ゾフィ・シュトラウス 4
「ご機嫌ですね、エルナ様」
濃い目の灰色の髪に水宝玉の瞳の少女は、刺繍の手を止めるとゾフィの差し出した紅茶を口にした。
エルナが刺繍しているのは、ハンカチだ。
ノイマン領の祭りで刺繍ハンカチを売るために、最近はひたすら刺繍をする日々だった。
「だって、テオ兄様が帰って来て、もうすぐレオン兄様も帰ってくるんですよ? 家族全員が揃うのなんて、久しぶりですから」
笑顔でそう言うと、カップを置いて再びハンカチを手に取る。
ただの刺繍されたハンカチとはいえ、これが結構人気で売れている。
図案は王都にいるレオンハルトから最新の流行を聞いて取り入れるし、領主の娘のお手製ということで箔もつく。
数もそれほど多くないことが却って希少価値を高めて、祭りの人気商品の一つになりつつあった。
「……ああ、そうだな」
楽しそうなエルナに比べて、その向かいで紅茶を飲む少年の表情は冴えない。
黒髪に黒曜石の瞳の少年は、エルナの兄のテオドールだ。
「ゾフィ、レオン兄さんが帰ってきたら、できる限り足止めしてくれよ。頼むから」
「テオ兄様、足止めって何ですか?」
「俺が生き残るかどうかの、瀬戸際なんだ」
真剣な様子のテオドールだが、意味がわからないエルナは首を傾げている。
テオドールは騎士見習いとして王都にいるのだが、昨日帰省してきたところだ。
休暇だからなのか、祭りのために来たのかはわからないが、どうも楽しそうには見えない。
騎士見習いの中でも一二を争う優秀さなのは間違いないし、既に正規の騎士に混じっても十分な実力だとゾフィは思っている。
だが、兄のレオンハルトがあれなので、テオドールに慢心や過信はない。
テオドールは兄に剣の腕は劣るものの、魔法の資質を持っている。
バランスの良さで言えば、騎士としては彼の方が優秀なのかもしれなかった。
「まあ、母さんがいないのがせめてもの救いだな」
クッキーをかじりつつ、テオドールが呟く。
当主のマルセルと夫人のユリアは、話し合いがあるとかで揃って隣の領主の所に出掛けていた。
「自分で呼びつけておいて、いないのもどうかと思うが」
「テオ兄様は、お母様に呼ばれて帰ってきたのですか?」
「ああ。頼みがあるとか何とか。……正直、嫌な予感しかしないけどな」
憂鬱そうにクッキーをつつく兄を、エルナは不思議そうに見ている。
何せ、彼が持っているのはただの魔力ではない。
伝説とされる虹の聖女。
その聖なる魔力を引き継いでいるのだ。
ユリアが虹の聖女だと知った時には、まさかの事実に驚愕した。
だが同時に、あの異次元の力はそのせいかと納得できた。
三人の子供のうち、聖なる魔力を受け継いでいるのはテオドールだけ。
その彼を呼びつけて頼みがあるというのだから、テオドールの言う通り何かあるのかもしれない。
「でも、全員揃うのは嬉しいです。来年には学園に通うために、私も王都に行きますし。レオン兄様とテオ兄様に会えるようになりますね」
はにかむエルナを見て、テオドールも毒気を抜かれたらしく苦笑いしている。
「くれぐれも、変な男には引っかかるなよ? レオン兄さんが一緒だから大丈夫だとは思うが」
「テオ兄様は屋敷にいないのですか?」
「俺は騎士見習いだからな。普段は宿舎にいるよ」
「でも、お休みはないのですか?」
「まあ、あるにはあるが……」
エルナの質問に、気まずそうに言葉尻を濁す。
レオンハルトの剣の腕を、エルナは知らない。
彼が剣を扱うこと自体を知らないのだと思う。
ついでに、ユリアのことも知らない。
エルナの前では淑女の見本を見せるのだと言って、ユリアは張り切って普通の女性を演じている。
実際に普通の女性かどうかは置いておいて、少なくとも剣を持つところは決して見せていない。
なので、テオドールが何を恐れているのか、エルナにはまったく理解ができないのだろう。
レオンハルトのいる屋敷に帰れば、稽古をつけられる。
伝説を打ち立てた剣術大会以降、自身と一般人の差をそれなりに理解したレオンハルトだが、テオドールには容赦がない。
たぶん弟が可愛くて構いたいし鍛えたいのだろう、と傍から見ているゾフィにはわかる。
だが、あれに鍛えられる本人は、たまったものではないだろう。
軽い稽古のたびに命がけでは、身が保たない。
テオドールはレオンハルトのことを「羊の皮をかぶった兵器」と呼んでいるが、言い得て妙だ。
「エルナ様、ハンカチはあと何枚ほど製作するのですか?」
返答に困っているテオドールに代わってゾフィが問うと、エルナはハンカチを入れている箱をテーブルに乗せる。
助け舟を出された形のテオドールは、視線でゾフィに礼を言ってきたので、軽く会釈を返す。
その瞬間、何かがゾフィの頬を撫でた気がした。
風が入りこんだのだろうか。
窓は開いてはいるが、風にしては優しい感覚だった。
「どうかしましたか、ゾフィ」
「いえ、何でもありません」
エルナがハンカチの入った箱を開けただけだが、もしかすると勢いよく蓋を開けて風が起こったのかもしれない。
「幸運のハンカチ、なんて呼んでくれる人がいるので、せっかくだから四葉の刺繍も作ってみたんです」
エルナの手元のハンカチには、若草色の糸で小さな四葉が描かれていた。
「可愛らしいですね」
「皆に幸運が訪れると良いですよね」
エルナはそう言って、ハンカチの枚数を数える。
兄弟の中で、エルナだけが剣の腕も聖なる魔力も継いでいない。
刺繍が趣味の、ごく普通の女の子だ。
ユリアはそのまま聖なる魔力を知らず、剣に関わることもなく、ごく普通の女の子として幸せになってほしいと常々ゾフィにこぼしている。
ゾフィ自身は剣を学び、騎士となった人生を誇りに思っているが、侍女としてエルナの成長を見守っていくにつれ、ユリアの言葉も理解できるようになっていた。
エルナはこのまま、穏やかに、幸せに過ごしてくれればそれで良い。
窓から入り込んだ風が一枚のハンカチを舞い上げ、床に落ちる。
ゾフィがそれに手を伸ばすと、優しい風が頬を撫でた。
まただ。
さっきも、こんな風に頬を撫でられる感覚がした。
何となくハンカチを見るが、四葉の刺繍をされた、ただのハンカチだ。
それでも何かが気になって、首を傾げる。
エルナの作った刺繍ハンカチが幸運のハンカチと呼ばれるようになったのは、ここ数年のことだ。
領主の娘のお手製なので、ありがたいのと珍しいのと揶揄しているのとで、そう呼ばれているのだと思っていた。
でも、もし本当に幸運の何かがあるのだとしたら。
エルナは虹の聖女ユリアの娘だ。
黒曜石の瞳を継いでいないし、髪もユリアの若い頃のような虹色でも、現在の焦げ茶色でもない。
だが、虹の七色すべての混色は、濃い灰色になる。
――それは、エルナの髪の色だ。
そこまで考えて、ゾフィは首を振る。
……気にしすぎだ。
もし何かあるのなら、ユリアやテオドールが気付かないとは思えない。
仮に聖なる魔力を継いでいるとしても、わからないくらいごく弱いものなのだろう。
エルナにハンカチを渡すと、紅茶の用意をするために部屋を出た。
もうすぐレオンハルトが帰宅する。
エルナが自室に戻ると、レオンハルトは弟に稽古をつけるのだが、ゾフィも便乗して稽古をつけてもらっている。
テオドールが言う「足止め」は、この稽古でゾフィに時間を稼いでほしいということだ。
レオンハルトの思う通りに稽古をつけた場合、テオドールは瀕死になりかねない。
どうにか時間を分散させて、負担を軽減するのが目的だ。
稽古をつけてもらうと動けないほどの疲労になるから、今のうちに仕事を片付けておかなくては。
愛用の剣も、今のうちに手入れをしなくてはならない。
ゾフィは気持ちを切り替えると、屋敷の奥へと歩いて行った。










