すみませんでした
「すみませんでした」
エルナはうなだれていた。
ちょっとした悪戯のつもりだったのだ。
名前を呼んだだけで、魔力の質がわかるというから。
かつて「名前を呼んでくれ」と執拗に迫られていたから。
聖なる魔力で浮かされるという話を聞いたから。
ちょっとフルネームを呼んでみよう、と思い立ったのだ。
聖なる魔力を込められるような気がしたから、やってみたのだ。
『グラナート・ヘルツ殿下。――あなたが、好きです』
グラナートの目が、これ以上ないというくらい見開かれた。
――次の瞬間。
グラナートは意識を失って倒れこんだ。
「……え?」
ベッドの横に崩れ落ちたグラナートを、エルナは呆然と見る。
「で、殿下?」
床に倒れたグラナートは返事をせず、微動だにしない。
やがて事態を理解したエルナは、グラナートを助けるためにベッドから下りようとする。
だが、ふらついてしまい、エルナ自身もベッドから滑り落ちて床に転がった。
これでは、とてもグラナートを持ち上げることなどできない。
「誰か! 誰かいますか? テオ兄様!」
必死の叫びが通じたのか、テオドールが勢いよく扉を開いて姿を見せた。
ベッドのそばに倒れて意識を失うグラナートと、同じく床に座り込んでいるエルナを見て、テオドールは眉を顰める。
「殿下? エルナ、いったい何が」
「わからないけど、急に倒れて」
テオドールは素早くグラナートを起こすと、ソファに横たえる。
とりあえず外傷はなさそうだし、苦しそうでもないことにエルナは安堵する。
「それで、何が――おまえ、それ」
テオドールが驚愕の表情でエルナを見る。
「え?」
「そのせいか……」
「テオ兄様?」
テオドールは大きなため息をつくと、首を振った。
「水の蛋白石。随分と盛大に輝いてるぞ」
「つまり、聖なる魔力を込めて、殿下のフルネームを呼んだ、と」
「はい」
「殿下は名前を呼ばれるだけでも魔力の質がわかるのに、更に上乗せしたわけだ」
「……はい」
「その水の蛋白石の輝きからすると、聖なる魔力も相当使われてる」
「すみません」
「なのに、聖なる魔力に浮かされないよう頑張れと言って……こうなったのか」
「……すみませんでした」
安易に悪戯などしなければよかった。
今更後悔しても遅いが、浅はかな考えだった。
「すみませんでした。もう、しません。殿下の名前も呼びません。もう、二度と呼びません」
がっくりとうなだれる。
こんなことになるなら、グラナートの負担になるのなら。
名前など呼ばなければよかった。
聖なる魔力など、使うべきではなかった。
グラナートに害を与えてしまった。
エルナの聖なる魔力のせいだ。
安易に使うべきではなかったのだ。
後悔と情けなさで泣きそうだ。
「いや、それはそれで困るというか。俺が怒られるから、やめてほしいというか」
「もう家に帰ります。殿下には近付きません。すみませんでした」
涙をこらえながらよろよろと扉に向かうと、テオドールが慌ててエルナを止める。
「いや、待て待て。まだ聖なる魔力を使って倒れたばかりなんだから、少し休まないと」
「わかりました。領地でしばらく休みます。殿下には近付きません。すみませんでした」
扉に手をかけるが、ふらついているのでなかなか開けられない。
それすらも情けなくて、いよいよ涙がこぼれてきた。
「わかった。俺の言い方も悪かった。きっと、聖なる魔力の使いすぎで疲れてるから、おかしいんだ。だから、泣くな。行くな」
完全に泣く子をあやす状態のテオドールになだめられ、ベッドに連れ戻される。
横になってしまえば、疲労から瞼が自然とおりてくる。
そんな自分も情けなくて、涙をこぼしながら眠りについた。
目を開けると、既に日は落ちて薄暗くなっていた。
エルナはベッドから下りると、用意されていた水を一口飲む。
今から王宮を出てノイマン邸に着く頃には、すっかり暗くなってしまうだろう。
少しでも急いだほうが良いと思い、扉に手をかけ、廊下に出る。
以前に一度来たことがあるので、何となく方向はわかるのが救いだ。
「エルナ? どこに行くつもりだ」
背後からかけられた兄の声に構わず、エルナは歩き出す。
「帰ります」
「帰るって、今からか。もう暗くなるだろう。それに、まだ休まないと」
すぐに追いついたテオドールが、エルナの隣を歩く。
「大丈夫です。帰ります」
「――エルナさん」
その声に、エルナは足を止める。
振り返れば、グラナートが困ったように笑っていた。
「エルナさん、少し話をしましょうか」
「すみませんでした」
結局部屋に連れ戻されたエルナは、グラナートがソファに座るなり頭を下げた。
「考えが足りませんでした。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、それはもう大丈夫です」
そう言うグラナートは疲労の色を隠せていない。
やはり、聖なる魔力で相当疲弊したのだろう。
すべて、エルナが悪い。
「もう殿下の名前は呼びません。殿下には近付きません。しばらく領地で休みます。だから、帰ります」
自分で言っていて、情けなくてまた泣きそうになってくる。
うなだれるエルナを見て、グラナートはため息をついた。
「……聞いていた以上なんですが。テオ、どれだけエルナさんを責めたんですか」
グラナートがじろりと睨む。
「いや、そんなに酷くはないと」
「テオ兄様は悪くありません。私が全部悪いんです。これ以上ここにいても、ご迷惑をかけるだけです。私、帰ります」
「いや、待て待て。頼むから」
ソファから立ち上がろうとするエルナを、テオドールが押しとどめる。
何故テオドールは帰らせてくれないのだろう。
それすらも悲しくなって、視界がにじむ。
自分でも、何故こんなに涙腺が緩いのかわからない。
普段の自分と違うというのは、ぼんやり感じる。
だが、何だか悲しくて、情けなくて、何も考えられない。
「だから、泣くなって。いや、殿下? 違いますよ、違いますからね? さっき説明したでしょう。聖なる魔力の反動が」
「……もうわかりました。テオは少し下がってください」
テオドールが退室して二人きりになると、グラナートがため息をついた。
「僕が倒れてしまったせいで、エルナさんにも迷惑をかけてしまいましたね」
「いえ。悪いのは私です。もう殿下の名前は呼びません。すみませんでした」
エルナは深々と頭を下げる。
なんなら土下座したいくらい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「それは困りますね」
「はい?」
グラナートが苦笑する。
「僕の名前を呼ばなくて、近付かなくて、領地に帰るのでしょう? それは、困ります」
「でも」
「毎回、聖なる魔力込みだと、ちょっと大変ですが……名前は呼んでほしいです。そばにいてほしい。領地に行ってしまったら簡単には会えない。寂しいから嫌です」
グラナートの言葉に、エルナはぽかんと口を開けてしまう。
「……本当はすぐに返事をしたかったんですけど」
「返事?」
「僕も、エルナさんが好きですよ」
『グラナート・ヘルツ殿下。――あなたが、好きです』
自分の言った言葉を思い出す。
返事って、あれの返事のことか。
思い至った途端、急激に恥ずかしさがやってきた。
何故、今言うのだろう。
謝罪とは関係ないではないか。
熱を持つ頬を押さえていると、グラナートが微笑む。
「もう一度、聞きたいのですが。僕の名前を呼んでくれますか?」
「でも」
「お願いします」
どうしようと悩んでいるうちに、いつの間にか涙が止まっていることに気付く。
気付けば、胸いっぱいに溢れていた、情けなくて悲しい気持ちも和らいでいた。
「……グラナート、殿下」
聖なる魔力を込めることのないように、細心の注意を払う。
間違っても、また倒れることのないように、慎重に。
グラナートは噛みしめるようにエルナの言葉を聞くと、優しく微笑んだ。
「うん。――やっぱり、僕はあなたが好きです」










