番外編 アデリナ・ミーゼス 4
「……わたくし、いない方がよろしいですわよね?」
目の前で展開された『あーん』に、アデリナは少しばかり呆れながら呟く。
婚約者同士なのだから、好きなだけクッキーでも何でも食べさせあえばいい。
だが、それを見守る趣味はないので、勘弁してほしいものである。
「み、見られるのは恥ずかしいですけれど! アデリナ様もやるんですからね!」
エルナの殺傷力の高い一言に、アデリナの肩が少し震えた。
半ば八つ当たり気味に訴えるエルナの肩を、グラナートがトントンと叩く。
笑顔のグラナートの手には、当然のように林檎のクッキーが一枚握られている。
アデリナが婚約者候補だった頃には見たこともないような笑みで、楽しそうにエルナにクッキーを差し出していた。
「はい、エルナさん。あーん」
長年近くにいたアデリナでさえ怯むほどの麗しい微笑みと言葉に、どうやらエルナは敗北を喫したらしい
大人しく開かれたエルナの口にクッキーが入ったその時、執務室の扉が開いた。
黒髪の青年は黒曜石の瞳でじっとこちらを見たかと思うと、そのまま頭を下げる。
「……お邪魔しました」
「――ま、待ってください、テオ兄様っ!」
クッキーを口に入れたまま叫ぶという大変はしたない事態に、アデリナの眉が顰められる。
王太子妃教育を担う者として、友人として、これは注意しなければいけないところだ。
「いちゃつくなら、二人きりでお願いしますよ。……あれ、アデリナ嬢?」
いつの間にかクッキーを飲み込んだらしいエルナは、立ち上がると素早くテオドールをアデリナの隣に座らせた。
「さあ、今度はアデリナさんの番です!」
――まさかの、死刑宣告。
勢いよく告げられた言葉に、アデリナの肩が大きく震えた。
「……何の話だ?」
「リリーさんからの課題で、『あーん』をするらしいですよ」
グラナートの説明を聞いたテオドールにエルナがうなずく。
すると、テオドールは小さく息を吐いた。
「じゃあ、アデリナ嬢も俺に食べさせてくれるのか?」
本当は、逃げたい。
だがリリーと約束してしまっているし、エルナは既にそれを果たしている。
ミーゼス公爵令嬢として、かわされた約束を正当な理由なく反故にするなど矜持が許さない。
そもそも約束したつもりはなかったが、こうなったら言い逃れはできないだろう。
震えながら抱えていた紙袋を開けると、中に入っていた林檎を取り出す。
それを見た全員が、ぱちぱちと目を瞬かせた。
……言いたいことはわかる。
だが、アデリナだって好きで林檎を丸ごと持ってきたわけではない。
「だ、だって。エルナさんが、テオ様にはこれがいいって。よく食べているからって」
「いや、食べるけど……どういうことだ?」
エルナが経緯を説明してくれるが、その間にもアデリナの頬はどんどん赤くなっていく。
「俺はそのまま齧れるから大丈夫。『あーん』してくれる?」
「う……や、やっぱり、きちんと切ってから」
たとえテオドールが林檎を齧ったことがあるとしても、室内でアデリナが差し出す以上はやはりおかしい気がする。
だがテオドールは紙袋にしまおうとするアデリナの手を掴むと、そのまま林檎をひと齧りした。
「うん。美味しいよ」
林檎を咀嚼しながら、にこりと微笑まれる。
テオドールが、アデリナが持っている林檎を齧った。
それはつまり、『あーん』と言ってもおかしくない状況で。
しかも、手まで重ねられて。
一瞬で熱湯を沸かせそうなほど顔が熱くなったアデリナは、すっくと立ち上がる。
「――い、いやああああ!」
人生で初めてではないかという絶叫と共に、アデリナは執務室を飛び出した。
必死に走って中庭に出ると、そこにあったベンチに手をついて荒い呼吸を整えようとする。
普段走ることなどないので、疲労が凄い。
ダンスを踊り続ける体力なら自信があるが、こういった方向は本当に苦手だ。
すると、その肩にそっと何かが触れた。
「アデリナ嬢、大丈夫か?」
「ひいっ!?」
驚いて振り返れば、そこにあるのは黒曜石の瞳。
あんなに走ってきたのに、いつの間に追いつかれたのだろう。
「とりあえず、座ろう」
混乱と疲労で何も言えないアデリナは、未だ落ち着かない呼吸のままベンチに腰掛け、テオドールもその隣に座った。
「エルナが言い出したのかな。悪いな、付き合わせて」
「いいえ。リリーさんとの約束で……それに、テオ様が謝る必要はありませんわ。わたくしのほうこそ、その、失礼を」
よくよく考えれば、テオドールは主君であるグラナートに経緯を説明されたのだ。
その状態で林檎を持つアデリナを見れば、『あーん』せざるを得ない。
無理に迫った上に叫んで逃げだすなんて、大変に失礼なことだ。
今更ながら自分の行動が恥ずかしくなり、アデリナは少し俯いた。
「失礼? 何で? 俺は嬉しいけれど」
まさかの言葉にアデリナが顔を上げると、テオドールは林檎を持ってにこりと微笑んでいる。
「リリーとの約束だろう? エルナもちゃんと果たしていたし。アデリナ嬢だけ約束を破るわけにはいかないよな」
混乱するアデリナの目の前に林檎を差し出すと、テオドールの口からとんでもない言葉が飛び出した。
「はい、アデリナ嬢。あーん」
まさかの事態に、アデリナの黄玉の瞳はこぼれんばかりに見開かれる。
何も言えずに口をパクパクさせていると、テオドールがアデリナと林檎に交互に視線を向ける。
「……そうか。アデリナ嬢は林檎丸かじりなんてしたことないよな」
違う。
問題はそこではない。
ただ目を瞬かせることしかできないでいると、テオドールは林檎の齧られた部分にアデリナの指を乗せ、テオドールの指を重ねて軽く押し付けた。
そうして、林檎の果汁で少しだけ濡れた指をアデリナの唇に触れさせる。
「これで『あーん』、成功だな」
黒曜石の瞳が細められるのを見て、アデリナは思考停止寸前の脳をどうにか動かす。
テオドールがアデリナの手を握って、林檎の果汁をついた指を唇に運んだわけだが。
その林檎はテオドールが齧ったものだから、要は間接キスで。
それどころか、テオドールの指もアデリナの唇に触れたわけで。
――限界突破。
「いやあああーー‼」
腹の底から迸る絶叫と共に、アデリナはその場から走り出す。
エルナとグラナートがどれだけ『あーん』しようが平気だし、何ならもっといちゃついてもらっても構わない。
それなのに、どうして自分のことだとこんなに耐えられないのだろう。
それは、テオドールのことが好きで、だからドキドキするからで。
その事実を突きつけられたアデリナは、更なる叫びと共に王宮内を駆け抜けた。
「未プレイ」リクエスト番外編、投稿開始します!
内容に関しては、活動報告をご覧くださいませ。