57話:最初の一人
重厚な鉈を豪快に薙ぎ払ったあと、巨人は再び右腕を振り上げ始めていた。
洞穴めいた頭部をこちら側へ向け、腕と共に握られた分厚い刃が高々と掲げられる。
繰り出される一撃は圧倒的な破壊力と射程を誇り、注意を逸らすと瞬く間に迫ってくるのだから危険極まりない。こちらに出来ることと言えば、体格差を利用して走り回り、なんとか攻撃を躱すことだけ。ただそれでさえ、相手の剛力が振るう一閃を凌ぐ速度が出せているわけじゃない。事前に軌道を読んで動かなければ、雄々しい暴力へ叩き潰されてしまう。
「あの威力を見せられたら、防御魔法で受け止めようという気も起きないしね」
視線の先で巨人は次の一歩を踏み出しながら、更に僕達へ近付いてきた。
より間合いを潰した近場から、決定打をみまうつかもりか。攻撃の到達時間が短くなるだけで、こちらの死亡率が跳ね上がってしまう。巨人が近付いてくる分、僕が走って遠ざからなければ。
「ザ……ザザ……ザ……」
「ん?」
巨人の動向を注視している時、背後のクロバコ君が奇妙な声を上げ始めた。
意味のある言葉ではなく、取り留めのない音という方が正しいか。奇怪な雑音を自分の口から発している。
どうにも様子のおかしさが気になり、肩越しに視線を送ってみた。
「クロバコ君、どうしたんだい?」
「……」
僕の問い掛けに、クロバコ君は何も答えない。
しかし俯いたまま、素早く右手を上げる。次いで人差し指が伸ばされた。指し示す方向にあるのは、聳える巨人だけだが。
クロバコ君が何を伝えようとしているのか判然としないが、どちらにせよ敵の動きは見ていなければならない。僕は彼女の状態に疑問を感じながらも、改めて巨人へと視線を戻す。
だが、そこで驚くべき光景を目の当たりにした。
あれだけ猛威を揮っていた巨躯の人型が、全身の色を無くし、砂の塊となって崩れ落ちている。大鉈も鎧も既に造形が乱れ、巨人の体と一緒になって砂へ変わり海へと降っていく。もはや巨人が動くことはなく、見る間に全像が砕けて散り、何もかもが消え失せてしまう。
「バグとやらが処理できた、ということか?」
直近の脅威が退けられたことに安堵しつつ、僕は振り返った。
後ろではクロバコ君が顔を上げ、どことはなしに得意気な表情でこちらを見ている。
「バグの修正に手間取ってるようだから、マスター権限でユレ君の人格子アカウントをフレンド登録しておいたわ。これで貴方は正規の登録随伴者となったから、排除プログラムが撤回されたの。もう安心よ」
金色の髪を後ろ手に梳いてから、クロバコ君は両腕を組んだ。
僕を正面から見据えると、口唇の片側を吊る。さっきは先端の下がっていた長い耳も、今では上向き加減を取り戻していた。
外見そのものは変わっていない。しかし仕草や雰囲気が随分と違って見える。それに話し方もだ。
ずっと僕のことを『マスター』と呼んでいたのに、何故だか『ユレ君』呼びへ変わっているのも気になるところ。
加えて送られてくる声に、意識を揺さぶられるようなこともなくなっている。普通に声を聞いている感じに戻っていた。
「クロバコ君なのかい?」
「クロバコ? ……ああ、ナビゲーションAIのことね。あの子の疑似人格は少し眠ってもらってるわ。この出力モデルを借りてるの」
「じゃあキミは誰だ?」
「私は『黒い箱』の最初の適合者、の意識の断片よ。面倒だし、クロバコ君のままでいいわ」
「つまり、その体本来の人物? 前のマスターというやつか」
「いいえ、それは違う。この体は『黒い箱』最後の適合者のものよ。あ、今はユレ君が最後になるから、その一つ前ね。『黒い箱』の適合者は貴方を除いて過去に8人いたの。私はその最初の一人」
「んんん?」
「あはは、そりゃ混乱するか。私のことはお喋りな幽霊とでも思ってくれればいいから」
雰囲気の変わったクロバコ君は、可笑しそうに笑っていた。
目鼻立ちの整う美貌が描く屈託ない笑みは、確かにそれだけで華がある。
僕の頭は些か情報整理で忙しいけど。
「その姿はクロバコ君が、前マスターの情報を集めて作ったもの。姿形は前マスターで、中身がクロバコ君だった。けれど今はクロバコ君の意識が眠り、換わりにキミが体を使っている。そういうことで、いいんだよね?」
「ええ、その通り。なんにせよアルスノーヴァ内限定の紛い物。実際の肉体じゃないわ。だから幽霊と一緒」
「何故その体の持ち主じゃなく、『黒い箱』へ最初に関わったキミが出てくるんだい?」
「彼女に限らず、私以外の適合者の意識は『黒い箱』には残っていない。姿や能力なんかのデータは記録されてるけど、魂は此処にないのね。だから彼女の意識が目覚めることはない」
「だったら、どうしてキミは残っているんだ?」
「それはまぁ色々あったのよ。でもね、私が目覚めたのだって偶然にすぎないわ。久方ぶりに新たな適合者を得た『黒い箱』が、内部システムを手当たり次第にリカバリーし始めて。通常なら顧みられないブランクブロックまで総浚いでメンテナンスするもんだから、其処に眠っていた私が目覚めることになった。そしたら排除プログラムが動いてるじゃない。何が起こってるのかチェックしてたらユレ君を発見したわけ。だからチョチョッと手を貸してあげました、と」




