王子が、妙なことを言い出しました
入学式も終わり、今日から本格的な学園生活が始まる。
エルナの目標は、『空気となり早々に学園離脱』である。
「エルナ様、おはようございます」
「あ、おはようございます」
教室に入った途端に虹色の髪の美少女リリーに挨拶され、反射的に挨拶を返す。
「後で、例のハンカチをお渡ししますね」
「まあ、嬉しいです。楽しみにしています。」
リリーは花のような笑顔でそう言うと、当番があるのでと教室から出て行った。
挨拶されたから返しただけ。
約束したお礼の品を渡す話をしただけ。
何も悪いことはしていないのだが、周囲の令嬢の視線が少し冷たい気がする。
これはやはり、美貌の平民ヒロインがクラスで孤立する感じなのだろうか。
そこに手を差し伸べるのが王子なのかもしれないし、さんざん孤立した後にドカンと逆転するのかもしれない。
巻き込まれたくはないが、今更遠巻きにすることもできない。
刺繍糸の件で、一宿一飯ならぬ一刺一糸の恩もある。
……そんな言葉はないけれど、それ位エルナは感謝しているのだ。
だから、どうにか穏便に済ませたいのだが。
うーんと唸っていると、肩をトントンと叩かれる。
「うわ」
振り向いた先にあった紅の髪を見て、思わず声が漏れた。
「うわ、は酷いな。おはよう、エルナ」
「お、おはようございます。テオ……様」
「他人行儀な呼び方だな。テオでいいぞ」
いや、駄目だろう。レオンハルトとちゃんと話をつけたはずではないのかと、少しばかり不安になる。
「そんなわけにはいきません」
素性を隠したいなら、関わらないでほしいのだが。
というか、エルナの平穏な生活のためにも関わらないでほしい。
「じゃあ、テオくんとか?」
にこにこと提案してくるテオを見て、エルナは気付いた。
楽しんでいるのだ、妹をからかって。
「……では、テオさんと呼ばせていただきます」
口調は丁寧に、しかし少し睨むようにして妥協案を告げる。
エルナにかまって遊んでないで、しっかり仕事をしてほしい。
「じゃあ、それで」
意図は伝わったらしく、少しだけバツの悪そうな表情を浮かべる。
だが、ちっとも反省していないのが次の言葉で分かった。
「ところでエルナ。こちらは、俺が護衛しているグラナート殿下だ」
――この兄、本当に馬鹿じゃないのか。
エルナはテオを睨みつけるが、サッと入れ替わるように王子を前に押し出した。
淡い金髪の『虹色パラダイス』のパッケージ通りの姿。
その麗しい姿を見たエルナは、慌てて礼をした。
「エルナ・ノイマンと申します」
「顔を上げてください。僕はグラナート・ヘルツです」
優しい声に顔を上げると、グラナートの顔がそこにあった。
パッケージと違って、今は濃い赤の美しい柘榴石の瞳がはっきりと見えている。
さすがメイン攻略対象だけあって、ほれぼれするほどの整った美しい顔立ち。
これぞ麗しの王子様、という感じである。
「テオと知り合いなんですね。彼にはよくしてもらっています」
テオとエルナの関係を知っているなら、これは挨拶なのだろうか。
それとも、こちらもからかっているのか。
「いえ。テオさんとは、以前に少しご挨拶させていただいただけです」
王子がどこまで知っているのかエルナにはわからないので、当たり障りなく答える。
……多分、ただの社交辞令だ。
『いつもお世話になっています』というやつだ。
本当はお世話になっていないやつだ。
嫌味を言われる筋合いはないが、嫌味だとしたら受け流そう。
もしかしたら天然ふわふわ王子で、何も知らされていない可能性だってある。
そう思えば、多少の妙な言い回しも気にならなくなる。
「……では、僕も挨拶をしたから、これからはグラナートさんと呼んでもらえますか?」
「は?」
思わず絶句する。
テオも驚いた顔をしているので、普段からそんなことを言う人ではないのだろう。
「恐れながら、殿下にそのような失礼をするわけにはいきません」
そう言いながら頭を下げ、早く連れて行けとテオに視線を送る。
日本の特撮怪獣だとしたら、目からビームが出る視線の強さだ。
……というか、特撮なんて言葉を覚えているくらいなら『虹色パラダイス』の話を思い出したい。
「殿下、そろそろ席に着かないと」
「そうですか」
テオに促され、グラナートが立ち去る。
……どっと疲れた。
先程の言葉は、一体何だったのだろう。
朝から疲れることばかりだなと思いながら、席に着く。
そこでようやく、周囲のもの言いたげな視線に気が付いた。
ふと目が合った令嬢は、数人でエルナの所に集まったかと思うと、少しばかり固い笑みを浮かべた。
「今、殿下とテオ様とお話ししていましたわよね」
「お二人と知り合いですの?」
興味津々と顔中に書いてある。
これは、空気となって過ごせるかどうか、大事な局面だ。
エルナは自然と背筋を伸ばした。
「私の父とベルクマン男爵がちょっとした知り合いらしくて。以前に少しだけご挨拶したことがあるんです」
「まあ、そうですの」
「ええ、律儀にも覚えていてくださったみたいで。本当に律儀な方で驚きました」
律儀、大事なので二回言いました。
テオは律儀だから声をかけただけで、何にもありませんよというアピールをする。
「テオ様は紳士でいらっしゃるのね」
実際は妹をからかって遊ぶ駄目兄です。だが、もちろんエルナはただ笑みを返す。
「けれど、そのせいで殿下にお時間をとらせてしまいましたので、お詫びをしていたのです」
「殿下は優しくていらっしゃるから、大丈夫ですわ」
「ええ、そうですわ。よろしかったわね」
自分の知り合いを誇るような言い方だが、多分違うのだろう。
どうやら王子と護衛に好意を持っていそうなので、自分はまったく関係ないし興味ないよと伝わるといいのだが。
ここで念の為、もう一押ししておこう。
「私は田舎育ちですから、ああいう方々とお話しするのは慣れません。早く領地に帰りたいです」
「まあ。領地はどちら?」
「ノイマン子爵領です。王都のずっと東の端くれの、小さな田舎です」
端とか田舎という言葉に、目に見えて令嬢の表情が明るくなる。
そういう序列が好きなのだろう。
そして、彼女達の中でエルナは無事、下に位置づけされたようだ。
「東の方は気候もいいと聞きますわ。早く戻れるとよろしいわね」
「ええ、ありがとうございます」
それは、さっさと落第しろと同じ意味の言葉だ。
そこそこ失礼ではあるが、エルナの目標はその落第からの学園離脱なので何も問題なかった。
得た答えに満足したらしい令嬢達が、それぞれの席に戻っていく。
「どこの世界も、女は面倒くさいですね」
令嬢達の後姿を見送りながら、エルナはそっと呟いた。