番外編 アンジェラ・ディート 2
「……どうも、上手くいかないわ」
アンジェラは唇を噛んだ。
一時はまさかの美少女出現かと苦戦を覚悟したが、エルナ・ノイマンは取るに足らない相手だった。
圧勝を確信してグラナートにアピールし始めたのだが、いまいち反応が悪い。
よくよく見ていれば、エルナを労わって接しているのがわかった。
その眼差しに、アンジェラは嫉妬した。
自分には向けられることのない感情を、渇望した。
無類の美少女ならともかく、あんな普通の娘にアンジェラが負けるなんてありえない。
嫉妬のままにエルナに嫌がらせもしてみたが、心は晴れない。
どうにもならなくなって、エルナを側妃にしてやってもいい、とアンジェラなりの譲歩を伝えてもみた。
しかし、側妃を持つ気はないし妃はエルナ一人だ、とグラナートは静かに怒るばかりだった。
それでも諦めきれなくて、エルナに嫌がらせを続けていた。
だが、水をかぶってびしょ濡れのエルナの所に、グラナートがやってきてしまった。
エルナが訴えれば、グラナートは信じるだろう。
そもそも、今までのことも伝えているだろうから、言い逃れはできない。
もう、これで終わりだろうか。
アンジェラはぼんやりとそう思っていた。
「……バケツをひっくり返してしまいました。びっくりですね」
「は?」
グラナートだけでなく、アンジェラまで声が出た。
「ですから、バケツに水を入れて運んでみたんですけど、ひっくり返してしまいました。着替えは持っていないので、このまま帰ろうと思います。それでは、さようなら」
深々とお辞儀をしてエルナが歩き出すと、呆気にとられたグラナートが慌てて追いかけて行った。
「何なの……」
呆然とするアンジェラに、ルカが肩をすくめる。
「戦うまでもないってことじゃないですか?」
ルカの言葉に一瞬頭に血が上りかけたが、すぐに冷めていく。
グラナートは、当初から王太子妃候補がいるからとアンジェラの申し出を断っている。
エルナは、グラナートが決めるからそちらと話せと言っている。
――はじめから、アンジェラは舞台の上にすら上がっていなかったのか。
「……せめて、不安そうにしなさいよ。こんな美少女が言い寄っているんだから。嫉妬くらい、しなさいよ……」
エルナとグラナートの信頼を揺さぶることさえ、アンジェラにはできなかった。
悔しくて、情けなくて、羨ましくて。
アンジェラの瞳に涙が浮かぶ。
ルカに気付かれれば、きっといつものように馬鹿にするのだろう。
それだけは、王女としての矜持が許さない。
アンジェラは涙がこぼれないように、空を見上げた。
********
「――駄目!」
突然の声と共に、横に押されて床に倒れこんだ。
受け身など取ったことのないアンジェラの体に、衝撃と痛みが走る。
何事かと顔を上げると、目の前でエルナの腕が切られるところだった。
舌打ちをした男が再度短剣を振るおうとする前に、エルナは男の手の上から短剣を握りしめた。
切られた腕から血が滲み、滴り始める。
浅い傷ではないとアンジェラにもわかった。
「――離せ! ポルソの恨み、晴らしてやる!」
男の憎悪の眼差しはまっすぐアンジェラに向いている。
――ポルソ。
最近、吸収合併したという小国の名前だ。
ディート王国を恨んでいる連中もいると聞いたことはあったが、この男がそうなのか。
初めて人の憎しみを直接向けられたアンジェラは、恐怖と混乱で体が動かない。
男は短剣を激しく動かしてエルナの手を振り払おうとするが、エルナは抱えるように体重をかけて必死に抑え込んでいる。
……エルナは何をしているのだろう。
この男の狙いはアンジェラだ。
すぐに逃げれば、エルナは襲われない可能性の方が高い。
なのに何故、男を止めようとしているのか。
力を込めて抑えているせいか、エルナの腕から滴る血が多くなっていく。
上質なドレスはどんどんと血の色に染まっていく。
このままでは、エルナは死んでしまうかもしれない。
助けなければ。
誰かを呼ばなければ。
そうは思っても、強張った体はぴくりとも動かない。
「――この!」
業を煮やした男がエルナの体に体当たりし、よろめいた体を蹴り飛ばす。
エルナが床に倒れこむと同時に、堰を切ったようにアンジェラの悲鳴があたりに響いた。
********
アンジェラをかばったエルナは、一命をとりとめたらしい。
だが、それ以上は怖くて聞くことができなかった。
このまま国に帰りたいくらいだが、仕切り直しの舞踏会が開かれると聞いては、アンジェラが参加しないわけにはいかなかった。
「ディート王国による吸収合併を恨んで、王族の私を狙ったんでしょう? あの子が私をかばう必要なんてなかったのに」
エルナがいなければ、アンジェラは間違いなく怪我をしていた。
場合によっては命を落としていただろう。
だが、それでもエルナの行動を思い返すと、感謝よりも疑問の方が大きい。
会場に向かいながらぽつりと呟くと、ルカがため息をついた。
「自国を訪問中の他国の王女が負傷すれば、どうなりますか?」
「それは……」
例えディート王国の自業自得だったとしても、ヘルツ王国の警備に問題がなかったことにはならない。
簡単に国際問題になりかねない、重大な事項だ。
今更ながら、アンジェラはそれに気付いた。
「じゃあ、あの子は王太子妃候補として、国の……グラナート様のために、私をかばったというの?」
自分が逆の立場だったとして、果たしてエルナをかばえるだろうか。
……いや、たぶん動けない。
実際、動くどころか、助けを求めて声をあげることさえもできなかった。
普通で、取るに足らないと思っていた存在のエルナに、決定的な敗北感を覚えた。
「……大国ディートの王女として、相応しい振舞いをお願いしますよ」
ルカの言葉にアンジェラは息をつく。
次いで、背筋をピンと伸ばした。
「――当たり前でしょう。私を誰だと思っているの」
********
「……あなた、もう大丈夫なの?」
会場の隅にいたエルナに、アンジェラは声をかけた。
ゆったりとしたドレスは、体を締め付けないためのものだろう。
切られた腕は隠れて見えないが、浅い傷ではなかったはずだ。
「はい。アンジェラ様は大丈夫ですか?」
「私は……あなたがかばってくれたから、何ともないわ」
「それは、良かったです」
穏やかに微笑むエルナに、アンジェラもつられてしまう。
だが、どうしても聞きたいことがあった。
「あなた、怖くなかったの?」
「咄嗟のことだったので、よくわからないです」
想定外の言葉に、アンジェラは慌てる。
「グラナート殿下のために、私をかばったんじゃないの?」
「いや、別に。危ないな、と思って手を伸ばしたら届いただけなので。……そんな難しいこと考えませんでした」
何てことだ。
打算で助けたのなら、その覚悟にかなわないと思っていたが、それどころではなかった。
「体は、本当に大丈夫なの?」
「はい。治癒魔法の使い手がいるので、すっかり治っています。ただ、出血は戻らないので多少はふらつきますが。……本当はコルセットもできるんですけど、何だか止められまして」
エルナは不満そうにそう言って、ドレスをつまんでいる。
……周囲に、愛されているのだ。
アンジェラは無性に羨ましくなった。
アンジェラは身分もあり美しいから、ちやほやされる。
でも、こんな風に心配してくれる人はいるだろうか。
慈しみ、諫めることもできる関係に、憧れを抱いた。
「……またいつか、会いましょう」
アンジェラはそう言うと、ルカを連れてその場を後にする。
「国に帰るわ。陛下に報告して、正式に謝罪とお礼を伝えてもらいます」
「はい」
アンジェラがそう言うと、ルカが驚きの表情で返事をする。
「ルカにも迷惑をかけたわね。……守ってくれて、ありがとう」
ルカは目を瞬かせると、微笑んだ。
アンジェラが初めて見たルカの笑顔だった。









