番外編 アデリナ・ミーゼス 3
「そうですか。それでは――そちらの五人は、要りませんね」
焦げ茶色の髪の青年は、穏やかな笑顔のままそう言った。
次の瞬間、男が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「――は?」
男達の声と、アデリナの心の声は全く一緒だった。
倒れた男はぴくりとも動かない。
何が何だかわからないが、怖い。
もの凄く、怖い。
いつの間にかアデリナはペルレの袖を掴んで震えていた。
「お、おまえは何だ!」
男の一人が叫ぶと、剣に手をかけたまま青年が微笑んだ。
気が付けば四人の男が吹き飛ばされている。
重いものが着地する音が四つ。
その音が消えると、周囲は静寂に包まれた。
「ペルレ様と……そちらはミーゼス公爵令嬢ですね?」
「は、はいぃ!」
突然青年に声をかけられ、恐怖と混乱で声が裏返る。
日頃淑やかな振る舞いを心掛けているアデリナではあるが、緊急事態には弱いということがよくわかった。
とりあえず欲しいのは、心の安寧だ。
アデリナはペルレの袖を持ったまま、すっかり固まっていた。
「お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫ですわ。――それよりも、エルナさんが」
「エルナの方には、殿下とテオドールが行っていますので、大丈夫でしょう」
ペルレと青年が普通に会話をしている。
さすが生粋の王族は、気品と肝の座り具合が違う。
どうやら青年はグラナートと共に、ここに来たらしい。
テオドールの名前を聞いて会いたいという思いが一瞬頭をよぎったが、すぐにそれを打ち消す。
今は王太子妃候補であるエルナを救出するため、グラナートに同行しているはずだ。
危険がある以上、彼がグラナートのそばを離れるはずがない。
だから、ここには来ないし、それが正しい。
ペルレの袖をぎゅっと握りしめる。
「それに、ペルレ様とは面識もありましたから。僭越ながら、見知らぬ兵が来るよりは安心していただけるかと思いまして。……ご無事で、何よりです」
青年はそう言って穏やかに微笑むと、アロイスの仲間に指示を出して吹っ飛んだ男達を縛り始める。
先程までは謎であり恐怖の対象だったが、今の笑顔は怖くないし、何だか惹かれる。
危害を加えないとわかったからかもしれないが、何となく懐かしいような気持ちになった。
さっきまであんなに怖かったのに、今では彼の笑みに安心している自分に驚く。
ペルレの大きなため息に我に返ると、慌てて握りしめていた袖を離した。
「申し訳ありません、皺がついてしまいましたわ」
アデリナが握っていたせいで、すっかりしわくちゃになってしまったが、ペルレはそれを見て微笑んだ。
「構いませんわ。お互い無事ですもの。それで充分です」
ペルレの視線の先には、手際よく男達を縛り上げる青年がいる。
「あの方と、お知り合いなのですか?」
「あら、アデリナさんはご存知ありませんの? エルナさんのお兄様ですわ」
エルナの、兄。
そう言えば、兄は二人いると聞いたことがある。
「では、あれが剣豪・瑠璃と呼ばれる……?」
「レオンハルト・ノイマンですわ」
学園に通っている身で現役騎士をも退けたという、伝説の人。
噂の印象よりもずっと優しい笑顔で、ずっと恐ろしい腕前だ。
腕も何も、アデリナには何が起きたのかさえよくわからなかったが。
「――アデリナ嬢!」
混乱がまだ収まらぬ中、一番聞きたかった声が耳に届き、アデリナは反射的に振り返る。
庭の方から黒髪の青年が走ってくるのが見えた。
「良かった、無事で。ペルレ様も、御無事で何よりです」
アデリナは目の前の青年が礼をするのを、ぽかんと見つめる。
テオドールによく似た声だが、これは誰だろう。
「レオンハルトさんが来てくださったので、大丈夫ですわ。そちらこそ、エルナさんは無事ですの?」
「怪我はありますが、命に別状はありません。今は殿下がそばに。王宮には治癒魔法の使い手がいるので、そちらで治療すると思います」
「わかりましたわ。レオンハルトさんはどうなさるのかしら?」
「兄は舞踏会には招待されていませんし、ブルートの王太子が参加するので王宮に入るのも難しいかと」
黒髪の青年が少しばかり嫌そうに眉を顰めながらそう言うと、ペルレが肩を竦める。
「あなたも意外と真面目ですわよね。では、わたくしの名前で招待したことにすれば、一緒に行けますわ。エルナさんのことが心配でしょうから」
「ご配慮、痛み入ります」
「では、レオンハルトさんにお伝えしてきます」
ペルレが立ち去ってしまえば、残されたのはアデリナと青年だけだ。
どうしようもないのでちらりと見てみれば、にこりと微笑まれた。
黒曜石の瞳に見つめられ、ようやくアデリナは目の前の人物が誰なのか気付いた。
「……テオ様、ですか?」
「え? ……ああ、髪の色? もう変装は必要ないから、今日の叙勲に合わせて元に戻したんだけど。……変か?」
気まずそうに頭を触るテオドールを、じっと見つめる。
アデリナにとって彼の髪の色は、燃えるような赤だ。
だが、本来の色だという黒髪は、黒曜石の瞳にも馴染んでいて似合っている。
赤い髪よりも落ち着いて見え、格好良いと思う。
……格好良い。
それに気付いた瞬間、アデリナの顔に急激に熱が集まってきた。
そう、格好良い。
赤い髪のテオドールも好きだが、黒髪の彼はより大人な雰囲気だ。
見ているだけで胸が苦しくなってきたが、それを悟られるのもいけないと思い、どうにか耐える。
「……怪我でもしたのか?」
知らず胸を押さえていたらしく、テオドールが心配そうに覗きこんできた。
黒髪と黒い瞳の漆黒の攻撃がアデリナを苛む。
安易に近付かないでほしい。
好きが爆発しそうなんですと言うわけにもいかず、アデリナはただ首を振る。
「なら良いけど。……怒ってる? すぐにこっちに来れなくて、ごめんな」
申し訳なさそうに目を伏せるテオドールに、アデリナは慌てて彼の手を取った。
「いいえ! テオ様は殿下の護衛ですから当然です! 怒ってなんていませんわ。黒髪のテオ様が格好良いので見惚れていただけで」
一気にまくしたてて、ようやく自身の失態に気付く。
さっきまで顔が熱かったのに、急に血の気が引いていくのがわかった。
何てことを叫んだのだ、自分は。
「……それ、本当?」
「いいえ! いえ、その。そうではなく!」
もう何を言ったら良いのかわからず、両手で顔を覆う。
完璧とまで言われた淑女のマナーはどこに行ったのだ。
地獄のレッスンを乗り越えてもなおこのていたらく。
なんて情けない。
テオドールが笑っている気配がする。
きっと、呆れているのだ。
嫌われるかもしれない。
「アデリナ嬢、顔を上げて」
「……いえ、情けない顔をしておりますから」
「情けない顔でも、アデリナ嬢は綺麗だから大丈夫」
とんでもない言葉に反射的に顔を上げると、テオドールがにやりと笑う。
「黒髪、気に入ってくれて良かった。……心配してたんだ」
黒曜石の瞳が細められ、再びアデリナの顔に熱が集まる。
さっきレオンハルトの微笑みを懐かしいと思ったのは、テオドールに似ているからだ。
だから安心したのだと気付き、更に頬が熱くなる。
ああ、駄目だ。
この瞳から逃げられる気がしない。
アデリナはこの日、二度目のひとめぼれをしたのだと気付いた。
これで、第四章は完結です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
明日からは「婚約破棄したが、そもそも婚約した覚えはない」の続編、「仮の恋人」編を連載開始します。
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