50話:異空間議論
「ユレ様は動乱の極北大陸へ、御戻りになりたいですか?」
意を決したように顔を上げたクラニィの、真剣な眼差しが僕を見た。
今、極北大陸で名を上げれば、魔王位へ手が届くかもしれない。魔王四天王の息子という位置は、魔貴族達の地位にも負けない話題性がある。
だからその戦いへ僕が参加したがっているのではないか。翡翠色の両瞳はそう問い掛けていた。
「いいや、もうあの大陸には未練はないし、魔王の肩書にも興味はないよ。ようやく自分の拠点を手に入れたんだ。今はこのダンジョンを完成させることしか考えてないからね」
僕もクラニィの目を見詰め返し、偽りのない本心で返した。
すると彼女の顔から緊張の強張りが解け、見慣れた微笑みが浮かべられる。
そこには危惧のついえた安心感が透けていた。
「そうですか……そうなんですね」
僕がこのダンジョンと皆を棄てて、極北大陸に帰るのかと心配していたようだ。
勿論、そんなつもりはない。苦労して手に入れた大切な居場所と配下達を、そう簡単に手放しはしない。
そもそも今更大陸のゴタゴタに巻き込まれるのは御免被る。面倒事に関わるのが嫌で、無法境界線まで逃れて来たんだからね。ここで戻るなんて本末転倒甚だしい。
「この情報で僕が価値を見出してるのは一点だ。極北大陸と南方大陸の間で諍いが続いている限り、無法境界線に手を出す余裕はどこにもないということ。魔族と人類どちらの勢力も気にせず、腰を据えてダンジョン構築へ臨めるってことさ」
「はい。おかしなことを聞いてすみませんでした。そろそろお仕事に戻りましょうか」
最後に一つ晴れやかな顔で頷いて、クラニィは羽ばたき始めた。
空になった二人分のカップを片付けるべく、再び魔力に拠る操作へ入る。
その姿をぼんやりと見ながら、僕の頭には別のことが過ぎっていた。
魔王親衛隊の残党が完全に滅んでいないとなれば、兄さんが生きている可能性があるということ。
最後の最後で僕に協力を求めてきた兄さん。僕はそれを蹴り、今ここに居る。僕の所在を知った時、兄さんは何を思い、どう動くだろうか。
兄さんが生きているかもしれないと知って、僕はほっとしている? それとも落胆しているのか?
自分でも分からない。
「あ、ユレ様、後ろが……」
「ん?」
クラニィの声に引かれて振り返ると、僕の背後で空間が縦に裂けていた。
常識を破って左右へ口を開ける裂け目からは、既に何度も見てきた蒼黒い煌めきが覗いている。
生まれた断裂から、鎧状の外殻で全身を覆うゴーレム――シラユキが姿を現したのはすぐだ。
相変わらず一部の隙もなく灰銀色に黒光る流動金属へ包まれ、物々しい雰囲気と重量感を伴っている。とはいえ鎧に見える全てが肉体と同義なので、脱げというわけにもいかない。
「秘書殿、邪魔をするぞ。継承者よ、そろそろ時間だ」
頭部前面へ走る横一筋の眼域、そこで真紅に灯る明光が僕を捉えた。
高低差の混じる二重音声が、僕に移動を促してくる。
「そうか、分かった。クラニィ、僕は『奥』に行ってくるから暫くの間ここを頼むよ」
「はい、かしこまりました」
有能秘書に後を任せ、シラユキが開けた異空の断裂へ足を向けた。
空間の裂け目を僕が潜ると、シラユキも続いてくる。
踏み込んだ先は夜空の只中を思わせる世界だ。上下も左右もない広大無辺な領域は、何度身を置いてもしっくりくるものじゃない。カリナとレイドも二度は入りたくないと漏らしていた。
「少し話を聞かせてもらったが、貴君が国元に戻らないのは権力権威に関心がないからだけではないのだろ」
背後で空間移動の路を閉じる最中、シラユキが言葉を投げてきた。
雑談と呼ぶには意味ありげな響きがあり、僕に何か言わせたい意図が読める。しかしそれよりも先、盗み聞きの自供に僕は肩をすくめた。
「おいおい、まさか今も四六時中僕を監視してるんじゃないだろうね?」
「今回はたまたまだよ。呼びに行こうとした時に、話が聞こえてきただけだ」
「『今回は』ってなんだい、『今回は』って。今回以外もあるってことじゃないか」
「案じてくれるな。貴君が部下の女人とよろしくやっている時は、見ないよう配慮している」
「まるで僕が女性陣に手を出してるみたいな言い方は止めてくれ」
「異なことを。デーモン族は淫魔族に次いで色狂いの気があると聞いたがね」
「とんだ誤解で風評被害だ。個人の嗜好が種族特性として喧伝されてる悪しき事例だよ」
「そういうものかな。だが死霊族に氷華族に妖精族に単眼族、綺麗どころが選り取り見取りとくれば、支配者権限で酒池肉林へ耽るも容易いだろうに。逆に何故手籠めとしないやら。ウーズ族や妖典族、或いは少年が好みかね?」
「キミと話してると頭が痛くなってくる。ゴーレムだから分からないなら、一つ教えてあげよう。魔族が根源的に抱くのは力への欲求でね。強大なそれを得んとする意志は全てに勝る。力の定義は種族毎に違うけど、僕達デーモン族なら支配領域の堅牢さ、兇悪さ、巨大さ、充実が該当する。つまりダンジョンの構築と更なる飛躍こそが、今の僕が欲するもの。この至上命題の前では他の欲求は色褪せる」
「つまり女人と愉しむよりも夢中ということか。些かつまらない話だな。人類は三大欲求に数えられるほど性欲が強いと聞くのに」
「魔族でも十分に大きな力を得て、向上心が満たされた者は色へ走るさ。先代の魔王様なんかは、まさにその最たる例だ」
いや、そもそもなんでこんな話をしてるんだか。
無窮の異空間で、灰銀鎧の騎士と面向かって情交の位置について議論する。傍から見たらさぞ珍妙な光景だろう。




