清めのハンカチって、何なんですか
人のものを盗る、というのは何のことだろう。
側妃がグラナートを見る目には、明らかに敵意がある。
グラナートの母であるローゼ王妃に、何を盗られたと言っているのだろう。
『国王陛下には三人の子供がいます。第一王子スマラクト殿下、第一王女ペルレ殿下、第二王子グラナート殿下。そのうち、グラナート殿下だけが王妃の子供です』
リリーの言葉が脳裏に浮かぶ。
王妃の子供が第二王子ということは、側妃の方が先に子供を産んでいるのだ。
王妃と側妃が結婚した時期はエルナにはわからない。
だが、少なくとも先に世継ぎの王子を産んだのは側妃なのだ。
なのに、王妃が亡くなってもなお、側妃は側妃のまま。
世継ぎを産もうとも、ローゼが亡くなっても、側妃は正妻である王妃にはなれなかった。
そのことを、逆恨みしているのだろうか。
「自分がかつて王妃候補だったことを、まだ引きずっているのですか」
グラナートの言葉に、側妃の顔色が変わる。
「よくもそんなことが言えましたわね。もともと陛下は公爵家のわたくしと結婚するはずでした。王妃教育も受けておりましたし、魔力も十分でした。それを」
射殺せそうな強い視線をグラナートに向けて、側妃は叫ぶ。
「学園で、ローゼがザフィーア様をたぶらかしたのです。恋の相談に乗ってもらったなどと、卑怯な手を使って……!」
逆恨みだし、ありがちな話だ。
だが、それは外部の人間だからそう言えるのであって、当事者にとってそれは忘れることのできない衝撃なのだろう。
「わたくしが側妃などという立場に追いやられたのも、ローゼのせいですわ。わたくしが先に王子を産んだというのに、どこまでいっても、わたくしは二番目。すべて、ローゼが悪いのです」
「……だから、呪いの魔法を使ったのですか」
静かなグラナートの声。
エルナは彼の背後にいるので表情は窺えないが、ピリピリとした緊張が伝わってくる。
「あら、ご存知でしたの」
つまらなそうに息をつくと、側妃は肩をすくめる。
「初めは知りませんでしたが、ある日気付きましたの。ローゼを包む黒い影は、わたくしの魔力だと。自覚すれば扱うのは難しくありませんでしたわ」
「母が体調を崩し始めたのは、僕を産んでからだと聞いていますが」
「そうですね。その頃からわたくしの我慢は限界に近付いていましたから、魔力が溢れだしたのでしょうね」
こともなげに言っているが、それは嫉妬で魔力が呪いになったということだろうか。
公爵家の出だと側妃は言っていたから、その魔力量は相当なものだったはずだ。
「あなたが大きくなって、継承権の序列を考え直すという話がでてきたから、わたくしはローゼに言ったのです。これ以上、わたくしのものを奪うな、と。なのに、ローゼはぬけぬけと『何も盗っていない』と言ったのです!」
ギリギリと歯噛みしていた側妃は、手にしていた扇を床に叩きつける。
「だから、魔力をそのままぶつけましたの。……あっけないものでしたわ」
側妃が呪いの魔法を直接ぶつけた相手というのは、ローゼ王妃のことだったのか。
そして、多分、そのせいで王妃は。
――ああ、だからグラナートは言ったのだ。
『悪いものから守る、悪いものをはねのけるという話です。もしも……そんな力があるのなら、楽になれるかもしれませんね』
『そんな力を持つ人が伴侶だったら、危険が減ります。……少しは安心できますね』
あれは、呪いの魔法で母親を亡くしているから。
もし伴侶が狙われても呪いの魔法をはねのけられるのなら、安心できるということか。
また、失わずに済むのなら、気持ちが楽になると。
「ローゼは既に衰弱していましたから、死んでも誰も疑問には思いませんでした。ようやく、わたくしが王妃になるはずでしたのに。幼い第二王子を守るためと、王妃はローゼのままになったのです。この屈辱がわかりますか?」
嫉妬で人を呪い、呪いの魔法で殺めても、まったく罪の意識など存在しないらしい。
側妃にとっては、自分が王妃となることがすべてで、それを阻むものは敵なのだ。
「そして、忌々しいローゼの子であるあなたは、わたくしのスマラクトの地位を脅かそうとしている。……虹の聖女はわたくしのもの。スマラクトのものですわ」
ゆっくりと優雅に扇を拾うと、腕をぴんと伸ばして扇の先をグラナートに向ける。
途端に、扇の先の何もなかった空間から渦巻く突風が生まれ、グラナートめがけて直進した。
「殿下!」
腕を掴んで避けるよう促すと、グラナートは驚いた顔で振り向き、エルナに優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
グラナートはエルナに顔を向けたまま、反対の手を側妃の方へと伸ばす。
突風がグラナートに迫った瞬間に、それはあっという間に霧散した。
後に残された、行き場のない風がエルナの灰色の髪を揺らす。
「これでも王家直系ですからね。……心配してくれて、ありがとうございます」
「は、はい」
何が行われたのかエルナにはわからなかったが、どうやらグラナートには問題ないらしい。
高位貴族ほど魔力が高いというのは何度か聞いていたが、王家となると段違いのようだった。
「あら、この程度はできますのね。では、これならどうかしら」
側妃は手にした扇をくるりと一回転させると、再びグラナートに向ける。
先ほどと同じように突風が起こるものの、グラナートの手に触れることなく消え去る。
だが風は消えたのに、ゆらりと濁った空気のようなものが広がって迫ってくる。
モヤモヤとした何か。
あれは、よくないモノだ。
「殿下!」
「下がってください」
グラナートの腕が、エルナとモヤモヤとしたものを隔てる。
ふわりと包み込むように広がったものが二人に触れようとしたその時、グラナートが何かを掲げた。
その瞬間に、すっとモヤモヤは跡形もなく消え去る。
事態を飲み込めず目をしばたたかせるエルナとは対照的に、側妃は憎々し気にグラナートを睨みつけている。
「それは……! やはり、持っていましたのね」
「ええ。僕の大切な人がくれたものです」
何だろうと思って見てみれば、グラナートの手に握られていたのはハンカチのようだった。
「おかげで助けられました。『グリュック』の……僕の幸運のハンカチです」
大切そうに口づけるハンカチには、虹色の花の刺繍がしてあった。
あのデザインはリリーにあげたハンカチのもの。
そして、グラナートは今『僕の大切な人がくれた』と言った。
どうやら、リリーとグラナートの好感度はいつの間にか大幅アップしていたらしい。
リリーが照れ隠しで何とも思っていないと言っていたか、あるいは今のところグラナートの方がリリーに夢中ということか。
巷で清めのハンカチと噂になったらしいから、気休めでもとリリーが渡したのだろう。
リリーがグラナートにエルナの不在を伝えたのも、納得がいく。
恋愛なしでいくのかと思いきや、やはりヒロイン。
ようやく『虹色パラダイス』の正しいルートに戻ってきたようだ。










