ユリア・エーデル 3
「ここまでくれば大丈夫だと思います。念のため、手を洗ってください。手洗いするまでは、目を擦らないでくださいね」
はあはあと息切れしながらそう伝える少年の顔を、始めてまともに見た気がする。
瞳は綺麗な瑠璃色だが、それ以外はこれといって特徴のないごく平凡な顔だ。
平凡すぎて、明日すれ違ってもわからない自信さえある。
「それでは、さようなら」
ぼんやりと瑠璃色の瞳を見ていたユリアに何故か一礼すると、少年は走って去って行く。
錯覚かと思うほど遅いが、たぶん走っている。
そして、やはり転ぶ。
あれだけ情けないのに、教室で囲まれていた時には決して怯まない……というか、ろくでもない情報で圧倒していた。
少年の姿が校舎の陰に隠れるまで見つめ続けていたユリアは、そっと胸を押さえた。
「……いい」
思わずこぼれた言葉に、自分で驚く。
何だかわからないけれど、いい。
かなり、いい。
他人に対してこんな気持ちになったのは初めてだ。
「い、いやいや。落ち着くのよ私。彼のどこがいいって言うの」
体力はなさそうだし、よく転ぶし、足も遅いし、どうやら田舎貴族らしいし、顔だって平凡そのもの。
間違っても美少女で優秀なユリアには釣り合わない。
「……そこが、またいいわ」
体力も足の遅さもユリアがカバーすればいいし、転ぶのはユリアが助ければいいし、田舎だろうが貴族同士なら障害も少ないし、平凡な顔は癒される。
「やだ。問題なしじゃない」
これぞ世に言う、ギャップ萌え。
これがいわゆる、恋に落ちるというやつなのか。
ユリアは熱を持つ頬を押さえると、しずしずと学園を後にした。
「おはよう。好きよ」
翌日、教室に黒髪の少年の姿を見つけたユリアは、すぐさま彼のそばに駆け寄って挨拶と告白をする。
その瞬間、黒髪の少年はおろか、教室中の時が止まった。
「お、おはようございます。……何だか、幻聴が聞こえましたが、気にしないでおきましょう」
「幻聴? 体調が悪いの?」
ユリアが少年の額に手を当てると、今度は教室中がざわめいた。
「いえ、そうではなく。……あの、あなたは何故ここに?」
「あなたに会いに来たのよ。あと、告白したくて」
「こ、告白?」
「そう。さっき言ったんだけど、聞こえなかった? あなたが好きよ」
背後で何人かが倒れる音と悲鳴が聞こえるが、気にしない。
「聞こえましたが、聞いてはいけない気がするといいますか……」
「そうだ。あなた、名前は何ていうの?」
「それすら知らずに、告白ですか!」
少年は驚愕の眼差しを向けるが、知らないのだから仕方がない。
一応、そこらの生徒に聞いてはみたのだ。
だが、『黒髪で平凡な顔の貧弱な男』と言っても伝わらなかったのだから、困ってしまう。
「私は、ユリア・エーデルよ。あなたの名前を教えて?」
天使のごとくと称えられた笑みを向けると、少年は気まずそうに顔を背けた。
「……マルセル。マルセル・ノイマン、です」
その響きに、ユリアの胸が高鳴った。
「マルセル様。素敵な名前ね」
うっとりとその名を口にすると、マルセルの手を握る。
「とりあえず、今日は告白しに来たの。マルセル様に好きになってもらえるように頑張るから。よろしくね」
宣言通り、その日からマルセルにアプローチを続けた。
もはや、つきまとったと言っていいと思う。
さすがに嫌がっているようなら考え直したが、少なくともユリアを嫌ってはいない様子。
だが、まだ好意があるとも思えない。
目につく人に片っ端から惚れられたと言っても過言ではないユリアにとっては、それもまたたまらない。
なるほど、好意を伝えたいというのはこういう気持ちなのか、と過去に言い寄ってきた人々を懐かしむ。
……顔はまったく思い出せないけれど。
教室という公衆のど真ん中でユリアが告白したことにより、マルセルは一気に学園中にその存在が知れ渡った。
だが、そのせいで見当違いな嫌がらせがマルセルの方に向いてしまう。
もちろん、すべてユリアが弾き返した。
倍返しだ。
マルセル自身も、謎の情報と謎のアイテムであしらっていて、普段の貧弱さとのギャップに惚れ直してしまう。
そうしてひと月も経つと、マルセルがユリアの名前を呼んでくれるようになった。
これは相当な進歩であり、もはや恋人待ったなしである。
ベッドの中でにやにやするという、年頃の乙女らしいことを楽しんでいたある日、その人はやって来た。
「ユリア・エーデル、だよね?」
淡い金髪に青玉の瞳の美少年が、目の前にいる。
だが、知り合いでもないし、用もない。
なので、どうでもいい。
「そうよ。さようなら」
結論が出たので返事と挨拶を済ませて立ち去ろうとすると、美少年は慌ててユリアの前に立ちふさがった。
「何なの?」
不機嫌さを隠すこともなく文句を言うと、美少年は何やらもじもじしている。
「その。良かったら、一緒に話でも……」
「しないわ。さようなら」
用事があるのかもしれない、と待った自分が馬鹿だった。
さっさと立ち去るユリアの背後から何やら美少年が言っていたが、興味がないので言葉として認識できない。
用事があるのならさっさと簡潔に伝えるべきだし、万が一口説いているというのならまったくもって論外だ。
ユリアは身体的貧弱は嫌いではないが、精神的貧弱は嫌いなのだと今更気づいた。
「……なるほど、だからマルセル様が好みなのね」
自分の知らない自分を発見したようで、何だか面白い。