『あーん』の課題をこなします
「ヴィル殿下の気持ちは、リリーさんも気付いていると思うのですよね。何せ、わかりやすいですし」
「そうですわね」
王宮の一室でいつものように王太子妃教育を受けながら、エルナはため息をついた。
「リリーさんはハッキリしていますから、嫌いで迷惑ならばそう言うと思います。だから、好意がゼロということはないと思うのですが……やはり、身分の差はどうしようもないのでしょうか」
指示された課題を書き終えて紙を渡すと、アデリナがそれに目を通す。
「そのあたりは、どうにかする手もなくはないですわ」
「そうなのですか?」
国でも有数の名家の生まれで教育の行き届いたご令嬢から、まさかの言葉が出てきた。
「たとえば、ミーゼスの養子に入って公爵令嬢という形にするとか」
なるほど、確かにそれならばただの平民ではなくなる。
血筋はどうしようもないし、それでとやかく言う人もいそうだが、一応の体裁は取り繕える。
リリーならば本気を出せば貴族令嬢としてのマナーなどもすぐに覚えそうだ。
「でも……リリーさんはそうして周囲に迷惑をかけるのを嫌がりそうですね」
「恐らく、そうでしょうね」
アデリナもうなずいているところを見ると、提案したところでリリーは承諾しないとわかっているのだろう。
ヴィルヘルムスは、一国の王太子だ。
その権力を使って無理を通せば、リリーを妃に据えることも不可能ではないはず。
それをしないのは国内の情勢などもあるだろうが、何よりもリリーの気持ちが欲しいからだ。
本人も長期戦を覚悟していると言っていたし、形ばかりの妃にするつもりはないのだろう。
「それよりも……『あーん』の準備はしましたの?」
課題の紙を机に置くと、何やら落ち着かない様子のアデリナがちらちらと視線を送っている。
一応はクッキーを焼いてあるが、できればただの差し入れとして届けるにとどめたかった。
「そういうアデリナ様も、準備したのですか」
必要以上に小刻みに回数が多いうなずきが返ってくるのを見て、エルナはため息をついた。
「それなら、行きましょうか。リリーさんの笑顔には逆らえませんし」
「そ、そうですわね。仕方がありませんものね」
「あと、照れているアデリナ様もたまりません」
にこりと微笑むと、アデリナが呆れたと言わんばかりの視線を送ってきた。
「エルナさんは……確かに少し、アレですわね」
何やら神妙な顔で呟く美少女と共に、エルナは部屋を後にした。
ぶんぶんという空気を切る音があたりに響く。
手首のスナップを利かせたそれをじっと見ていたアデリナの首が、段々と傾き始めた。
「エルナさん。一体何をしていますの?」
「素振りです。殿下が美味しくなさそうな表情を浮かべたら、即座に取り返す練習です」
何せグラナートは優しいので、多少不味くても気を使って褒めてくれるだろう。
さすがにそれは申し訳ないので、少しの変化も見逃さず、すかさず撤去しなければならない。
「……他に類を見ない、無駄な練習ですわね」
肩をすくめたアデリナはそのまま扉に手をかけた。
執務室の中には、グラナートが一人いるだけだ。
テオドールの姿がないことを確認したアデリナはほっと息をつき、次いで少し寂しそうにしている。
何を言いたいのか丸わかりで、実に可愛らしい。
「エルナさん」
訪問者に気付いたグラナートが、笑みと共に立ち上がる。
それを見て、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という日本の言葉が頭に浮かんだ。
本来は美女に対して使うのだろうが、グラナートにならば問題なく当てはまる。
立てば凛々しく、座れば優雅、歩く姿はただの眼福。
これぞ絵に描いた美少年というその麗しさに、今日も目が痛い。
促されてソファーに腰かけると、どこからともなくやってきた女官が紅茶を用意してくれる。
「いつもながら、王宮の女官は仕事が早くて丁寧ですよね。私も見習いたいです」
感心しながら呟くと、女官は暫し瞬き、そして笑みを返して退出する。
「ああいう、さりげない笑顔が理想です。いいですよね、今の」
王太子妃教育として歴史やマナーやダンスを学んでいるが、頑張れば覚えられる類のものはまだいい。
優雅な笑みとか、上品な雰囲気というような、一朝一夕では身につかないものにエルナは苦戦していた。
「エルナさんの笑顔は素敵ですよ」
正面に座った物腰柔らか律儀王太子が、その本領を発揮して笑顔と共に褒めてくる。
とてもありがたいが、現実から目を背けてはならない。
「それで、アデリナさんも一緒というのは何か用件が? それともテオに会いに?」
「リリーさんの課題をこなすためです」
エルナが経緯を説明すると、グラナートの表情が段々と緩んでいく。
「なるほど、『あーん』をしに来たわけですね。つまり、エルナさんも?」
「一応、クッキーは焼いてきました」
「えっ!?」
アデリナが妙な声を上げたが、一体何なのだろう。
紙袋を差し出すと、嬉しそうに受け取ったグラナートがクッキーを一枚つまんで見ている。
「いい香りですね。林檎ですか?」
「はい。お好きだと聞いたので、生地に練り込んであります。それから、乾燥させた林檎のチップも入れて焼きました」
幸せそうに香りを嗅ぐグラナートの様子を見る限り、どうやら見た目と香りは問題ないようだ。
とりあえずは一安心だが、いざという時には素早く紙袋を奪還しなければいけない。
エルナは心の中で素振りを開始する。
だがグラナートは一向に食べないどころか、こちらを見てにこりと微笑んだ。
「エルナさんが、食べさせてくれるんですよね?」
違う、と言いたい。
しかしリリーの笑みには逆らえない上に、アデリナという監視役までいる。
逃げることは不可能だ。
腹をくくったエルナは立ち上がり、グラナートの手からクッキーを受け取る。
「立ったままでは何ですし、ここにどうぞ」
そう言ってグラナートの隣を指し示されれば、もう抗うことなどできない。
難易度を上げてくるグラナートに少しばかり文句を言いたくもなるが、まずは課題をこなすことが優先だ。
仕方なくグラナートの隣に座ると、クッキーを差し出す。
「きちんと声も出さないと、課題で満点は取れませんよ?」
更なる難易度上昇とは、何ということだろう。
これは本格的に穏やか律儀王太子から笑顔の意地悪王太子に進化してしまったのかもしれない。
だが、ここで引いては女が廃る。
エルナは深呼吸をすると、覚悟を決めた。
「あ、あーん……」
少し声を震わせつつ自身を叱咤激励してクッキーを近付けると、嬉しそうに微笑みながらグラナートがぱくりと口に収めた。
やり遂げた満足感というよりも、ただ疲労ばかりがエルナを苛み、知らずため息がこぼれる。
満足そうなグラナートが少し憎らしくて睨んでみるものの、唇をぺろりと舐める仕草が色っぽすぎて慌てて視線を逸らした。
「……わたくし、いない方がよろしいですわよね?」
冷ややかな目でこちらを見るアデリナも麗しいが、今は恥ずかしさの方が勝っている。
「み、見られるのは恥ずかしいですけれど! アデリナ様もやるんですからね!」
半ば八つ当たり気味に訴えるエルナの肩を、何かがトントンと叩いた。
振り返れば、当然のようにそこにはグラナートがいるわけだが、その手には林檎のクッキーが一枚握られていた。
「まだ途中ですよ。僕からも、してあげますね」
「え、いや、その」
結構ですと言いたいが、『あーん』はするのとされるのと両方でワンセットなのだろうか。
だとしたら、リリーの課題をこなすために『あーん』されなければいけないわけで。
短時間でぐるぐると思考を巡らせるエルナの目の前にクッキーが迫り、林檎の甘い香りが鼻をくすぐる。
「はい、エルナさん。あーん」
とろけるような笑みと共に紡がれた言葉に、エルナは思考停止して口を開く。
美少女は正義であり、美少年もまた正義である。
逆らうことはあり得ない。
少しの悟りを開いたエルナの口にクッキーが入ると同時に、執務室の扉が開いた
※「竜の番のキノコ姫」の短編を投稿しました。
せっかくなので、スペース開催するかもしれません。
質問も募集します。
詳しくは活動報告をご覧ください。
「虐げられた苺姫は聖女のループに苺で抗う 〜たぶん悪役令嬢の私、超塩対応の婚約者に溺愛されてる場合じゃない〜」完結! ランキング10位!
「未プレイ」も23位です。
ありがとうございます!
次話 決死の「あーん」の現場に現れたのは……?
第8回ネット小説大賞を受賞作
「婚約破棄されたが、そもそも婚約した覚えはない」(略称・「そも婚」)好評発売中!
(活動報告にて各種情報、公式ページご紹介中)