僕の願い
「エルナ様! 気が付いたんですね」
重い瞼を開くと、リリーとアデリナの顔が見えた。
目覚めの光景としては、記憶の中でも一二を争う美しさだ。
ここが天国だと言われても納得するだろうな、とぼんやり考える。
ゆっくりと視界が広がり、ベッドに横になっている自分に気付く。
たぶん、ここはアインス宮――グラナートの宮だ。
調度の類に見覚えがあるし、間違いないだろう。
何だか、定期的に倒れてはここにきている気がする。
頑丈が取り柄の田舎育ちだというのに、情けない話だ。
見れば、二人共疲れた表情をしている。
特にリリーはやつれていて、華やかな美貌がくすんでしまうほどだ。
何故だろうと考えて、そう言えばエルナは切りつけられたのだと思い出す。
切られたはずの腕を触ってみると、違和感こそあるが傷はなくなっていた。
「リリーさんが治癒の魔法を使ってくれたんですね。ありがとうございます」
リリーのやつれ方は、魔力の消耗のせいだろうか。
だとしたら、エルナが思っている以上に深い傷だったのかもしれない。
エルナが礼を言うと、リリーの紅水晶の瞳に涙が溢れる。
「良かった。目が覚めて良かったです、エルナ様……」
リリーは泣き出すと、エルナに縋りつく。
「エルナさんの代わりはいないと言いましたのに。何故、無茶をしたのですか……!」
言葉の響きこそ責めるようだが、アデリナもまだ涙ぐんでいた。
「傷は治しましたが、深かった分だけ出血が多いです。それに、刃に毒が塗られていたみたいで。……体温も低いですし、顔色も悪くて。目が覚めなかったら、どうしようかと……」
そう言って涙を拭うと、リリーは険しい表情に変わる。
「私の魔法はあくまでも治癒だけです。解毒はできません。今、王宮の医師達が調べているそうなので、それを待つしかありません」
「だから、無理をしてはいけませんわ」
確かに、手足は冷えているし、体はだるい。
ぼうっとして、考えがまとまらない。
出血が多かったというのなら、そのせいもあるのだろう。
「エルナ、目が覚めたのか!」
「テオ兄様」
扉を開けて入って来た兄の姿を見て、エルナはほっと息をつく。
テオドールはエルナの枕元まで来ると、そっと頭を撫でた。
「意識が戻ったなら、殿下を呼んでくるから、待っていろ」
「忙しいのでしょう? すぐに来なくても、私は大丈夫ですよ」
襲撃者が少なくとも二人いたのだから、その対応だけでも大変だろう。
グラナートの負担にはなりたくない。
だが、テオドールはため息をついて首を振った。
「……殿下が壊れる前に、会って安心させてやれ」
グラナートと交代するように、リリーとアデリナが退室する。
特にリリーは疲労が強いので、少し休める部屋に移動するらしい。
姿を見せたグラナートは顔色が悪く、魔力が落ち着いていないのがエルナにすらわかった。
以前、エルナがならず者に襲われた時に、恐怖すら感じたグラナートの魔力。
あれが彼の中で渦巻いていて、それを無理矢理抑え込んでいるように見えた。
『壊れる前に』の意味が、わかった気がする。
こんなに不安定なグラナートを見たことがなかった。
グラナートはゆっくりとエルナのそばに来ると、そっと手を握る。
エルナの手も血の気が引いて冷たいのだが、グラナートも同じくらい冷たい手だ。
どうにか温めようと両手で包み込むと、その手を更に重ねられた。
「痛みや、つらいところはありませんか?」
「はい。リリーさんのおかげで、大丈夫です」
エルナの答えを聞いても、まだグラナートの表情は硬い。
「殿下こそ、大丈夫ですか?」
「……たぶん、駄目です」
微かに笑うと、エルナの頭を抱えるように、そっと抱きしめる。
「――あなたを、失うかと思った」
呟くグラナートの手は、震えている。
心配をかけたのだ。
それが痛いほどわかって、心から申し訳なくなる。
「……すみませんでした」
グラナートは暫しエルナを抱きしめたまま、頭を撫でる。
「許しません」
そう言って離れた時には、笑う顔色はだいぶ良くなっていた。
何よりも、不安定だった魔力がだいぶ落ち着いたようだった。
「……エルナさんに使われた毒が何なのか、まだわかっていません。ただ体温の低下が著しいので、それで命を奪うものかもしれないそうです。――のんびりと解毒薬を待っている時間はありません」
じっと話を聞くエルナの前で、グラナートは懐から小さなナイフを取り出した。
「この刃先には、先ほどの短剣の毒が付着しています」
そう言いながら腕まくりをすると、そのまま自身の腕を切りつけた。
「――で、殿下!」
エルナは慌てて起きようとするが、酷い眩暈に襲われて起き上がれず、ベッドに倒れこむ。
なんて情けないのだろうと悔しさがこみ上げる。
必死に目を開けると、グラナートがエルナの頬に触れた。
心配そうなその表情に、エルナの方が泣きそうになってしまう。
腕の傷は決して深くはなさそうだが、血が滲んできている。
毒が付着していたのなら、体に取り込まれてしまう。
さっき、グラナートは『命を奪う』と言った。
『何の毒かわからない』とも。
エルナは血の気が引いていくのを感じた。
このままでは、グラナートは毒で命を落とす。
それは、駄目だ。
そんなのは、駄目だ。
毒なんて、いらない。
――そんなもの、なくなればいい。
心の底からそう願った瞬間、ふわりと真綿に包まれたような気がした。
優しい何かに、体が温かくなっていくのがわかる。
「――こんなに近くで虹色の光が浮かぶのを見たのは初めてですが。……綺麗ですね」
「……殿下?」
エルナの頬に触れたまま、グラナートは優しく微笑む。
「このナイフに、毒はありません」
「え?」
「エルナさんに解毒薬が間に合いそうにない以上、聖なる魔力で浄化するのが一番早い。ですが、エルナさんは力を抑制しているので使えないでしょう。使えるのなら、今現在、毒に侵されたままでいるはずがない」
グラナートはハンカチを取り出すと、自身の傷の止血をする。
やはりそれほど深くないらしく、すぐに血は止まった。
「考えたのですが、抑制のきっかけになったのは僕ではないかと。聖なる魔力を使って、僕が倒れてしまったから。……だったら、僕を助けるためになら抑制を解除するかもしれない」
それで、毒を受けたふりをしたのか。
わざわざ腕を傷つけてまで。
呆然としているエルナの頬を、グラナートがそっと撫でる。
「顔色が、良くなりましたね」
そう言われてみれば、確かに体が温かくなって、だるさが軽減している。
本当に聖なる魔力で浄化したということか。
「――な、なんてことをするんですか」
「あなたは、自分のためには聖なる魔力を使わなかった。でも、うぬぼれていると言われるかもしれませんが、僕のためになら使ってくれるかと思いまして。……これしか、解毒する方法を思いつかなかったんです」
「そんな。聖なる魔力を使えなかったらどうするつもりだったんですか。ただの傷だって、炎症でも起こせば大変なのに」
「あなたを毒に奪われるくらいなら、こんな傷はどうでも良いです。……ああ、でもテオには内緒にしてくださいね」
エルナが必死に訴えるが、グラナートはまったく意に介していないようだった。
「エルナさん。あなたの力は、何よりもあなた自身を守るために使ってください。それが僕の願いであり、僕の身を守ることにもなります」
聖なる魔力で、グラナートは倒れた。
だが、その力でエルナが助かることを、彼は望んだのだ。
迷惑をかけるだけではないというのなら……グラナートがそれを望むのなら。
聖なる魔力を使うことは、悪い事ではないのかもしれない。
「……わかりました。殿下を守るために、この力を自分にも使うよう、努力します」
「僕も、あなたが二度とこんな目に遭わぬよう、努力します。だから、どうか。……あまり心配させないでください」
そう言って微笑むと、エルナの頭を優しく撫でた。










