『あーん』死するかもしれません
黒髪の青年は黒曜石の瞳でじっとこちらを見ると、そのまま頭を下げる。
「……お邪魔しました」
「――ま、待ってください、テオ兄様っ!」
クッキーを口に入れたまま叫ぶという、大変はしたない事態にアデリナの眉が顰められているが、今は仕方がない。
「いちゃつくなら、二人きりでお願いしますよ。……あれ、アデリナ嬢?」
人生最高速でクッキーを飲み込んだエルナは立ち上がると、テオをアデリナの隣に座らせた。
「さあ、今度はアデリナさんの番です!」
エルナの勢いに、アデリナの肩が震える。
「……何の話だ?」
「リリーさんからの課題で、『あーん』をするらしいですよ」
グラナートの説明を聞いたテオドールの視線にうなずいて応えると、テオドールは小さく息を吐いた。
「じゃあ、アデリナ嬢も俺に食べさせてくれるのか?」
震えながら抱えていた紙袋を開け、アデリナが取り出したのは……林檎だった。
名門公爵令嬢のまさかの手土産に、その場の全員がぱちぱち目を瞬かせる。
「だ、だって。エルナさんが、テオ様にはこれがいいって。よく食べているからって」
「いや、食べるけど……どういうことだ?」
求められるままに経緯を説明するが、その間にもアデリナの頬はどんどん赤くなっていく。
「俺はそのまま齧れるから大丈夫。『あーん』してくれる?」
「う……や、やっぱり、きちんと切ってから」
丸かじりだろうと切ってあろうと、『あーん』の恥ずかしさは変わらない気がするのだが。
そのあたりは、上品な公爵令嬢の中で何かが許せないのかもしれない。
だがテオドールは紙袋にしまおうとするアデリナの手を掴むと、そのまま林檎をひと齧りした。
「うん。美味しいよ」
微笑むのはいいのだが、一口が大きすぎたせいで、もっしゃもっしゃという咀嚼音が気になって仕方がない。
だがアデリナには効果覿面……というか、致命傷だったらしい。
もはや林檎を超えて苺並みに真っ赤になったアデリナは、すっくと立ち上がった。
「――い、いやああああ!」
およそ普段の彼女からは考えられないような絶叫と共に、執務室を飛び出して行ってしまった。
「……追わないのですか?」
ソファーに座ったまま林檎を咀嚼し続けているテオドールに尋ねると、ようやく嚥下した後に笑う。
「急がなくても、間に合うからな」
確かに、アデリナの歩みはカタツムリと張り合えるレベルだ。
いや、雨の日の本気のカタツムリになら負けるかもしれない。
テオドールどころか、エルナが追いかけてもあっという間に追いつくだろう。
「それとも……出て行ってほしいですか?」
ソファーの上に落ちた林檎を拾うと、テオドールがにやりとグラナートに笑いかける。
明らかに揶揄するその笑みに、グラナートは爽やかな笑顔を返した。
「そうですね」
何ひとつ揺るがないその様子に、テオドールはため息と共に立ち上がる。
「はいはい。主君と妹のいちゃいちゃを覗く趣味はないので」
テオドールはぞんざいに手を振ったかと思うと、しっかりと礼をして扉を閉めた。
「……今のは」
「正直な気持ちですね」
アデリナとテオドールを二人きりにしてあげようという粋な計らいの可能性に賭けたのだが、見事に敗北だ。
もちろんグラナートのことは好きだし、一緒にいるのも嬉しい。
だがしかし、心臓の疲労を考えると手放しでは喜べないのだ。
グラナートは立ったままのエルナの手を引くと、一緒にソファーに腰を下ろす。
さっきまで隣に座っていたのに、二人きりだと思うと何故か緊張してきた。
「結婚式の準備もあって、なかなか会えませんからね」
そう言って微笑まれれば、エルナはうなずくことしかできない。
「もう一度。食べさせてくれますか?」
「ええ⁉」
リリーの課題はもう終えたし、何も『あーん』する必要はないと思う。
普通にクッキーを食べて紅茶を飲んでもいいのではないだろうか。
そう提案しようとすると、グラナートの首がちょこんと傾げられる。
「……駄目ですか?」
潤んでいないのに潤んでいるようにしか見えないその瞳に、エルナの心は簡単にノックアウトされた。
瀕死のエルナが紙袋からクッキーを取り出して差し出すと、グラナートは何故か困ったように微笑んでいる。
「『あーん』は、してくれないのですか?」
「それは……」
勘弁してほしいと言いたいのに、エルナの脳内のグラナートが『駄目ですか』攻撃を仕掛けてくる。
的確に急所だけを突いてくるそれに、抵抗など無駄だった。
「あ、あーん……」
どうにか絞り出して声を出すと、グラナートは満足そうにクッキーを口に入れた。
「はい。エルナさんも、あーん」
笑顔でクッキーを差し出されれば、もう食べる以外の選択肢など残されてはいない。
弱々しく咀嚼するエルナに、グラナートが紅茶を差し出す。
嬉しい気づかいだが、どうせならば『あーん』しない方向で発揮していただきたいものだ。
一向に飲み込めないクッキーを紅茶で流し込むと、知らずため息をつく。
「結婚したら、同じ宮に住めますね」
「はあ」
まあ、そうなるのだろう。
王太子妃だけ実家から通うという前例は聞いたことがないので、エルナも王宮に住むことになるはずだ。
「そうしたら、毎日『あーん』してあげますね」
まさかの宣言に、エルナの口から小さな悲鳴がこぼれた。
この『あーん』一往復だけでも、十分すぎるほどに恥ずかしいし緊張するしドキドキして疲れた。
それなのに、これを毎日だなんて……死んでしまうかもしれない。
「お、お手柔らかに、お願いします」
どうにか負担を軽減しようと訴えると、グラナートはエルナの手をすくい取り、あっという間に手の甲に唇を落とした。
「楽しみですね」
太陽が霞むほどの眩い笑みに加減する意思は微塵も感じられない。
王太子妃史上初の、『あーん』死するかもしれない。
エルナは将来の自分を思い、少しばかり不安になった。
「虐げられた苺姫は聖女のループに苺で抗う 〜たぶん悪役令嬢の私、超塩対応の婚約者に溺愛されてる場合じゃない〜」完結! ランキング15位!
「未プレイ」も43位です。
ありがとうございます!
次話 グラナートの攻撃を長兄に相談するのですが……。
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