炎の王太子
――来てくれた。
調印式も舞踏会もあるから、忙しいはずなのに。
その姿を見て、思わず涙が出そうになった。
いつの間に、グラナートを見てこんなに安心するようになったのだろう。
グラナートは常からは想像できない、険しい表情でこちらを見ている。
シャルロッテはそれに気付くと、すぐに怯えた表情を浮かべた。
「殿下! アロイス様がノイマン子爵令嬢を攫ったのです。怖かったですわ……!」
そのまま駆け寄ってグラナートに縋りつこうとするシャルロッテの顔に、テオドールが剣を突き付ける。
「殿下に、近付くな」
一瞬怯んだ様子ではあったが、シャルロッテはすぐにグラナートに潤んだ瞳を向ける。
「殿下、剣を下げるよう命じてくださいませ。わたくしは巻き込まれただけで……」
事情を知っているエルナですら、かわいそうにと言いたくなる演技力だ。
なるほど、さすがは王太子妃候補に残っていただけはある。
これが必要だというのなら、エルナにはちょっと荷が重い。
頬から血を流しつつ感心していると、シャルロッテを素通りしたグラナートが歩いてくる。
エルナの前まで来ると、腕を拘束している男を一瞥した。
「――放せ」
一言、命じる。
低い声、王族の威厳。
だがそれ以上に、魔力のこもった、重い言葉。
男達は震える手を隠すかのように、エルナを放した。
急に自由になったせいでバランスを崩した体を、グラナートが抱えるようにして支える。
そのまま地面に座り込むと、そっと抱きしめられた。
「……遅くなって、すみません」
耳元で優しくそう告げられて、今度こそ目に涙が浮かんでしまう。
「いえ。……来てくださっただけで」
首を振るが、何だか上手く言葉にできない。
駄目だ、泣いている場合じゃない。
涙をぐっとこらえると、顔を上げてグラナートを見る。
「ペルレ様とアデリナ様が、裏口の方に」
「大丈夫、裏にも助けが行っています」
グラナートは自身の上着を脱ぐと、エルナの肩を包み込むようにかけた。
「少しだけ、待っていてくださいね」
優しい笑顔でそう言うと、自身のハンカチを取り出してエルナの頬の血を拭く。
ハンカチをエルナの手に握らせると、立ち上がってシャルロッテを見据えた。
「王太子妃候補と公爵、公爵令嬢を攫い、怪我をさせた。……何のお咎めもないなどと、思ってはいないね?」
「わ、わたくしは、巻き込まれただけで――」
シャルロッテの言葉を遮るように、目の前に大きな炎が立ち上り、すぐに消える。
距離はあったのに、その一瞬の熱でエルナの頬も焼けそうだった。
グラナートが手を向けているのだから、彼が炎を出したのだろう。
それはわかるのだが、日頃穏やかなグラナートが話を聞く前に炎を向けたことに驚く。
「シャルロッテ・グルーバー。君は私の妃となる女性に刃を向けた。今ここで焼き払っても良いが」
シャルロッテは声が出ないらしく、目を見開いた状態で震えていた。
グラナートの言葉がただの脅しではないと感じたのだろう。
「やめておこう。エルナさんを傷つけた相手に、加減をできそうにない。一瞬で炭になっても困る。楽には、してやらない。……クッキーの恨みもあるからね」
シャルロッテはその場に座り込んで、ガタガタと震えている。
何かを言おうとしていたが、柘榴石の瞳が一瞥すると、声を出すことはなかった。
その時、背後から草を踏む音が聞こえた。
ホルガー達がその場からが逃げようとするのを見て、グラナートが腕を伸ばす。
それに従い、一瞬で炎の帯が男達を包囲した。
「じわじわと焼き殺されたいか、投降するか。選べ」
目に痛いほどの光を放つそれは、エルナの肌すら焦がしそうな熱気だ。
そう時間をかけずに命にかかわる事態になるだろう。
「エルナ」
いつの間にかそばに来ていたテオドールの手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。
何か言おうと口を開きかけたアロイスを見て、テオドールが鋭い視線を向けた。
「――おまえは、動くな。喋るな。金髪の男が馬車を襲撃したという目撃証言がある。あいつらの仲間ではないようだから今ここでは斬らないが、信用したわけではない」
冷たく言い放つテオドールに、アロイスはただうなずいた。
「傷は、傷むか?」
「平気です。それより、殿下は」
「大丈夫、暴走しているわけじゃない。過去に類を見ないくらいには怒っているが、制御できている。……おまえがいるからな」
テオドールは苦笑いを浮かべると、エルナの頭を撫でた。
「私ですか?」
「ここで暴走すれば、おまえも無事では済まない。おまえがいなければ、それこそ一瞬で消し炭だろう」
王族は魔力に恵まれているのは聞いていた。
グラナートがその中でもずば抜けた魔力量だとも。
だが、エルナが想像するよりもずっと、グラナートの魔法の威力は凄いようだ。
「――と、投降する! 助けてくれ!」
脅しではない火力は、既にホルガーの髪や服を焦がし、足元の草を炭と化していた。
投降するという宣言に炎の帯は消え、同時に近衛兵と思われる一団が庭に到着して男達を捕らえる。
動けず、喋れない状態だったシャルロッテは、近衛兵に腕を掴まれると弾かれるようにその手を振り払った。
「――どうして、殿下! わたくしは、あなたが!」
「私の妻は、王太子妃であり、王妃となる。都合が悪いからと権力と武力で排除するような人間を、選ぶわけもない。追って沙汰する――牢で待て」
近衛兵に抑えられながらも必死で叫ぶシャルロッテに、グラナートの目は冷ややかだ。
「そんな!」
シャルロッテは叫び続けていたが、姿が見えなくなるころにはその声も聞こえなくなった。