している。

 一方で、異端に限らないがディレント人と言うのは元の世界における、

 法や道徳を重んじる傾向がある為、殺人等の行為に忌避感を持つことが多い。

 持っている風習や価値観を変えられない、理解できない人と同じだ。

 勿論持たない存在も多い。犯罪に手を染めている人物は特にそうなる。

 今まで決して少なくない異端をみたが、これほどまでの力を持つのは珍しい。

 中には脊椎を引き抜いたかのようなのもあり、並の怪力でもないはず。

 これをディレント人がやるとはあまり思えなかったのだが、

 此処で出された情報の違和感に気付く。


「…ちょっと待ちなさい。

 なんでディレント人ってわかったの?」


 此処にあるのは死体だけ。

 犯人と思しき人物はいないだろうし、

 逃がしたなら何らかの手段で追うはず。

 そうなったらもう自分を呼ぶ理由もないし、

 当然相手がディレント人がどうかさえ分からないのだ。

 じゃあ、どうやってアレンは相手を把握したのか。


「───いるんですよ、まだ。」


 引きつった表情と共に、

 崩れた瓦礫で塞がった部屋を指す。

 何かを引きずったような血の跡が、この奥へと続いている。

 耳を澄ますと荒い息遣いが瓦礫の奥から微かにだが聞こえており、

 此処に引きこもっていることは間違いない様子だ。

 色々気になることは多いものの、


「ディレント人の理由は?」


 まだこれが解決していない。

 この中にいると分かっただけでは、

 ディレント人だからにはならないはずだ。


「英語を、喋ってたからです。」


 苦しそうな声色と共に、

 先程蹲っていた少年、ユウキが二人のところにやってくる。

 子供にしては少し大人びていて、整った顔立ち。

 年頃の少年の愛らしさの中に何処かクールな雰囲気を持ち、

 ある意味女性受けはいい顔つきではあったものの、


「ユウキ。俺が対応するから休んでろって言っただろ。」


 今の彼は顔色は優れてないし、少しふらついている状態だ。

 この地獄絵図と異臭の中に来て気分がいいと言える人は稀だし、

 ましてや彼は子供。こんな場所に居合わせていいものではない。


「こういうことが起こりうるって、

 言われて引き受けたのに、投げ出したくないので。」


 慣れない異臭に表情を歪ませながらも、気丈に振る舞おうとする気概。

 所謂老化が極めて遅い人種や異端なのかと思えるぐらいの心構えだが、

 彼自身の種族はともかく、本当に十二歳の子供でそういうわけではなかった。

 一応、幼いながらも優れた人物に心当たりはあるので分からなくはない。


「真面目ね…嫌いじゃあないけども。

 それで、英語なら何を言ってたかわかる?」


「自分は日本人なので、余り…ストップと言ってたので、

 入ってこられると困るような状況だったのかもしれません。」


「とまあ、こんな感じでちょっと取り扱い注意で呼んだわけです。」


 本来積極的に人を殺めないディレント人が事件を起こし、

 何処にも逃げないでこの場に引きこもっていると言う状態。

 しかも惨状からアレンや新米で太刀打ちできるかは怪しく、

 少なくともこれは自分が解決しなければならない案件だと。

 アレンの判断は正しいものだと改めて理解する。


「…貴方の判断は正しかった。先の言葉は訂正するわ。」


「それはどうも。」


「で、まずは───ぶっ壊す。」


 宣言と共に手に現れる、セプターのような短くて茶色い杖。

 薔薇と翼のような装飾が先端に小さくついているところ以外は、

 魔法使いが持つ短い杖と余り遜色はないであろうものだ。


「えっ。」


「え、ちょ、ま───」


 軽く振るうと、光の玉が前方へと飛ぶと同時に眩い光が三人を包む。

 轟音と光に今の状況をユウキは理解できなかったが、収束して目を開ければ、


「んー、スッキリ。」


 目の前には、向こうが見える程に薄く青い壁が三人の前にあり

 更に瓦礫があった場所は文字通り爆破して、半壊した扉と壁だけが残る。


「杖だけで精度の高い魔術を連打って、相変わらず無茶苦茶ですね。」


 この世界では『魔術』に必要なのは最低限魔力だけだ。

 それさえ満たせばとりあえずは使える一方で、威力は低い。

 杖や工程、或いは詠唱と言った労力等を用いることで効力が増す。

 それをエミレーツは杖一つで既に十分な威力を持つ。

 魔術師としては非常に優れている人物でもある。


「二人は外で待機。これは『私』の仕事よ。」


 そういうことであれば、アレンたちは出ていくほかない。

 ホロックで上の立場である彼女が武力に関する仕事なんて、

 並の実力では何一つ為せないことのほうがザラである。

 二人ともよくて烏合の衆や低級の魔物と言った所謂雑魚専。

 彼女の仕事となる土俵には、片足すら踏み入れられないのだから。


「中にいるのよね? 話を伺いたいのだけど。」


 あれだけでかい爆発をやったのだ。

 此方の存在にも気付いているだろうと、

 相手にもわかるよう英語で声をかける。

 中から返事はなく、警戒をしながら扉を開けた。

 外から薄々気付いていたが、部屋の中は牢屋。

 先ほどの異臭とはまた別の異臭が漂っている。

 此処にいた賊が人身売買もやってたのだから、

 つまりはそういうことであり、不快な気分になる。

 堅牢そうな鉄の棒が並ぶ奥に、女性が蹲っていた。

 紺色のセミロングや黒のドレスと言う美しさを持つはずの姿は、

 全身に浴びた返り血等で、とても見るに堪えない状態だ。


「私は貴方が攻撃しないなら敵対の意志はないわ。

 今の状況にきっと戸惑ってるんでしょうけど大丈夫よ。私は───」


「…いで。」


「え?」


「今、近づかれると…抑えが───」


「!」





 外で待機していた二人に、

 突如として起きる予期せぬ展開。

 怪物のような、耳をつんざく絶叫と共に轟音。

 建物の壁が吹き飛んでいき、その中にエミレーツも含まれる。


「エミレーツ様ッ!?」


 地面を二、三回バウンドしていくほどに派手に吹っ飛ぶ。

 いきなりの状況に二人はついていけず、身を案じて駆け寄る。

 どうあったって無傷で済むようなものではないのだが、


「いや驚いたわ。障壁ごと吹き飛ばすディレント人なんて初めてよ。」


 一割驚嘆、四割関心、五割歓喜か。

 今の状況を楽しんでいるかのような表情で起き上がる。

 衝撃的な状況の割に、想像よりもはるかに軽傷だ。

 頭から血を流しているが、それだけでしかない。


「後二人とも下がる…段階ではないわ。逃げなさい!

 彼女を保護するのに、手を抜いてる場合じゃあないかも。」


 杖の向く先には先程の少女が立つ。

 黒色の瞳は完全に自分を捉えており、

 ゆらりと迫る様は恐怖を煽ってくる。

 殺意がむき出しで、二人とも無意識に足が下がってしまう。


「え、保護? 保護ですって!? 冗談でしょう!?」


 どうあがいたってあれは会話が成立しない。

 それなら会話ができるだけ殺人鬼とかの方がまだ希望がある。

 悪質なディレント人は保護を諦めての処分もあるにはあるので、

 あれを保護か処分かで言えば、満場一致で処分する存在だろう。

 態々危険を冒す理由はない。


「彼女、泣きながら剣を突き刺していて、

 動けないように痛めつけてたのよ。」


 吹き飛ばされる寸前、

 障壁越しに彼女の姿は一瞬だが見えた。

 苦悶の表情であったのは、目に焼き付いている。

 痛がってる彼女が態々自傷行為をするのはなぜか。


「なんでそんなことを?」


「異端って確か暴走とかあるのよね?」


 すぐそこにいるユウキを見やりながら、異端について尋ねる。

 彼も異端のディレント人である為、少なくとも自分達よりは詳しく、

 この状況で一番頼れるのは、この場において彼のみだ。


「えっと、力とかを制御できず暴走とかならあるかと…」


「じゃあやっぱ今は保護対象ね。危ないからとっとと逃げなさい。」


 先ほども言われたが二人は戦力外。

 不意打ちとは言えエミレーツが傷を負った以上、

 自分達でどうこうできる相手ではないのを再度理解。

 二人は見張りで待機させてた人達と共にこの場から離れる。


(向こうも頑張ってるか。)


 ドレスの少女は自分の腕を抑えながら、

 声にもならぬ悲鳴と共に腕を地面へとたたきつける。

 叩きつける度に地面はクレーターを作っていき、

 どれだけ怪力なのかを思い知らされる。

 だがすぐに理性は限界を迎えたのか、

 腕抑えたまま彼女を無視して跳躍。

 撤退中の部下へと獣のような速度で襲い掛かる。


「少しぐらいは落ち着きなさい。」


 襲い掛かる寸前、

 後方にいたはずのエミレーツが前へと出て、

 先ほどと同じように障壁を張って防御する。

 やってることは殆ど変わらないので障壁は砕けるが、

 勢いは大分落ちたので今度は余裕をもって避けられる。

 逃げる部下から注意を惹くことはできたので上々だ。


「…名も知らぬ異なる世界の民よ。

 我が叡智を以って、貴方を救うわ。」


 暴力であることについては申し訳ないけど。

 内心でそう謝罪するとともに、空高く跳躍する。

 彼女の扱える魔術の種類は実に多種多様。

 生身で短時間だが、空を舞うことも可能だ。

 相手は単純な怪力。ならば射程外から攻撃すればいいだけの話。


≪乾坤から来たれ、緑柱の嵐≫


 地上へ向けて杖を振るうと、

 大地から緑の結晶が弾丸のように次々突き出す、

 地面を軽く隆起させつつ、少女へと襲い掛かる。

 自分に近づく結晶をみて、足元に出てくる前に横へと飛び退く。

 そこから決勝は軌道が曲がり、逃げた方角へと迫り始める。

 回避行動の着地と同時に既に眼前に迫っていて続けて距離を取るが、

 二度目も同じ。逃がすことなく追跡で三度の回避。

 今度は性質を理解して大きく距離を取ることで、

 追撃されるのは時間がかかるほどの距離。


「時間をかけた時点で間違いよ。」


 着地した彼女の手の甲に、結晶が突き刺さる。

 まだ周囲に結晶が出ていない筈なのに、

 続けざまに周囲へと結晶が突き刺さっていき気付く。

 下ではなく上。飛び出した一部の結晶は空へと飛んで、

 ある程度狙いを定めるように降り注いできていた。

 地上と空中、双方から結晶による挟撃に遭いながらも、

 驚異的な動きで回避しつつ、場合によっては地面の結晶を強引に引き抜き、

 そのまま空から降る結晶をそれとぶつけ合うなどで防いでいく。

 勿論すべては対処できず、足や腕の肉が裂かれる。

 酷く痛々しい光景だが、それに怯むことはない。


 最早常人なら死ぬと悟る程の殺意に溢れる攻撃だが、

 これではまず死なないだろうと言う一つの確信がある。

 それは単純だ。自傷行為の傷が、全くと言っていい程ないから。

 先程手の甲を貫通した傷も既に元の状態に戻っており、

 並大抵の再生力ではないことが伺える。


(あれほどの異常な再生能力、ディレント人にしては珍しい。)


 異端の中にも傷の治りが早い存在は認知している。

 人間離れ…と言うより人ですらないのだからそれは当然だ。

 かなり攻撃性の高い魔術を用いたが、それで傷にならないとは。

 優れた種族なのか。疑問に思いながら飛来する結晶を避ける。

 引き抜いたのを此方へと投げてきたが、この程度は問題ない。

 これを繰り返せばその内再生が追いつかなくなるだろう。

 と思っていたのだが、翼が生えてからは話は別になる。


(翼の形状、魔族の類か!)


 地面を大きく踏み抜いて跳躍。

 弾丸のような速度で接近はしたが、

 予測はしたので回避は間に合う。

 結晶を二本携え、それを構えてエミレーツへ迫る。

 宝石のような槍を構える姿は、中々に見栄えが良い。

 状況も忘れてそんなことを彼女は考えてしまう。

 完全に得物を与えてしまったことになったが、

 残った結晶が円を描くように集まり、巨大な障壁となる


(殺さないで戦うならジーニに任せたいわ、ホント。)


 殺す技術については豊富だ。

 逆に捕縛と言った搦め手については不得手な部類に入る。

 だから一度戦闘不能に追い込もうと思ってたのだが、そうはいかない。

 これだけ力のある存在を殺さないで保護すると言う条件。

 今まで経験したことが殆どないため、こういう場面は苦手だ。

 威力を抑えようにも、再生能力と機敏さのせいで加減が難しい。


≪滴れ冷水 その果ては凍てつく雫と成らん≫


 無数の水滴が雨のように放たれた。

 空から降り注ぐような水滴を正面から受け、

 被弾した箇所は次々と凍って身動きが取れなくなっていく。

 結晶で弾こうにも、細い槍のような形状では水滴を防ぐのは不可能。


≪駆けろ我が身 刹那に輝く石火の如く≫


 動きが鈍くなりつつある彼女を背後へと高速で回り込み、

 同じように雨のような水滴を次々と浴びせては凍らせる。

 鈍くなった彼女に速度を上げた動きに対応できるものではなく、

 全身が氷像の如く氷漬けになり、翼も固定された以上飛べずに落ちる。


「───ッ!!!」


 声にもならない悲鳴と共に全身の氷が弾け飛ぶ。

 そのまま結晶を構えて突進するが、

 正直これで止まるとは思っておらず容易く回避する。


「まるで獣ね。」


 他に何か搦め手はあったか。

 自分の使える魔術を思い出しながら急降下。

 生身一つの浮遊では有翼の相手の機動力には勝てない。

 相手の有利な状況にいるだけ無意味であるからだ。

 逃げるエミレーツ同じように急降下して追いつつ結晶を投擲。

 先に着地と同時に上から投擲された結晶を避ける。


≪堅牢なる壁よ 黄金を纏いて不落の存在となれ≫


 相手が地面に降り立つと同時。

 周囲を囲むように黄金の壁が聳え立つ。

 上が開いてるのでそこから脱出を図るも、

 そのまえに天井も黄金で完全に密閉される。


「酸欠で倒れてほしいけど───」


 願望めいたことをごちるのを遮るような衝撃音。

 二、三度の衝撃では傷らしいものはなかったものの、

 四、五回になれば一気にヒビが広がっていく。


≪堅牢なる壁よ 黄金を纏いて不落の存在となれ!≫


 見過ごすわけがない。続けざまに同じものを用意して塞ぐ。

 息を吐く間もなくその壁にも同じようなヒビが入る。

 詠唱の時間の暇はなく即興で同じ魔法を使うものの、

 詠唱を省いた魔術は劣化する。寧ろ早く破壊されてしまう。

 壁の破片が襲い掛かるもすぐに大地から壁を生成し防御。

 風と共に高く跳躍してその場から逃げると同時にその壁も壊される。


(どうしたものかしら。)


 建造物の屋根へと着地しつつ思案する。

 はっきり言ってエミレーツは負ける気がしない。

 此処まで今のところ傷らしい傷が不意打ちのみ。

 先ほどの黄金もある程度は耐え抜いてはいた。

 言い換えれば複雑な工程をすれば封じられるだろうことから、

 どうしようもない程のものではないと言うのはよくわかる。

 一方で、そんな時間を割く暇は当然ないというのもまた事実。

 負けないだけで保護と言う形の勝利も得られない。


≪汝を包括せしめんとする泡沫は 夢幻に非ず───≫


 一番彼女を捕まえられそうなのを思い出して使うも、

 それ以上に相手の動きが速すぎてやはりそれどころではない。

 襲い掛かる攻撃を冷静に回避しつつ、この状況をどう打開するか。

 部下の避難をさせた時が一番何とかできただろうとは今思うとよく分かる。

 あの時ならば、彼女も自分を抑えるだけの理性があった以上一番容易だ。

 旦那への武勇伝にかっこつけようした結果、手間取ることになるとは。

 何が起きるかわからない以上は部下の避難は必須でもあったので、

 自分に注意を向けないと困るため、ある意味仕方なかったのだが。


≪与えよう 数多にして困難なる万棘(ばんきょく)


 一番最初方針通りに再生が追いつかないよう攻撃。

 再生能力の限界を迎えるまでこれを続けるほかない。

 結局そこに行きつき、建物から逃げるように地面へ着地。

 棘が無数に周囲で形作るとともに、それを乱雑に放つ。

 棘自体は大きくないが数が数。避けることは困難を極める。

 しかし、棘が何処を刺さろうと活動を止める気配がない。

 仮にも急所となる眼球にすら刺さっているのにも関わらず。

 動きは鈍ることを知らず、踏み込みだけで天井を破壊。

 一瞬だけ陥没して姿が見えなくなるがすぐに跳躍して飛び出す。

 そのまま手をハンマーの要領でエミレーツへと振り降ろす。

 予想以上に早く少し危うくギリギリ攻撃される場所から離れるも、

 地面に大きなクレーターを作る程の衝撃が足元にくる。

 瞬時に空へと逃げるように動いて 今度こそチャンス。

 距離を一気に稼ぎ、武器がない今なら狙える。


≪汝を包括せしめんとする泡沫は 夢幻に非ず───≫


 そう思っていたが、彼女から飛来する棘を障壁で防ぐ。

 自分の身体に刺さっていた棘を再生で強引に取り出して、

 投げているだけの単純な行為。しかしその威力は並ではない。

 気軽に防いでいるが、防がざるを得ないと言うべきものだ。

 続けざまに飛んでくる拳による一撃を避け、


「いい加減使わせなさい!!」


 何度も妨害されてそろそろ苛立ちが来たのか。

 癇癪を起こしたかのようについに軽く喚き散らす。

 詠唱の暇を与えないのが一番の正攻法であり、

 当然彼女にとって一番の嫌がらせに繋がってくる。

 (相手は暴走しているので自覚はないだろうが)

 次の一手は炎で焼くのが適切かと思っていると、


「グゥ…アッ…」


 どういうわけか彼女の動きが止まり、頭を押さえるように抱えた。

 突然の挙動に一瞬戸惑いながらも好機として動くもののやはり妨害の一手。

 今は手を出さず相手を観察し状況の把握。それを優先として距離を置く。

 距離を置くと空から逃げるように地上へ降りていき、


≪汝を包括───≫


 ふざけ半分で魔術を用いると、すぐに旋回して攻撃をしてくる。

 とりあえず避けてみると、再び彼女は頭痛に苛まれたように頭を押さえだす。

 何なのかこの行動は。先ほどよりも苦しそうにしているが何なのだろう。

 地上へ逃げようとしたのであれば、空にいるからこそ困るものがあるはず。


「…まさか?」


 違うものの筆頭。

 背後から自分を照らし始めた朝陽。

 遮るものがない太陽の光は、次第に周囲へと広がる。

 彼女の翼の意形状から魔族と言う推測はあったが、

 本当にその手の類なら太陽の光に弱いことも多い。

 更に空高く、太陽がより見える空へと舞う。


≪幻影を映す鏡よ 水面に揺れん!≫


 魔術の詠唱に気付き、表情を歪ませながらも同じように追う。

 だがそれでいい。それでこそエミレーツの目論見だ。

 彼女が展開したのは、文字通りの水。

 ただし重力の流れを無視するように、

 平べったい板のような状態で複数浮かぶ。

 水は鏡のように陽を照らし、反射していく。

 すべての水鏡は彼女へと集中し───絶叫。

 今までで一番大きな絶叫。声量だけで吹き飛びそうな勢いだ。

 多数の方向から太陽光を浴びているなんて経験普通はない。

 ある意味叫びたくなるものだと思いながら更に大空へと舞う。

 更にエミレーツは大空へと、誰もいない大空へと舞う。


≪汝の包括せしめんとする 泡沫は夢幻に非ず

 全ては現 顕現するのは汝に対する我が心の表れである!≫


 やっと言い終えた。

 鏡だった水は球場のドームとなって彼女を覆う。

 覆われても相手は暴れだすが、ドームに殴りかかっても出られない。

 中で殴れど蹴れども、ドームを突破することができない状態だ。

 何度か暴れていると、強烈な睡魔が彼女を襲い始める。


「…よい夢を。」


 瞼が重い。力が抜けていく。

 ドームの中で彼女は静かに眠りについた。

 先ほどまでの災害レベルの暴れっぷりが嘘のように。

 その寝息は、妙齢の女性らしく可愛らしいものだ。


「…終わりね。ディレント人保護にこんなに疲れるの初めてかも。」


 ドームと一緒に地上へ降りると、

 エミレーツは大の字になって寝転がって空を仰ぐ。

 こんなに魔術を出したのは久しぶりだ。

 卓越した魔術があるが故に、使う機会は少ない。

 あっても一回だけ。それで決着がつくぐらいの魔術を彼女は持つ。

 故に使う機会はなく、今回の戦いはその久しぶりを体験した気がする。


「…ああ、暫くはジーニに任せるわ。後はよろしくね…それとごめん。」


 疲労困憊の中、エミレーツは静かにそうつぶやいて目を閉じた。






「ソフィ。」


 目を開ければ、整った髭が特徴的な男性が私へと声をかけていた。

 顔はダンディと揶揄されるであろう女性受けしそうな顔に反して、

 生活感溢れる灰色の質素な服は、ギャップがすごく感じられる。

 忘れることはあり得ない…私を此処まで育ててくれた父だ。


「お父様…ひょっとして私、寝てたの?」


「ああ。考え事をしてるのかと思ってたが、

 よく見たら寝ていたからな。此処で寝ては風邪をひいてしまうぞ。」


 気づけば、私はシックな黒いソファに座っていた。

 茜色のライトが静寂を視覚で表現してくれる。

 隣には父がコーヒーを飲み、一息つく。

 外を見れば、陽が落ちて街の明かりが灯された状態だ。

 人ごみやなどの雑多な音が、街の喧噪を奏でている。

 とても暖かい家庭だ。商人としてそれなりに成功を収めた父。

 才覚に溢れた自慢の弟。私も自信を持つ程度には実力はある。

 母が事故死してる、と言う一点にさえ目を瞑るのならば。

 ある意味これが理想的な光景。いい人生が送れる家庭だ。

 少なくとも私の家庭は、世間でいう勝ち組に類する。

 家族の関係は良好。後ろ暗いことも父はしていないし、

 貧困に喘ぐこともない。まさに『夢』のような家庭。

 安堵すると、私は涙を流していた。


「…どうした?」


 父は私を心配そうに見てくれる。

 ああ、この人の顔をまた見れるなんて。


「───夢を、見ていたの。」


 夢の内容を、父へと伝える。

 怪物になってしまい家を追われたこと。

 吸血鬼を殺す人間に追われたこと。

 異世界へ行って酷い目にあったこと。

 誰も救ってくれなかった、ただの悪夢。

 年甲斐もなく、涙がとめどなく溢れる。

 泣き叫びたくなるほどだが、流石にそれは恥ずかしくて堪えた。

 この年にもなって泣きわめくのは、長女としてみっともないのだから。


「辛かったんだな…」


 父は私の頭を優しく撫でる。

 落ち着く。何年ぶりだろうかこの感覚は。

 商人でありながら、家庭を疎かにせず男手一つで私と弟を育てた。

 そんな父を私は尊敬している。名だたる著名人や偉人よりも、

 誰よりも彼が英雄のような存在として見えたから。

 ファザコンと言われたら否定できないわね。


「今回の商談が終わったら。たまには三人で旅行でも行こうか。」


 三人で旅行。これもまた何年振りなのだろうか。

 何処が良いかしら。ロンドン? アイルランド? それとも、

 趣向を変えてニホンと言う国も悪くないのかもしれない。

 言葉は少しだけしか覚えてないから、学ぶ必要はあるけど。


「…ええ。いつか楽しみにしてるわ。」


「なら、ベッドへ向かいなさい。今夜ももう遅いのだから。」


 あんな悪夢とは無縁の世界で生きる。

 私にとって、どれほど幸せなことか。

 でも違う───これは、現実ではない。


 現実は暖かくないことを、私は知ってる。

 私がしてきたことを忘れてはならなかった。

 人を殺した。振るった腕で相手の首が飛んだ。

 相手の手を握れば、一瞬で潰れて悲鳴が上がる。

 些細な行動を取るだけでも人が死んでいく光景を。

 あの感触は夢、それだけで片づけてはならないもの。

 化け物にされたのも事実で、家を追われたことも現実。

 その先でも追われて、異界で強姦されかけたのも本当だ。

 現の今が夢で夢こそが現。私が望んだ理想だけの世界。

 父と弟が、私も此処にいる…私が望むユートウピア。

 もう一生訪れない。どんなことをしても覆らない。

 夢でいいじゃない。私は心の中で思ってしまう。

 悲惨な現実に戻る理由が一体どこにあるのか。

 いいえ、あるわ。だって私はクリス家長女、

 ソフィア・グローリア・クリスであれば。


「お父様。」


「どうした?」




「───行ってきます。」


 クリスタルのような輝きを。

 此処にいてその輝きはきっと曇るだろう。

 私の誇りにして支えを、私は捨てたくない。

 だから、もう安らぎの時間は終わり。

 弟の姿が見れなかったのは残念だけど、

 私が向かうのはベッドではない。

 本当の現実だと。


「…ああ、行ってきなさい。」


 理想の世界であるのは間違いない。

 だから耳障りのいい言葉を、私が欲しい言葉を答える。

 でも、今の言葉に対しての父の返事だけはどこか違う。

 あれは理想ではなく、本当の父の言葉に感じた。




「…現実、よね。」


 清潔なベッドの上。

 洒落た部屋にて私は意識を取り戻した。

 あれだけ暴れたあとがこんな光景だと、

 また夢なのではと疑いたくなってしまう。

 でも、この部屋には自分の立場を伝えるものがある。

 目の前に横並びする鉄の棒…これは紛れもなく牢。

 私は部屋に限りなく近いほど整った牢に閉じ込められていた。


(全裸…)


 身に着けてたものが何もない。

 牢屋である以上人と出会うことは少ないだろうけど、

 身に着けるものがないと言うのは正直色々不安である。

 何故こうなったかは…あんな血まみれでおけるかって話か。

 いや、でも…着替えぐらいはないの? あたりを見渡していると、


「随分と大人しいようね。今はちゃんと人みたいだけど。」


 どこから姿を現したのか。

 牢屋越しに一人の女性が姿を現す。

 とっさに人が出てきてシーツにくるまる。

 同姓とは言え、この状況だと少し恥ずかしくなってしまう。

 相手は丈の合わない白スーツに身を包んだ妙齢の女性だ。

 綺麗な人…服装さえしっかり合わせてればではあるが。


「…夢とは言えど、父に会えたので。」


 もう会えないだろうな。

 そんな風に思って生き続けた。

 だから夢だろうと、幻だろうと。

 出会えたことは嬉しくて仕方がない。

 最後の一言は本当に父が言ったかのようだ。

 あればかりは夢と表現するのさえ憚られる。


「記憶は何処まで認識しているの?」


「大体は覚えてます。まずは、大変申し訳ありませんでした。」


 シーツにくるまったままと言う、

 誠意が感じられない状態で頭を深々と下げる。

 忘れてはいない。あの時地面を叩いたら床が崩れた。

 最初は戸惑って全員が状況を理解できていない。

 騎士風の人だけが立ち直りが早くて私を殺しにきた。

 そりゃそうだ。こんなの売れないと思うに決まってる。

 その手を止めようと咄嗟に彼の腕を握れば、簡単に潰れてしまう。

 飛沫する血液を浴びると、暫くの間は正直あまり覚えてはいない。

 吸血鬼であった以上私は血の欲求が爆発して暴走したのだ。

 だから暴れた…でも、絶対に血を吸わないようそこだけは自制できた。

 怖かった。一人でも吸えば私は大事な何かを失ってしまう。

 そんな恐怖に駆られて、必死に自分を抑え込んだ。

 自分に剣を刺して、足の筋すら斬ってでもってでも追い込んで。

 でも治る。衝動は止まない。そんな地獄を只管繰り返す。

 時間がどれほど経ったか忘れたころに、彼女が現れて戦った。

 暴走してた時に私を止めようと必死だった魔法使いのような彼女が。


「何故助けてくれたんですか?」


 あの状況、あれだけの暴威。

 ただの初対面。私を助ける理由もない。

 死ぬかもしれない、命懸けの救助と言う名の戦闘を。


「理由は三つあるわ。

 一つ目はホロックと言う組織ゆえの事務的なもの。

 二つ目は貴女をあの短時間で悪と断定できなかった。

 三つ目は私情で夫に武勇伝を聞かせたかっただけ…以上。」


 最後のは気にするのはやめて、

 ホロックと言うのが何かを私は尋ねた。

 私のような異世界から来た人を助けてくれる組織。

 今こうして言葉が通じてるのはこの人や一部の人だけで、

 どうやら別の言語を理解しなくしては、意思疎通もできないとか。

 かなり大変な状況に巻き込まれたと言う自覚はあったけれど、

 此処までのものだと、あの穴に吸い込まれた時からは思いもしない。

 でも腑に落ちた。と言うより異端がいるのだから異世界もある。

 そう思えるようになってしまった一種の感覚麻痺だ。


「でも、相手が悪党の集団であろうとも殺しはよくない。

 相応の償いでも、贖いでも。何かをしてもらう必要があるわ。」


 返す言葉はない。

 どんなに暴走と言う問題があれど。

 相手が人の道を踏み外した集団であろうとも。

 どこかのエージェントのような殺人が許されるライセンスはない。

 それなのに人を殺したと言う事実は変わりはしないのだから。


「でも、状況の吟味した結果貴女にはまだ猶予がある状態なのよ。

 とりあえず、少し落ち着いたらある人のところへ預けることになるの。」


「ある人、ですか。」


「まずその暴走をなくすこと。

 猶予とは、その克服が必須条件よ。

 それができなければ…後はわかるよね。」


「…はい。」


 できなければ死。こんな暴走しかねない存在を、

 長々と放置して見張るなんて人件費の無駄でしかない。

 首を斬り落とす方がまだ現実的とも言えるはず。

 とは言え、それでも有情な執行猶予だ。

 克服できるかどうかは別としてだけど。


「じゃあ話は終わり。まずは服と…食事時だし容易してくるわね。」


「あの、その前に質問良いでしょうか。」


「何かしら?」


「…どうして、丈が合わない服なので?」


 正直気になって仕方がなかった。

 だぼだぼの袖、胸元が少し際どいぶかぶか。

 ボトムスに至っては彼女が手づかみで脱げないよう維持してる。

 ちゃんとした服を着れば似合うであろう容姿なのに、

 服装はかなり乱雑なのを選んでいるように私は感じた。


「ああ、ごめんなさい。夫の方の対応してたら、

 貴女が意識を取り戻したもんだから咄嗟にこの恰好で来てしまったと言うわけ。」


「…それと服にどう関係が…?」


「ちょっと待ってね。すぐにわかると思うから。」


 そう言って、彼女は仮面を被る。

 顔を覆うには十分な大きさの、黒い仮面を。

 仮面で顔が見えなくなると、同時に変化が始まる。

 華奢で細い腕は膨張して男性らしいものに。

 身長も私と同じぐらいのはずが見上げる形になっていく。

 はっきり言うわ。気持ち悪い。何が起きているのこれは。

 服の丈に合うような体つきになると仮面を取れば。

 そこには女性だった彼女の顔の面影がほとんどない。

 髪の色が青く、瞳が赤いこと以外の共通がない男性の顔だ。


「まずは初めまして。僕はジーニアス=エミレーツ。

 君を保護したエミレーツ=ジーニアスの伴侶になる。」


「お、男の人だったんですか!?」


「違うんだ。僕は男でもエミレーツは女性だ。

 君は、多重人格って言葉は知ってるかな?」


「知ってますけど…性別丸ごとはないでしょう!?」


 医学は詳しくない私でもある程度知っている。

 解離性同一性障害だったかなんだったか。

 とにかく何かしらの原因で別人格が誕生するもの。

 けどそれは性格が、場合によっては能力が変わるだけ。

 体格、しかも性別すら超越なんて話聞いたことがない。

 いくら此処が異世界で私の知る常識の埒外にあったとしても。

 異端みたいな能力や種族的都合で起きるものなら別だろうけど。

 ジーニアスさんは態々多重人格と口にしている以上、

 そういう力ではないことがわかる。


「ハハハ、皆最初はそういうよ。でも、

 エミの誕生のそれは多重人格の発現と殆ど一致するんだ。」


 ジーニアスさんは親から酷い虐待を受けて、

 その最中にエミレーツと言う存在が誕生したそうだ。

 環境が悪いとそうなりやすいとは、詳しくない私でも知っている。

 確かに腑に…落ちないわね。


「多重人格なのにお互いを認知してるんですか?」


 普通多重人格って自分が受けた虐待とかいじめを、

 自分が受けてないと思い込んでそうなる…だったかしら。

 となればもう一つの人格がそれを受け止める側の筈だけど、

 この様子は明らかに互いに互いの記憶が共有できている状態だ。


「最初のエミの存在は認識してなかったんだけどね。

 何年も生きていくうちに認識できるようになっただけだよ。

 でもまさか、体格が変動していることは僕も驚いたけどね。」


 驚いたで済ませていいのか。

 普通に考えればとんでもない発見で、

 世間で引っ張りだこに逢いそうな気がする。

 …でも、ある意味多重人格な部分はあるにはあるか。


 もうひとりの人格のエミレーツさんが拠り所と思えば。

 誰かの存在がなければ自分が保てなかったからエミレーツさんが誕生、

 そう思うと意外と多重人格って話は腑に落ちることなのではと感じた。

 確証はない。出会ったばかりの人のことで確信が持てる程の、

 天才のような頭脳や医学の知識持ち合わせていないのだから。

 …まあ、体格はおろか性別まで変わってしまうのは、

 色々謎だけど…出自は知らないだけで意外と特殊なのかも。


「と言っても記憶は完全な共有じゃあない。

 互いに聞かれたくないことや共有しなくてもいい、

 そういった些事や私情はお互いに知らされてないんだ。」


「なるほど…」


「ま、僕とエミは相思相愛だから隠してても気にしないさ!」


 満面の笑みを浮かべながらの惚気話…でいいのかな。

 二人(?)にとっては、体質なんてどうでもいいんだ。

 寄り添える相手がいるのならば、それで構わないと。

 どこか闇を感じてしまうが…障害の類が明るいわけがないし、

 彼らの事情も表面だけでは計り知れないと感じた。


「っと、話は後にして用意しないとな。

 女性をそのままにしてたらエミに怒られる。」


 普通に会話してて忘れてしまったが、

 私は今シーツ一枚であるということ。

 人格が入れ替わった衝撃もあいまって、

 そのことを指摘されて急に恥ずかしくなって丸くなる。


「最後に聞くけど、君の名前は?」


「私の名前は───えっと……グローリア、です。」


 本名を名乗るべきと思った。

 此処は別の世界。気にしなくてもいいんだと。

 でも、ひとつだけ恐れていたことはある。

 クルス・C・インリット。彼も来ていると言うこと。

 出会えば衝突は免れない。もしもの時を考えた末に、

 私はまだ彼に明確にしてないミドルネームを名乗る。

 何かで名前が広まった時、気付かれないように。

 ソフィア・グローリアで叡智と栄光の意味を持つ。

 名前負けしないように努力はしているんだけども、

 甘くないよね…現実は。


「いい名前だね…じゃあ、準備してくるよ。」


 再び仮面を被ってエミレーツさんになると、

 魔法か何かを使ったのかすぐに消えてしまう。

 …考えたら此処ドアがないけど何処なのかしら。

 どこか隔離された場所? 自分のことを考えると納得だけど。


 静寂が訪れると、私は寝転がる。

 幾ら人が来なさそうな場所と言っても、

 着替えがないのではあまり動きたくない。

 だからベッドに身を預けながら、彼のことを考えた。


 私を殺そうとした少年、クルス。

 もし出会ったらどうするべきか。此処に異端の概念はない。

 あってもそれはディレント人、私と同じ世界の人の価値観。

 …でも。暴走がこの世界でも危険であることは事実。

 またいつ血に飢えて暴走するか、わかったものではない。


(それでも、私は生きたい…十字架を背負ってでも。)


 どうにかできる手立ては未だにない。

 克服できるようお膳立てはしてくれたけど

 あくまでお膳立て。ここからは私次第になる。

 必ず見つけないといけない。見つけなければ私はただの化け物。

 誰かを殺めて本当の怪物になってしまい、やがて殺されてしまう存在。

 そんな危うい存在でも。私は生きたくて生きたくて仕方がなかった。

 酷く身勝手で自己中心的と蔑まされるだろうが、そう言われても構わない。

 私の存在がどれだけ悪であろうとも…自分の願う『生きること』だから。

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