どうやら、寂しいみたいです
その後、どうやって屋敷に帰ってきたか思い出せない。
エルナはふわふわとした足取りのまま、自室に入ると椅子に腰かけた。
ゾフィが淹れてくれた紅茶が、テーブルの上で良い香りを放っている。
それを飲もうとカップに手を伸ばして、制服の袖が濡れているのに気が付いた。
「……私、泣いているの?」
いつの間にか瞳に溜まったそれは、ぽろぽろと零れ落ちて丸い染みを作る。
ハンカチで拭こうとポケットを探ると、厚紙のような硬さのハンカチを見つける。
領地で魔力の制御の練習として作ったものだ。
分厚くて硬いので、涙を拭くというよりは吸い込ませる形になる。
日本で見たオムツのコマーシャルみたいだなと思うと、何だか滑稽で、エルナは少しだけ笑った。
どうやら、グラナートに視線を逸らされたのが思った以上にショックだったらしい。
涙を一通り吸い込ませると、湿った厚紙状態のハンカチをぎゅっと握りしめる。
危険な場所なのにリリーを連れて行ったのは、何故だろう。
エルナは役に立たないから、連れて行かなかったとして。
優秀なリリーは役に立つからだろうか。
それとも、愛しいリリーと離れたくないからか。
あの告白は悪役令嬢としての下地作りだっただけで、「それでもリリーが大切」というイベントになるのかもしれない。
「……それは、寂しいです」
自分が呟いた言葉に、エルナは驚いた。
そうか、寂しいのだ。
喉元でつかえていた何かが、すっと取れた気がした。
グラナートとアデリナの婚約話を聞いた時、身分に容姿に影響力のすべての面でアデリナと婚約する方がいいと感じた。
同時に、テオが好きなのだからアデリナがかわいそうだとも思った。
でも、きっとそれだけじゃない。
そこには、だからアデリナと婚約しないでくれればいいという心も、潜んでいたのではないか。
グラナートは、エルナを大切にしたいと言ってくれた。
たとえ今の気持ちがリリーに向いていて、最終的にリリーと結ばれるとしても、あの時の言葉を疑うのは少し違う。
「ちゃんと、殿下に向き合わないと」
エルナが行ったところで、邪魔なのはわかっている。
これは、自分勝手なわがままだ。
でも、きっとこのままでは後悔する。
エルナは握った厚紙ハンカチをポケットに押し込むと、部屋を飛び出した。
「レオン兄様。ブルート王国の兵が攻めてきている場所に行きたいです。どこだか教えてください」
「はあ?」
レオンハルトの部屋の扉を開くや否や、エルナは駆け込んだ。
「王都の外れらしいのですが、詳しい場所がわかりません。レオン兄様はわかるんですよね?」
きっと、テオドールが連絡を入れているはずだ。
だからこそ、レオンハルトのそばから離れるなと言っていたに違いない。
「危険だから駄目だよ。万が一を考えれば、屋敷からも出ないでほしいくらいだ」
「……わかりました。走って探します」
田舎育ちで良かった。隣町までくらいなら問題なく走れる。
果たしてそれで現場に到着できるのかはわからないし、そもそも時間がかかりすぎるが……それでも行かないという選択肢はエルナの中に存在しなかった。
「ま、まてまて」
踵を返して部屋を出ようとすると、レオンハルトが慌てて腕を掴んで止める。
「……わかったよ。おまえもあの母さんの娘だもんな。言ったら聞かないよな」
しぶしぶと言った表情で、レオンハルトはため息をついた。
「ただし、俺も行く」
そう言うと、机の下から簡素な飾りの剣を一振り取り出す。
一つだけ付いている青い宝石は瑠璃だろうか。
レオンハルトの瞳と同じ、綺麗な青だ。
「――フランツ」
「お呼びでしょうか」
どこからともなく現れたフランツは、レオンハルトが手にする剣を見ると息を呑む。
「ザクレス公爵領から王領に入ってすぐの平原にいるはずだ。馬で移動する。用意を。ゾフィを呼んでくれ」
帯剣したレオンハルトに、エルナとゾフィが乗った馬が続く。
「ゾフィは、エルナを守ることだけを考えろ」
「かしこまりました」
エルナを前に乗せたゾフィもまた、細身の剣を帯剣している。
護身用にしては、妙に使い込まれている。
それに、乗馬ができるなんてエルナも初めて知った。
「エルナ様、しっかり掴まっていてくださいね」
「は、はい。あの、どうしてゾフィは馬に乗れるんですか? その剣も、急遽持ってきた感じじゃないですよね」
「ああ。……私は元々騎士なのです」
ゾフィが言うには、剣で名高いユリアの腕に惚れこんで弟子入りを懇願。
粘りに粘ったところ、娘の侍女を務めるならという条件でノイマン家にいることを許されたという。
「エルナ様のおそばにいるのが楽しいので、今は騎士に戻るつもりはありません」
つまり、エルナがならず者に襲われた時に男を倒していたのも、そういうことらしい。
「ゾフィは、とても強かったんですね」
長年そばに仕えてくれているが、初めて知った。
元騎士の戦える侍女なんて、なんだか格好良い。
腰に佩いた細身の剣も、騎士時代からの愛用品らしい。
「いえいえ、私など。雲の上の存在のレオンハルト様からすれば、ただの侍女でしかありません」
ただの侍女は、素手で男を倒せないと思うが。
テオドールが『剣豪と言っていい』というのだから、レオンハルトは強いらしい。
元騎士のゾフィも言うのなら、間違いないのだろう。
ふと、気になってゾフィに聞いてみる。
「……じゃあ、お母様は」
「ユリア様は異次元の生物ですので、比較のしようがございません」
乙女ゲームのヒロインのはずなのに、何故そうなるのだろう。









