ちゃんとした嫌がらせです
「……これは、ばっちり濡れましたねえ」
エルナは水が滴る前髪をかき分けると、感嘆のため息をこぼす。
初対面で王太子妃を辞退しろと言ってきたアンジェラは、ある意味期待通りの嫌がらせをしてきた。
田舎貴族と罵られ、足をかけられては転び、泥水を制服にかけられ、教科書がいくつかなくなっていた。
こんな定型の嫌がらせをされる日が来るとは。
――エルナは何だか興奮してきた。
以前、グラナートに『名前を呼んでくれ攻撃』をされていた時に、令嬢達に嫌がらせっぽいものをされていたことがある。
だが、聖なる魔力が悪意を中和するおかげで、どれもこれも嫌がらせというには疑問の残る所業だった。
それが、今回はどうだ。
ちゃんと転んだし、泥水で汚れたし、教科書もどこかに行っている。
嫌味だって、あの時の比ではない。
なんだか新鮮で、エルナは楽しくなっていた。
妃教育に抑制に王女が来た、と難しい問題ばかりで疲れたというのもあるのだろう。
わかりやすい悪意にわかりやすい嫌がらせは、逆にちょっとした癒しになっていた。
徹夜続きで気分が高揚するのに近いかもしれない。
嫌がらせハイ状態である。
次は何が来るのだろうと、もはやわくわくしながら待っているエルナ。
それを見て、アデリナとリリーは怒り、呆れていた。
「大人しく嫌がらせを受ける必要なんてありませんのよ?」
「そうですよ。報復しても良いくらいです」
中庭のベンチで休憩をしていたのだが、アデリナは腰に手を当てて仁王立ちし、リリーはエルナの制服の上着を拭いている。
いつの間にか、制服の上着に鳥の糞のようなものが落とされていたのだ。
「えー、だって、何だか面白くて。それに、この鳥の糞のようなものも、凄くないですか? わざわざ私のところまで持ってきたんですよ? どこからとって来て、どうやって運んだのでしょう。普通に空気に触れていたら乾燥しますよね? ということは、密閉するか湿度調整して運んだのではないでしょうか。手間暇かかってますよねえ」
笑顔のエルナに、二人はため息をついた。
「エルナ様は以前から結構アレでしたけれど。最近落ち着いたようでしたが……やっぱりアレですねえ。……ちょっと上着を脱いでもらえますか? 拭いても落ちないので、洗ってきます」
「え、いいですよ。自分で洗いますよ?」
「いいえ、こういう汚れにはコツがあるんです。任せてください」
リリーは颯爽とエルナの上着を持って行ってしまう。
鳥の糞付きの上着を持っていても麗しいのだから、さすがである。
「落ち込んでいるよりはマシですけれど。……そういえば、殿下には勿論伝えていますわよね?」
「いいえ? 特に困っていないので」
「言っていないのですか!」
アデリナは頭を抱えると、首を振った。
「もう! わたくしが殿下に報告しますわ。エルナさんはリリーさんを待っていてくださいませ」
「えー、別にいいんですけど」
「待っていて、くださいませ!」
「……はあい」
アデリナの迫力に押されて返事をすると、エルナはぽつんとベンチで待つことになった。
そこに、バケツと共に大量の水が降ってきたのだ。
「こんなに完璧にバケツの水をかぶることなんて、そうそうないですよね。この量の水は重そうですけど、よく運んだものですね」
足元に転がるバケツを拾って検分すると、エルナはうなずく。
誰でも使用可能な、備品のバケツだ。
もともとここにあったと言っても問題ない。
あからさまな証拠を残さぬようにしているのは、ポイントが高い。
さすがは王女、とエルナは感心した。
「それにしても、水をかけてどうするんでしょうか。泣いてほしいのでしょうか」
そう言えば、以前リリーとそんな話をしたことがある。
『覚悟なんて必要ないんですよ。自分が正しくて相手が悪いんですから。あの人達にとっては、攻撃ではなくて正当な是正なんですよ』
「なるほど。これで悔い改めろという事ですか。では、あちらの望む状態になるまでは続くという事ですね」
それはそれで面白い気もするが、あまりエスカレートして危険なものになるのは、さすがに困る。
制服のワンピースの裾を絞りながら、どうしたものか考えていると、人影が近付いてきた。
「あら、田舎貴族の方は、こんなところで水浴びですか? はしたないわね。王太子妃にはふさわしくないわ」
おそらく様子を窺っていたであろうアンジェラが、護衛と思われる男性と共にエルナの前に立った。
「井戸からここまで遠いのに、お疲れさまでした。この量のお水は、かなり重かったですよね?」
「な、何の話」
「はい。そこそこ重かったです」
「ルカ、何を言っているの!」
黒髪に紅玉髄の瞳の青年を、アンジェラが叱りつける。
ルカと呼ばれた青年は、どうやらアンジェラの嫌がらせに乗り気ではないらしい。
「それと、明日使うので、教科書の在処を教えてもらえるとありがたいんですけど」
「いやね、何の話かしら」
「それでしたら、既に戻しておきましたので大丈夫です」
「あら、ありがとうございます」
「――ルカ!」
再び、アンジェラが叱りつけるが、ルカはまったく気にしていない様子だ。
「私のために手間暇かけてもらって申し訳ないのですけど。王太子妃の件は私の一存ではどうしようもないので、殿下にご相談くださいね」
濡れて濃さを増した灰色の髪を絞りながら微笑むと、アンジェラは眉をひそめた。
「随分と余裕があるみたいね。グラナート様に捨てられない自信があるってことかしら」
「いいえ。嫌がらせが面白かっただけで、別に余裕があるわけではありませんよ。殿下の心が変われば、私ではどうしようもありませんし」
「どういうことよ」
「私は田舎の子爵令嬢ですし、特に美しいわけでもなく、特に優秀というわけでもありません。王女の言っていた通りですから」
アデリナは『王太子を支えるのが妃』と言っていたが、それを判断するのは結局グラナートだ。
エルナにできることなど、たかが知れていた。
「だから、私ができることをしているだけです。後悔はしたくないので」
「……私が嫌がらせをしているのはわかっているんでしょう?」
「はい」
即答すると、アンジェラは一瞬言葉に詰まる。
あれだけわかりやすくて、ばれていないと思っていたのだろうか。
抜けているところは、ちょっと可愛いかもしれない。
「グラナート様には言っていないの?」
「はい」
「何故?」
「何故と言われましても。新鮮で面白かったというのが一番ですが。……殿下に無用な心配をかけたくありませんでしたし」
「――エルナさん!」
突然かけられた声に見てみれば、グラナートがこちらに向かって走ってきた。
アデリナの姿は見えないが、多分、彼女なりの速度で走っている最中なのだろう。
「それは、どうしたんですか?」
ずぶ濡れのエルナを見て、グラナートの表情が曇る。
アデリナの話を聞いたのなら、この状況は容易く読み取れるだろう。
アンジェラの顔色が青くなるのがエルナにもわかった。
「……バケツをひっくり返してしまいました。びっくりですね」
「――は?」
グラナートだけでなく、アンジェラまで声を出した。
「ですから、バケツに水を入れて運んでみたんですけど、ひっくり返してしまいました。着替えは持っていないので、このまま帰ろうと思います。それでは、さようなら」
深々とお辞儀をして歩き出すと、呆気にとられたグラナートが慌てて追いかけてくる。
「待ってください」
グラナートはエルナの進路を阻むように立つと、手を掴む。
「このまま帰れば風邪をひきます。とりあえず、こちらへ」
「大丈夫ですよ。私、頑丈なので」
「……この場で僕に制服を脱がされたくなければ、黙ってついてきてください」
「え」
グラナートとは思えぬ台詞に、エルナも言葉が出ない。
どうやらかなり怒っているらしいグラナートは、そう言うとエルナの手を引いて歩き出した。










