名前を呼んだから
「テオ。近衛も来ました。行って良いですよ」
テオドールは何を言われたのか一瞬わからない様子だったが、すぐに察したらしく、眉を顰めた。
「ですが」
ちらりとアロイスを見るテオドールに、グラナートはうなずく。
「大丈夫です。彼も関わってはいるようですが、エルナさんを害しようという様子はない。……それに、僕が負けるとでも思いますか?」
「いえ」
「ならば、早く行ってください。……安心させてあげないと」
グラナートの視線に圧されたらしいテオドールが、一礼して庭の奥へと走る。
たぶん、アデリナの所に行ったのだろう。
久しぶりに見た黒髪の兄の背中を見ていると、急に浮遊感に包まれた。
「君は、指示があるまでここにいてください」
「……はい」
エルナを抱え上げたグラナートはアロイスの返答を聞くと、そのまま屋敷の中に向かう。
「で、殿下? 放して、降ろしてください!」
ようやく事態に気付いたエルナが慌てて訴えるが、グラナートはまったく取り合わない。
「殿下、降ろしてください!」
「嫌です」
「え?」
まさかの言葉に、エルナはびっくりして何も言えなくなる。
そうしている間に部屋に入ると、ソファーに降ろされた。
エルナが握りしめていたハンカチをそっと受け取り、頬を押さえる。
ということは、まだ血が流れているのか。
色んなことがあって麻痺していたが、そう言えばあちこち痛みがあった。
「まだ血が止まりませんね。こちらも切られたのですか」
ちらりと視線を胸元に移すと、グラナートの眉が顰められた。
エルナも見てみると、上着とシャツが切れている。
胸の血はほとんど止まっていたが、思った以上に肌が見えていた。
傷を確認しただけだとわかってはいるが、羞恥からシャツをぎゅっと握りしめる。
グラナートはエルナの隣に座ると、肩にかけていた上着の身頃を合わせて肌が見えないようにしてくれた。
「すみません。もっと早くに着いていれば、あなたにこんな傷を負わせなかったのに」
苦しそうな様子に、エルナは懸命に首を振る。
決してグラナートのせいではないので、気に病んでほしくない。
「いえ。本当に、来てくれただけで嬉しいです。……でも、よくわかりましたね」
すると、グラナートはエルナの上着のポケットに手を入れた。
「……これです」
取り出されたハンカチは、赤い花を刺繍したものだ。
「聖なる魔力を感じる方角を、重点的に探しました。エルナさんが、目印をつけてくれたのでしょう?」
頷くと、にこりと笑みを返される。
「それでも屋敷までは絞れなかったのですが。……僕の名前を、呼んでくれましたね?」
「名前……庭で、ですか?」
「違います。たぶん、その前に」
名前、名前。
……そう言えば、部屋にいるときに、口の中で小さくグラナートの名を呼んだ。
あの後、髪色も戻っていたのだから、聖なる魔力が少しは発動したのだろう。
「呼び……ました、ね」
「前にも言いましたが、僕は名前を呼ばれれば大体の魔力の質がわかります。聖なる魔力を帯びた状態で僕を呼んでくれたから、目印がハッキリとわかるようになりました。おかげで、この屋敷を特定できたんです。裏口にも二人いるとわかったので、そちらに人を回すこともできました。エルナさんのおかげです」
何となくの方角を知らせられれば良いと思っていたが、想像以上にグラナートの受信能力が高性能だったようだ。
では、エルナの行動は間違っていなかったのか。
……良かった。
「今、馬車を用意させていますから――」
何だか安心したら、どっと疲れてきた。
一気に体が重くなり、瞼が閉じていく。
「エルナさん?」
グラナートの声が聞こえる。
返事をしたかったのに、耐えがたい疲労と眠気に抗えない。
結局エルナは、そのまま意識を失った。
「エルナ様、気が付きましたか?」
目を開けると、虹色の髪の美少女が覗き込んできた。
何度か経験しているが、やはり幸せな光景だなとしみじみ思う。
「……あれ。ということは、ここは……」
「王宮ですよ」
「やっぱりですか」
どうも最近このパターンが多いなと思いつつ、ベッドから起き上がる。
着替えているのは想定内だが、あるはずの痛みがない。
ちらりと胸元を覗いてみれば、やはり傷が綺麗さっぱりなくなっていた。
「リリーさんが治してくれたんですね。ありがとうございます」
花のような微笑みを浮かべたリリーが首を振る。
「大変でしたね。エルナ様を傷つけるなんて、本当に許せません。……殿下は辛いなら舞踏会は出なくて構わないと仰っていましたが、どうしますか?」
そう言うリリーはオレンジ色の清楚なドレス姿だ。
本来は舞踏会に参加するために王宮に来ていたはず。
つまり、エルナの傷を治すためにここに呼ばれたのだろう。
「リリーさんは、どうするのですか?」
「エルナ様が行かないのなら、私もここにいます」
当然と言わんばかりの笑みに、エルナの方が焦りを感じる。
今夜はヴィルヘルムスが参加しているし、これを逃すとそうそう会えないのは明白だ。
これは、責任重大である。
「行きます。怪我も治してもらいましたし……私の仕事です。ここで寝ていたら、アデリナ様に怒られてしまいます」
それと、ヴィルヘルムスにも恨まれてしまう。
エルナの心中を知ってか知らずか、リリーは微笑みながら水を渡してくれる。
「あの。ペルレ様とアデリナ様は、どうしているかわかりますか?」
シャルロッテは二人に危害を加えそうにはなかったし、助けが行ったとは聞いているが、その後がわからない。
「舞踏会の支度中だと思います」
「そうですか」
ならば、無事ということか。
安心すると、水を飲んでのどを潤す。
ただの水がこれほどおいしく感じることも、なかなかないだろう。
「お二人はエルナ様のお兄様に助けられたそうですね」
「テオ兄様ですか?」
テオドールが裏口に向かったのはだいぶ遅かったと思うのだが、間に合ったのだろうか。
「いえ、上のお兄様だそうです。エルナ様を探すのに協力を依頼して、そのまま一緒に行動していたらしいですよ」
「レオン兄様が? ……大丈夫でしょうか」
「公爵もアデリナ様もご無事だそうですよ」
「いえ、そうではなく……」
レオンハルトがエルナを攫った男達相手に剣を振るったのだとしたら、それはちょっとした地獄絵図ではないだろうか。
以前、馬上から鞘に入ったままの剣で大勢の敵を吹き飛ばしていた様子を思い出す。
高貴な女性二人にトラウマを植え付けなければ良いのだが。
いや、さすがにそのあたりは自制しているだろう。
……そう思いたい。
「……無事なら、良かったです」
「駄目ですよ、エルナ様。エルナ様が怪我をしているじゃありませんか。もっと御自分を大切にしてください」
麗しの美少女に叱られるが、可愛いのでさっぱり怖くない。
「リリーさんに手間ばかり掛けてしまいますね」
「エルナ様のためなら手間なんてどうでも良いんです。それよりも、傷は消せても、疲労や出血はどうしようもありません。しかも、聖なる魔力を使ったと聞いています。本当に、無理をしないでくださいね」
「はい」
こうして心配してくれる人がいるというのは、ありがたいことだ。
「それじゃあ、急いで準備をしないといけませんね。お手伝いします。髪の毛は、私が結いますね」
今日一番の笑顔で、エルナの髪を梳かし始める。
これは、もしかして髪を結いたくてエルナを待っていたのだろうか。
そんな考えが浮かぶが、天使のような微笑みにすべてはどうでも良くなった。