無用の長物とはこのことです
王都のノイマン子爵邸に戻ると、使用人二人が出迎えてくれた。
この王都の別邸は、基本的に長兄が王都に滞在するためのもの。
執事見習いを筆頭に、数人の使用人しかいない。
しかし、一応子爵家ではあるものの特別裕福ではない上に、田舎で自立して育てられたエルナとしては、使用人が少なくてもまったく問題はなかった。
日本の記憶が戻った今は、家事と炊事をお任せなんてありがたすぎるとさえ思う。
トイレットペーパーを買う日は手が塞がってしまうので、その日に向けて他の買い物を調整……なんてことをしなくて良いのだ。
ゴミ箱の臭いを気にして、ゴミの日に合わせて納豆を買う必要もない。
エブリデイ・納豆デイだ。
夢のようだ。
……ヘルツ王国に納豆はないけれど。
エルナ自身に仕えているのは、今のところ侍女のゾフィ一人だけ。
そのゾフィと、長兄の専属で執事見習いとしてこの別邸を取り仕切るフランツだが、なんだか笑顔が怖いのは気のせいか。
「た、ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、エルナ様。今日は入学式だけとお聞きしましたが、遅いお帰りですね」
ゾフィの笑顔が、どこに寄り道をしていたと言外に問いかけてくる。
「ええと、刺繍糸のお店を紹介してもらったので、ちょっと覗いてきました」
「王都の店に立ち寄ったのですか」
フランツが眉間に皺を寄せる。
「だ、大丈夫ですよ? ちゃんと私のお小遣いの中で買っていますから」
家の家計に迷惑はかけませんよ、とアピールしてみる。
「そういう意味ではなく……まあ、いいでしょう」
フランツがゾフィに視線を送ると、ゾフィはうなずいた。
これはあれか。
あとでしっかり説教しておけということだろうか。
早く刺繍したかったのだが、仕方ない。
「そうだ、フランツ。レオン兄様はいますか?」
まずは、学園生活が本格的に始まる前にテオドールの事を確認しておかなければいけない。
「レオンハルト様は外出中です」
ノイマン子爵代理として忙しい長兄だが、今日はさすがに話ができないと困る。
「テオ兄様のことで、お話があります」
「では、レオンハルト様がお戻りになりましたら、エルナ様にご連絡いたします」
この様子だと、どうやらフランツは事情を知っているらしい。
ここで聞いてみてもいいのだが、やめておこう。
どうせレオンハルトと話はしなければいけないし、新しい刺繍糸を早く使ってみたい気持ちもあった。
「わかりました。私は部屋に戻ります」
……というか、早く刺繍がしたかった。
入学式に行っただけのはずなのに、日本の記憶を取り戻したり、ヒロインに王子に兄まで色々なことがありすぎた。
ストレス解消と癒しを求めるのも仕方がないと思う。
だが、部屋に戻って刺繍糸を取り出してみたものの、モヤモヤして何だか気分が乗らない。
こんな時は別のことをしたほうがいい。
慌ただしくやり過ごしてしまったし、一度記憶を整理してみることにした。
エルナは日本の短大生で、一人暮らしをしていた。
名前や正確な年齢など、自分に関することはどれも曖昧でほとんど思い出せない。
唯一と言っていいハッキリとした記憶が、『虹色パラダイス』という名前の乙女ゲームがあったということ。
エルナ自身は、そのゲームをプレイしたことはないこと。
パッケージを見たことはあり、友人から内容を聞いたことがあるということだ。
「どれも、曖昧ですねえ」
ゾフィが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ため息をつく。
それでも、この世界が『虹色パラダイス』の可能性が高い以上、情報はあった方がいいだろう。
エルナは懸命に脳の奥の記憶を手繰り寄せる。
パッケージは白い鐘楼を背景に、金髪の男性が微笑んで手を差し伸べているものだった。
裏面にも誰も描かれず、建物などの背景と文字だけだったと思う。
白い鐘楼は学園にあったものと一致していた。
かなり特徴的な意匠だったので、間違いないだろう。
淡い金髪と顔立ちからして、第二王子のグラナートがパッケージの男性と思っていいはずだ。
『グラナートの赤』と呼ばれるくらいなのだから、濃い赤の瞳なのだろう。
パッケージでは目を細めていたので、瞳の色はわかりづらかった。
クラスで見かけた時も瞳までは見ていないが、三十九番の赤と同じ美しい色なら少し見てみたい気もする。
「いえ。そんなに接近しない方がいいですよね。やめておきましょう」
好奇心は身を滅ぼしかねない。
今は安全第一で避けるべきだろう。
あとは、ヒロインは虹色の髪だということ。
どう虹色なのかはわからなかったけれど、実際に明らかにレインボーな髪の毛の女の子が一人だけいた。
平民で、並々ならぬ魔力持ちで、美少女で、入学早々王子に突っ込んで転んでいる。
これでリリー以外がヒロインだとは、とても思えない。
あとはもう、本当に断片的なプレイ内容を話された記憶しかない。
うんうんと唸りながら、どうにか友人の言葉を思い出そうとする。
「入学式で王子と出会うんだけど、やっぱり格好いいわ」
「クラスで浮いている描写とか、いやがらせとか、妙にリアルで疲れた。こうなると最後にスカッと断罪イベントが欲しい」
「魔力とか言っているけど、ほぼ魔法使えないんだけど。どう思う? 聖女ルートだと、魔法が出てくるけどさ」
「パッケージに他のキャラも入れてほしいけど、王子だけでいい気もする、この矛盾」
「誘拐とか、ありがちな展開よね。まあ、記憶喪失とか実は高貴な生まれとか言い出さないからそれぐらいはいいか。いや、言い出してもいいけどね。好きだけどね」
「むしろ、ヒロインに惚れるんだけど。男前」
「もう少しで王子ルートクリアだわ。さみしいから、もう一回最初からやろうかな」
「今日の講義の課題、やってきた?」
「お昼、学食のサンマーメンを今日こそ食べてみようと思う」
――限界だ。頭がぐるぐるしてきた。
座っていても目が回り、エルナはテーブルに突っ伏した。
「気持ち悪い……」
感想というか、愚痴が多い。
しかも、最後のほうはゲームと関係なくなってきている。
何度か挑戦してみるが、これ以上ゲームに関する記憶は思い出せなかった。
ゲームはおろか、自分や友人の名前も姿かたちもわからない。
乙女ゲームに転生というものは、プレイした記憶を頼りに改変したり無双するものなのかと思っていたけれど、現実は甘くない。
記憶がさっぱり役に立たない。
無用の長物とはこのことだ。
こんなに半端な記憶なら、いっそ無い方が心穏やかに過ごせたのに。
「うわ、美男美女が集うクラスだ。目が癒されるわ」とか言って、むしろ楽しかっただろうに。
エルナは深いため息をついた。
とりあえず思い出したことをメモすると、紅茶の残りを一気に飲み干した。
「エルナ様? まあ、顔色が優れませんね。横になりますか?」
ちょうど部屋に入ってきたゾフィが、慌ててエルナの額に触れる。
「熱はないようですが、お疲れなのかもしれませんね」
確かに、色々なことがあって疲れているのは確かだったが、説明できない。
「大丈夫です。レオン兄様が戻ったのでしょう?」
ゾフィはうなずくが、心配そうだ。
ここがゲームの世界だったとしても、エルナが生きていることに違いはない。
レオンハルトと話すことが、まずは平穏な学園生活への第一歩なのだ。