エルナ・ノイマン 3
「じゃあ、ドライフルーツを」
紙袋から取り出したクッキーを受け取ろうと手を伸ばすが、何故かグラナートの手がクッキーを持ったまま動かない。
「殿下?」
「王妃教育で王宮に来たら僕に会ってください、と約束しましたよね?」
「来ていますよ?」
「毎回ではないですよね。大体、五日に一回でしょうか」
確かに毎回ではないが、条約のあれこれが落ち着いた今は学園でもある程度会うのだから、十分ではないだろうか。
「ですが、毎回だと二日に一回とか。酷いと毎日になってしまいますから」
「いいと思います」
あっさりと肯定され、エルナも困惑する。
「殿下の時間をそんなに割くわけにはいきません。お仕事の邪魔にもなりますし」
「何度でも言いますが、エルナさんが邪魔になることはありません」
「でも」
いくら何でも、それは会いすぎだと思うのだが。
「約束を守ってもらえず、寂しい思いをしていました」
「ええ? あ、あの、すみませんでした」
美少年に悲しそうに俯かれると、自分がとても悪い事をしたような錯覚に陥る。
やはり、今日も美少年は正義である。
エルナが謝るとグラナートは俯いていた顔を上げたが、見上げる形になった視線の破壊力が凄い。
「では、慰めてくれますか?」
思わずうなずきそうになるが、何を言われているのかがよくわからない。
「あの。慰めるって、何をすればいいのでしょうか?」
頭でも撫でるのだろうか。
少し恥ずかしい気もするが、それくらいなら頑張ろうと思う。
ソファーから立ち上がったグラナートは、エルナの隣に腰を下ろす。
何だろうと見ていると、エルナに向かってにこりと微笑んだ。
「口を開けてください」
「口?」
言葉を繰り返したことで開かれたエルナの口に、グラナートがクッキーを押し込んだ。
事態が呑み込めないまま、口に入れられたクッキーを咀嚼する。
グラナートがクッキーを持っていて、エルナに口を開けるように言って、クッキーが口に入れられた。
これはつまり、いわゆる『あーん』ではないのか。
まさかの先制攻撃に、エルナの心は沸騰寸前だ。
「あ、あの……」
「ん? 何ですか?」
指についたクッキーの粉をぺろりと舐めながらこちらを見る、グラナートの色気が凄い。
『あーん』は恥ずかしいし、グラナートを見るのも恥ずかしい。
だが、これも約束を破る形になったせいなので、エルナの自業自得と言えなくもない。
何だか正常な判断をできなくなっている気がするが、とにかくここは耐えよう。
「……な、慰められましたか?」
『あーん』のどこに慰めの要素があるのか皆目見当もつかないが、他に聞きようもない。
ともかくこれで終わりだ。
落ち着かない鼓動を抑えつつ、退室しようと腰を浮かせかけたエルナの耳に、美しい声が届く。
「そうですね。半分くらいは」
――何ですと。
グラナートの言葉に一瞬呆気にとられるが、これはいけないとすぐに正気に戻る。
「もうクッキーは、いりません。お腹いっぱいです」
警戒するエルナを見て微笑むと、グラナートはゆっくりうなずく。
「わかりました」
――良かった。
わかってくれた。
エルナは強張った肩の力を抜いて、息をついた。
「では、僕にください」
――駄目だ。
全然、わかっていなかった。
「はい」
さあどうぞと言わんばかりに口を開けるグラナートに、エルナは困惑する。
これは、『あーん』の要求だ。
リリーが勝手に『あーん』する約束と言っていたが、こんなに恥ずかしいものなのか。
既に『あーん』されてはいるが、あれは不可抗力だし、エルナは行動していない。
だが今回はエルナがクッキーを持って、恥ずかしい掛け声と共にグラナートの口に運ばなければいけない。
これは一体、何の罰ゲームだ。
だが、グラナートは待っているし、『慰める』とやらがまだ半分だし、でも恥ずかしいし。
ぐるぐると思考がパンクしそうになるエルナを見て、グラナートが少しだけ首を傾げた。
「……駄目、ですか?」
――それは、反則だ。
柘榴石の瞳に縋るように見つめられ、エルナは一撃で撃沈した。
「だ……駄目じゃない、です」
震えそうになる手を叱咤激励しつつ、クッキーをグラナートの口に運ぶと、弾けるような笑顔で食べている。
何なのだ、これは。
恥ずかしいにもほどがある。
『あーん』というのは、これほどまでに凄いものだったのか。
これでは、ピュアなアデリナは恥ずかしすぎて死んでしまうかもしれない。
真剣にアデリナの生死を心配して眉を顰めているエルナに、ご機嫌な王太子の声が届く。
「次のクッキーも楽しみにしていますね」
「あ、はい」
反射的に返事をして、ふと気づく。
これは、また食べさせるという意味なのだろうか。
いや、そんなはずがない。
仕事の合間におやつとしてクッキーを食べたいということだ。
きっと、そうだ。
「また、食べさせてあげます」
まさかの衝撃展開。
言葉を失うエルナに、グラナートはこの上ない美しい笑みを返す。
「今度は、僕の好きな味も用意してくれると嬉しいです。他の人の好みばかりというのは、少し嫉妬してしまいますから」
「嫉妬って……」
今回作ったのは、確かに兄や友人の好みの味だが。
それが寂しいということだろうか。
「あの、殿下の好みを知らなかったので。すみませんでした……」
「いえ、いいんです。これから色々教えますから」
色々って、何だ。
意味深なことを、色っぽい顔と声で言わないでほしい。
というか、クッキーリベンジはもう決定してしまったのだろうか。
「クッキー、楽しみにしていますね」
「は……い」
駄目だ。
やはり勝てそうにない。
早々に敗北を悟ったエルナは、美少年の正義の笑顔に目を細めた。