ストレスが溜まっていました
そうしてレオンハルトが領地へ行き、エルナは約束通り刺繍を控えていた。
おかげで、ストレスが溜まっていた。
刺繍ハンカチを売るのを控えればいいだけなのかもしれないが、使い道のないものを大量生産するのは気分が乗らない。
仕方がないので、一枚のハンカチにこれでもかと刺繍し続けていた。
糸を刺していない場所はないという密集具合で、やたらとずっしり重い。
日本で言うタオルハンカチかバスマットかという厚みのそれを完成させると、何だかやる気もなくなってしまった。
刺繍ハンカチ大量生産というストレス解消手段はなくなったのに、ストレスの原因である王子と護衛の愉快な挨拶はなくならない。
端的に言って、ストレスが溜まっていた。
その日は朝に王子と護衛の愉快な二人の挨拶を聞き流し、昼にリーダーと愉快な令嬢達の嫌味を聞き流し、講義が終わって帰ろうとリリーと別れたところだった。
「エルナさん、ちょっといいですか」
この学園生活で図らずも聞き慣れてしまったよく通るいい声に、エルナはしぶしぶ振り返る。
予想通り、そこには淡い金髪の美しい少年がいた。
珍しいのは、いつもそばにいるテオの姿がないことだ。
「殿下、何の御用でしょうか」
「話があります。来ていただけますか」
王族に否を唱えられるような大義名分が存在しない以上、従うしかない。
そのままグラナートについていくと、庭の外れに到着した。
ベンチに座るよう勧められ、それに従う。
当たり前のように隣にはグラナートが座った。
教室のような密室ともいえる場所に二人だと、あらぬ誤解をされるから庭なのか。
それとも、近いから庭なのか。
どうでもいいが、今日はこの後『ファーデン』にハンカチの納品が減ることを伝えに行くつもりなのだ。
もちろん、レオンハルトの言いつけを守ってゾフィと一緒にである。
時間がもったいないので、さっさとお話を終わらせてほしい。
「お話というのは、リリーさんのことでしょうか」
「よくわかりますね」
そりゃあ、攻略対象が聞きたいことと言えば、当然ヒロインのことだろう。
だが、リリーのことを聞くだなんて、興味を持っている証拠。
好感度が順調に上がってきているのだろう。
さっさと本人同士が語り合ってくれれば、エルナの被害は減る。
そう思えば、この時間も有意義な気がしてきた。
「エルナさんは彼女の魔力について、何か聞いていますか?」
思ったものより固い質問から入ってきた。
さすがは王子、チャラくない。
「魔力ですか? 平民ながら並々ならぬ魔力を持っているという噂は聞いたことがありますけれど、それ以外は特に。本人ともそんな話をしたことがないので」
ヒロインだから凄い魔力だろうなと思っているが、実際はどうなのかわからない。
わざわざ確認するまでもないことだからだ。
「そうですか」
グラナートは何か思案するように黙り込む。
……これだけ、なのか。
もっとリリーの好きな花とか、食べ物とか聞かないのだろうか。
よく考えたら知らないから、答えられないけれど。
「巷に、清めのハンカチというものがあるらしいのですが、ご存知ですか?」
「うっ、噂は聞いたことがあります」
突然の言葉に、つまりながらも何とか返答する。
「悪いものから守る、悪いものをはねのけるという話です。もしも……そんな力があるのなら、楽になれるかもしれませんね」
グラナートは空を見上げながら、呟く。
「そんな力を持つ人が伴侶だったら、危険が減ります。……少しは安心できますね」
それはつまり、どういうことだろう。
グラナートはリリーのことを聞いているのだから、リリーの話には違いない。
リリーの魔力の話で。
悪いものをはねのける力があると楽になれる。
伴侶なら危険が減って安心できる。
……つまり、凄い魔力持ちのリリーを嫁にすれば、悪いことも起きないから安心だよね、ということだろうか。
そう考え着いた途端、火がともるように怒りが湧いた。
「そんな理由で手に入れたものに、価値があるとは思えません」
これは『虹色パラダイス』という乙女ゲームで、リリーはヒロインで、グラナートは攻略対象。
だからリリーを好きになって当然だし、どんなイベントがあったとしても最終的に二人は結ばれるだろう。
でも、その理由が『楽だから』というのは何だか許せなかった。
リリーと行動を共にして、情が湧いたというのもあるのだろう。
確かにいずれ伴侶となるヒロインではあるが、物のような扱いをリリーが受けるのは、納得がいかない。
「楽だからと手に入れて、それで悪いことが起きなかったらそれでいいのでしょうか。悪いことや嫌なことなんて、生きていれば沢山あります。何の危険もないものなんて存在しません。大切なものなら、自分も守る努力をしたらいかがですか」
言い切ってから、しまったと後悔した。
こんなのはストレスからの八つ当たりだ。
グラナートとリリーのことは、エルナが口を出す話ではない。
しかも、しがない子爵令嬢でしかないエルナが、王子であるグラナートに説教するなど。
場合によってはノイマン子爵家にもお叱りがいくかもしれない。
冷や汗をかきながらグラナートの様子を恐る恐る窺う。
怒っているかと思いきや、グラナートはぽかんとしてエルナを見ていた。
「口が過ぎました。申し訳ありませんでした。失礼いたします」
先手必勝とばかりに謝罪すると、急いでその場を後にする。
何故あんなことを言ってしまったのだろう。
適当にハイハイと聞き流せば良かったのに。
入学してから今までできていたのに、何故。
エルナの自問自答には簡単な答えが出た。
――端的に言って、ストレスが溜まっていたのだ。