52話:教えてクロバコ君
「さて、それじゃ始めますか」
軽く息を吐いて、『黒い箱』へと足を進めた。
数歩前へ出ると、濃紫の魔力結晶体が部分的に剥げ、黒い物体の下方前面域が露わとなる地点へ到達する。あとは自分の右手を伸ばし、ただ触れるだけだ。
掌に伝わるのは冷たさと、無機的な硬さ。黒の表面帯は微細な凹凸さえなく、驚くほどに滑らかでもある。
岩とも鉄とも異なる独特な感触は、類似物をあげるとすれば鏡に似ているだろうか。
「ん」
一瞬、目の前を光の線が走って見えた。
それが合図だと、僕はもう知っている。
駆け抜けた光に意識のピントが合ったあと、気付いた時にはまったく別の場所に居る。頭上に広がっているのは、洞窟の中ではありえない青い空、散り散りに浮かぶ白い雲。足元には黄金色の砂浜が広がり、右側には雄大な海が地平の彼方まで続く。
寄せては返す穏やかな白波が、砂浜を不規則に洗い濡らす光景。静かな波音だけが、僕の耳に届く全て。
最初は随分と驚いた。シラユキの転移魔法で、また別の場所に連れてこられたのかと思った。
でも実際には違う。此処に居る僕は確かに五体を保持しているけれど、実体ではない。肉体から精神だけが分離しているような状態だ。
僕の体は今も洞窟ダンジョン最下層で、『黒い箱』に触れた状態で立っている。その姿をシラユキに見守られながら。
これは一時の夢に近い現象といえる。此処でどれだけ時間が経とうとも、現実世界では一秒しか経過していない。体感時間と実時間に大きな隔たりがある。『黒い箱』の継承者だけが招き入れられる領域。精神だけで織り成される世界。
「ようこそ、マスター。また御会い出来て嬉しい限り」
後ろから軽やかな声に話しかけれ、僕は振り向いた。
見れば僕の半身程度の大きさを持つ、黒い箱が宙に浮いている。
気配も魔力もなく、忽然と出現した彼は、この世界で唯一話のできる存在だ。
特に決まった名前はないということなので、クロバコ君と呼ぶことにしている。
「来ないと大変なことになると、キミの守護者に脅されているからね」
「そうなのですか。しかし私には何が起こるか分かりません」
「まだ思い出せないのかい?」
「申し訳ありません。記録データにロックが掛かっており、閲覧は制限されています。システムリカバリーは依然として継続中。各種復帰には未だ時間が必要となります」
クロバコ君は『黒い箱』の意識というか、管理者というか、その内部に確立された重要なモノらしい。
本来ならば『黒い箱』の全てを把握していて、継承者であるところの僕へ効果や使用法を教えてくれる解説役となる筈だった。この空間はその為のもので、現実の時間を消費せず、継承者が重要情報を学ぶことが出来るよう設けられているとのこと。
けれどあまりに長い時間誰とも関わらず、延々と眠り続けていた所為で、色々な所が故障してしまっているのだとか。僕に話すべき事柄が保管される記憶の図書館は、故障の影響で鍵が掛かってしまい、クロバコ君も覗けないという。
今は一生懸命修理を続けている状態で、修理が終わるまではどうにもならないという話だ。そんなワケで僕は『黒い箱』がどういう代物で、何が出来るのか、今のところまだ何も知らない。
シラユキに聞いても『強大で危険な『力』と教えられているが詳しいことは知らない』と返された。ゴーレムでなかったら、そんな曖昧なものを孤独に護り続けはしないね。
「そうか、まだ駄目か。しかたない、気長に待とう」
「ですがマスターが毎日会いに来てくださるので、作業は捗っています」
「はて、僕は何もしてないけどな」
「マスターのアストラル波が注入されることで、システムは日々活性化を続けているのです。マスターが来てくださること、それが重要な作業効果を齎しています」
「つまり僕が来ないと修理が滞るということ?」
「そのように認識して頂いて構いません」
「なるほど。無駄になってないと分かって良かったよ」
アストラル波というのは精神そのものが宿すエネルギーらしい。
普通の魔力とは違い、『黒い箱』は継承者からしかアストラル波を受け取れないようだ。
それにしてもこれだけ奇妙奇怪な諸々へ遭遇すれば、流石に僕も古代先史文明の存在を信じざる負えない。以前までは眉唾論法と思って一切信じていなかった。でも実在する『黒い箱』や、クロバコ君、時間の流れが違う精神だけの世界、こういうのを目の当たりにすると、魔族とも人類とも違う遥か古の文明時代が真実なのだと考えなければ、説明はつけられない。
とはいっても古代先史文明のことをクロバコ君に聞いても、修理中なので分からないという回答のみだ。知りたいことは結局何も分からないまま。それを思うと、どっと疲れがでてくる。
「マスター、よろしければまた外の世界の話を御聞かせ願えませんか?」
「ああ、いいよ。どうせ此処に居てもやる事がないしね」
「ありがとうございます。以前はデーモン族について教えてくださいました。本日は何になるのでしょうか」
「そうだね、僕の頼れる配下にもなっているウーズ族について話さそうか」
僕へ『黒い箱』について教える筈のクロバコ君は、逆に僕から色々な話を聞きたがる。
知るべき記録へ触れられないからこそ、知識を獲得したいという衝動なのか。はたまた長い間眠り続けていたために、話し相手が欲しいのか。理由は何にせよ、僕も暇なので話してあげているわけだ。
ほんと、なんでこんなことになってるんだか。




