聖なる魔力に浮かされるそうです
「プ!」
危うく紅茶を吹き出すところだった。
紅茶が変なところに入ったらしく、鼻の奥が痛い。
『浸透圧と温度が鼻粘膜と同じに調整された液体ならば痛みはない』という、役に立つようで立たない知識が脳裏に蘇った。
本当に、どうでもいい知識だけはすらすらと思い出せるものだ。
誰がそんなことをと言いかけて、テオドールしかいないとすぐに気づく。
こういう連絡だけは早いのかと悪態をつきたくなった。
「聖なる魔力を使った後は特に、魔力に浮かされる男がいるから気を付けるのよ」
「浮かされる?」
熱に浮かされるみたいなものだろうか。
「何だかねえ、あの魔力って凄く高揚するというか何というか。ちょっと特殊みたいなのよね。昔は私もそれで迷惑……いえ、色々あって。大体は半日もあれば問題ないんだけど、たまにしつこいのを粉砕……いえ、説得したりして」
端々に不穏な言葉があったが、聞かなかったことにする。
「殿下も、その影響でしょうか」
それなら、田舎貴族の平凡エルナにプロポーズしたのも納得できる。
「もしそうなら、とっくに効果が切れて撤回しているでしょう。別に魅了の魔法というわけじゃなくて、気分が高揚してうっかり大きなこと言っちゃうみたいだし。そもそも好意がなければいくら何でもプロポーズなんてしないわよ。しかも、王子が」
魔力の影響で酔いが回って躁状態と考えればいいのかもしれない。
……聖なる魔力とは、意外と物騒なものだ。
「私自身や女性は平気なんですか?」
「聖なる魔力を持っていれば平気じゃないかしら。テオドールは平気だったし」
ということは、テオドールはユリアが聖なる魔法を使うのを見たことがあるのか。
本家ヒロインの魔法なんて、何だか凄そうだ。
「女性は大丈夫なのよね。何故かしら? テオドールに聞いてみないと、性別が逆の場合はわからないけれど」
多分、それは乙女ゲームだからです。
ヒロインの魅力で男どもをノックアウトする都合だと思います。
真実を知っていても、言えないこともあるとエルナは知った。
「じゃあ、心にもないことは言わないんですね」
「なんで残念そうなの。……エルナは王子が嫌い?」
「いえ、別に嫌いではないです。特別好きでもないけど。……律儀で顔のいい王子様です」
言っていて自分でもどうかと思う評価だったが、ユリアはにこりと微笑んだ。
「あら、だったら大丈夫よ。嫌いじゃなくて、いいところが一つでもあって、好いてくれるなら、十分だわ」
「そうですか?」
「そうよ。マルセル様なんて、剣も魔力も体術もからっきし駄目よ。そこらの幼子にも負けるわ。性格も良くないし。背も高くないし。お金や地位が特別あるわけじゃない」
母の父への評価が散々だ。エルナは父のことを思うと胃が痛くなった。
「……でも、私をありのまま受け入れてくれて、大切にしてくれる。十分、幸せだわ」
心からの優しい笑顔は、本当に幸せなのだと雄弁に物語っていた。
素直にいいなあと思う。こんな風に想えるのなら、何があっても乗り越えられる気がする。
「王族はねえ、まあ、色々あるでしょうけど。エルナが幸せなら私はどっちでもいいの」
『今日の夕飯は肉じゃがでもカレーでも、どっちでもいいわ』位の軽い流され方だ。
「ど、どっちでもって……」
「王族入りしてもいいし、断るならそれでいいわ。家のことは心配ないわよ。文句は言わせないから」
どんなことがあってもあなたの味方よという、優しい言葉のはずだ。
だが、ユリアの背後の聖なる威圧光線が、イルミネーションのように瞬いているのが気になって仕方ない。
あの軽快なテンポの点滅は、どうも単純な意味ではない気がする。
文句は言わせないというのは父だけではなくて、国王やその周辺も含まれるのかもしれない。
怖くて確認できないので、うなずいて返答しておく。
「あの、聖なる魔力って、何なのでしょうか。私もお母様の力を受け継いでいると言われましたが」
「そうねえ。巷では七色の魔力とか、浄化の力とか言われているけど……私は、無効化だと思っているわ」
「無効化、ですか?」
「そう。自分に都合の悪いもの、不要なものを、無かったことにするの」
それは、まるでリセットボタンではないか。
自分の望む効果が得られなかったとき、やり直したい時に、ゲームをやり直すボタン。
さすがヒロイン、能力が異次元だ。
「そんなことが、できるんですか」
自分の魔力の使い方はおろか、存在すら疑問のエルナには考えられない。
「できるわよ。強く願って、それを力に変えるの」
迷いのないユリアの言葉に、これは自分には無理だと察する。
だって、エルナには自分の願いが力に変わると信じることができない。
強く願い、それを力に変えられるという自信。
これは鋼のメンタルと、それに見合うヒロイン補正を持つユリアだからこそ、扱えるものなのだろう。
「……私には、難しそうです」
「あら、でも刺繍したハンカチはしっかりと魔力を込めてあったわよ。まずはそれで制御の練習をしたら?」
なるほど。
確かに刺繍したハンカチが実際に呪いの魔力を消したのを見ているから、少しは自分の魔力というものを信用できる。
そこで、エルナはその日から刺繍ハンカチを作り続けた。
何をどうしたら魔力を込められるのかわからなかったので、とりあえず「世界平和、世界平和」と呟きながら刺繍をしてみた。
「誰が、聖なる爆弾を量産しろと言ったの。危ないから没収です」
早速、ユリアに怒られた。何がいけなかったのだろう。
仕方がないので、一つのハンカチに無心で刺繍し続けた。
何も考えずに刺し続けた結果、タオルハンカチを超える厚さのものが出来上がってしまった。
それでも、何となく限界に挑戦していたが、硬さで針が折れたところで止めた。
もはや、ハンカチというよりは厚紙と言った方がいいそれを、エルナはそっとしまった。









