ハンカチが謎の売れ方をしています
学園が休みのその日、エルナは朝食を食べると屋敷を出た。
レオンハルトとはタイミングが合わず、最近ろくに話せていない。
だが、話したところでテオドールが話しかけてくるのは変わらないだろうと諦めていた。
リリーとグラナートの接点である以上、何らかの力が働いているのだろう。
これでゲームの強制力は存在しないというのなら、何を言われても理解できていない残念な頭の兄ということになる。
それはそれで情けない。
あとはリリーとグラナートが個人的に話をするようになってくれれば、お役御免になるはずだ。
それを期待するしかない。
だが話しかけられるのは諦めたとはいえ、平気なわけではない。
ただでさえ増えてきた嫌味が、グラナート達と接触すると一気に増すのだ。
行く先々でひそひそ、または堂々と。
ないことないこと言われ続けるのは、さすがに気分が悪い。
そんなイライラやモヤモヤを解消するべく、エルナは刺繍に励んでいた。
ざくざくと、およそ優雅に刺繍しているとは言えない音と共に、大量生産である。
イメージはサンドバッグを殴り続ける感じだ。
嫌なものなくなれと、日夜糸を刺しまくっていたのである。
「おかげではかどりますし、思ったよりも売れているのですから、人生何が吉と出るかわかりませんね」
あれ以来、刺繍をしては届けるのを繰り返している。
そして今日も『ファーデン』にハンカチを届けに来たのだ。
「先日納めていただいた十点は、もう完売していますよ。『グリュック』のハンカチ、すっかり人気商品です」
店員は楽しそうにそう言うと、エルナが持ってきたハンカチを確認する。
「確かに八点、お預かりします。今度は星の柄ですか。可愛いですね」
納めていた十点分の代金をエルナに渡すと、店員は今日持ってきたハンカチをしまい始める。
「店頭に出さないのですか?」
不思議に思って訪ねると、店員は苦笑した。
「実は、どうしても『グリュック』のハンカチが欲しいという人が絶えなくて。お得意様には特別に優先販売をしています。なので、この八点は既に買い取り手が決まっています」
「そ、そんなにですか?」
馬鹿みたいに刺繍しては持ってきても、ほいほい受け入れてくれるので、販売力が凄いなと思ってはいたが。
まさか、そこまで売れていたとは驚きである。
「なんでも、巷で『清めのハンカチ』と呼ばれているみたいですよ」
「清め?」
どういう意味だろう。手を拭いて清めるというのなら、ハンカチ全般に当てはまると思うのだが。
「このハンカチを持っていると、悪いことから身を守ってくれるそうです」
「……どこからそんな出鱈目なご利益がでてきたのでしょう」
「病の症状が軽くなったとか、嫌なお見合いが破談になったとか、色々あるらしいですよ」
「もうそれ、ハンカチは関係のない話ですよね?」
「まあ、実際はどうあれ、信じて買っていく人は多いですよ。最近では、貴族の方のお使いが店に来ることも多くなってきました」
「破談にしたい婚約、ありそうですね。貴族の方々」
つまり、あれか。
ゲン担ぎというか、気休めのお守りみたいなものとして認識されているということらしい。
店員もご利益を信じているわけではなさそうだが、売り上げに一役買っているので否定はしていないようだった。
口コミによる宣伝は、どこの世界でも強いものらしい。
「まあ、買っていただけるのはありがたいことです。ちょうど三十九番の赤がなくなりそうなので、買って帰れます」
なにせ、ちょっとお高い糸なのだ。
売り上げに貢献しているからと、少しオマケしてもらい、うきうきのエルナは店を後にした。
『ファーデン』は王都の中心部から少し外れたところにある。
店の位置も、一見わかりづらい路地の奥なので最初は迷いそうになったものだ。
何度か通ううちに慣れたもので、路地を出ると通りを最短の道で屋敷に帰っている。
お花や野菜を売るお店の前を通ると、色鮮やかなそれにエルナの刺繍心がくすぐられた。
「今度は果物の刺繍のハンカチもいいですね。『ファーデン』にはまだ出していませんし」
「ちょっと、そこのあなた、待ってくださる」
突然の声に立ち止まると、背後から人影がエルナの前にやってきた。
濃いめの金髪に真珠の瞳の美しい女性だ。
服装こそ地味とはいえ仕立ては良さそうだし、どことなく気品がある。
貴族のお嬢様のお忍びかな、とエルナは察した。
ちなみに、正真正銘子爵令嬢のエルナは、平民に違和感なく溶け込んでいるという自負がある。
それを侍女のゾフィに自慢したら、呆れられたが。
「あなた、『ファーデン』のお店の場所をご存知なの?」
「はい、知っていますよ。ここから近いです。案内しましょうか?」
女性は、一気に笑顔になる。
花が綻ぶとはこういうことを言うのだろう。美しい笑みに、何だかエルナは得した気分だ。
「まあ、ありがとうございます。なかなか見つけられなくて困っていたのです」
「確かに、わかりにくい路地ですよね」
「ええ。時間がなくて、焦ってしまったので余計に見つけられなくて。どうしても買いたいものがあったので、助かりましたわ」
歩き慣れていないであろう女性のために、かなり速度を落として歩く。
『ファーデン』には貴族も来ると聞いていたが、本当らしい。
平民から貴族まで来る店というのは、結構珍しいのではなかろうか。
「どうしても買いたいものですか」
エルナの脳裏に、並んでいた高級刺繍糸が思い浮かぶ。
確かに、素敵な糸だった。
お値段がネックだったが、貴族令嬢ならポンと買えるのだろう。
自分の事は棚に上げて、いいなあと高級糸に思いを馳せる。
「ええ。清めのハンカチというのは、ご存知かしら」
急に飛び出した聞いたことのある単語に、一気に現実に引き戻される。
「清めのハンカチって……まさか『グリュック』の、ですか?」
まさかと思いつつ確認してみると、女性から笑みがこぼれた。
濃い金髪が輝いて、まるで陽の光のような美しさだ。
「そうです! わたくし、どうしても清めのハンカチが欲しくて。ようやく時間を作れたので、今日買いに来ましたの」
こんなに美しい貴族のお嬢様と思われる人が、何故高級でもないハンカチを、それもわざわざ自分で買いに来たのだろう。
当然の疑問に、先ほどの店員との会話を思い出す。
悪いことから身を守るということになっているのなら、何か困っているのかもしれない。
そういえば、望まぬ婚約が破談になったとも言っていた。
もしかしたら、この女性も意に添わぬ婚約に苦しんでいるのかもしれない。
貴族の婚約は、本人達の気持ちひとつではどうしようもないことが多い。
だからこそ、こんな眉唾もののハンカチにも縋りたくなったのだろう。
お忍びで本人が買いに来ているのは、家人にばれたくないからに違いない。
「これで、少しでも……あ、いえ。何でもありませんわ」
何かを言い淀む姿に、エルナの想像は確信に変わる。
それと共に、この女性を少しでも助けてあげたいという気持ちが湧いてきた。