健脚と俊足と
「あなた方をここから逃がします。急いでくださ……」
アロイスはそこでエルナに気付いたらしく、目を瞠った。
「灰色の髪、水宝玉の瞳……まさか」
一歩近付いたアロイスを阻もうと、アデリナとペルレがエルナのそばに駆け寄る。
何度か瞬くと、アロイスはため息をついて苦笑した。
「心配しないでください。ミーゼス公爵令嬢の侍女も、ちゃんと解放します」
そう言いながら上着を脱ぐと、エルナの頭に被せる。
「私が短慮でした。私の……フォルツの願いは、領民を助けること。あなた方に危害を加えることではありません。どうか、陛下と殿下にお伝えください。私がここから逃がして差し上げます」
深く頭を下げるとアロイスはエルナの手を取った。
「急いでください!」
三人は顔を見合わせるとうなずき、アロイスについて部屋を出た。
エルナは田舎育ちの健脚だ。
ペルレは王女だが俊足だ。
対してアデリナは深窓の御令嬢。
扉を出た瞬間から、あっという間にアデリナは遅れた。
両足を縛られているのだろうかという遅さで、もはやエルナが歩いた方が早い気さえする。
予想していたとはいえ、それを遥かに下回るスピードに、エルナは慌ててアロイスの手を引いた。
「あの、私は大丈夫です。街一つくらいなら走れます。ペルレ様も大丈夫なので、アデリナ様を手伝っていただけますか?」
エルナの言葉に眉を顰めたアロイスだが、既に遥か遠くに遅れているアデリナを見て、事態を理解したらしい。
「ミーゼス公爵令嬢、非常時ですのでお許しください」
「え? きゃああ!」
アロイスは返事を待たずにアデリナを抱えると、そのまま走りだした。
「わ、わたくし、走れます!」
いわゆるお姫様抱っこ状態のアデリナは必死に訴えているが、アロイスは無視して走り続ける。
衝撃の速度を見ているので、構っている暇はないと判断したのだろう。
「アデリナさん。犬と並べるようになって初めて、走れると言うのですわ」
ペルレが優しく諭しているが、その基準もおかしい気がする。
ということは、犬と並んで走れるのか。
世の中は広いが、犬と並走できる俊足王女は彼女くらいのものだろう。
「このまま庭に出てください。裏口に馬車を用意してあります」
「わかりました」
「ですから、わたくしっ」
何かを訴えるアデリナに構わず屋敷を走り抜けると、庭に飛び出す。
すると、そこにはホルガーと男達が待ち受けていた。
一瞬アロイスに嵌められたのかと思ったが、彼の表情からそれは違うとすぐに分かった。
アロイスはアデリナをおろすと、三人をかばうように前に立ってホルガーを睨みつける。
「甘いお坊ちゃんは、そうくると思ったよ。だが、それは王太子妃候補をおびき出す大事な餌だ。逃がすわけにはいかないな」
アロイスは返事をせずに剣を抜いて構えた。
「……私が食い止めますから、行ってください」
そうは言っても相手が多い。
とても一人で止められるとは思えない。
それに、アロイスがここに残れば、アデリナは自分で走ることになる。
あの速度では、すぐに捕まってしまうだろう。
そして、ここに全員で残っても、同様にいずれは捕まるだろう。
何か、ホルガー達をここに繋ぎ止める手立てが必要だ。
「……ペルレ様、アデリナ様、先に行ってください」
エルナが小声で伝えると、ペルレの表情が険しくなる。
「エル、あなたも」
「いいえ。私は残ります」
狙われたのは王太子妃候補――エルナだ。
巻き込まれた二人を、どうにか脱出させたい。
アロイスの横まで出ると、頭にかぶっていた上着を取り払う。
それまではにやにやと笑っていたホルガーが、驚愕の表情で目を瞠った。
「灰色の髪、水宝玉の瞳。――おまえは」
「王太子妃候補に用があるのでしょう? 私が、エルナ・ノイマンです。この二人は関係ありません。行かせてください」
「駄目ですわ」
いつの間にかエルナのそばにやって来たペルレとアデリナが、エルナの腕を掴む。
「……全員捕まってはいけません。外に出られたら、助けを呼んでください」
小声でそう伝えると、ペルレは何かを言いかけて、やめる。
「いいだろう。用があるのは王太子妃候補だけだ」
ホルガーの言葉を聞いた二人は、渋々という様子ではあるが、何とか行ってくれた。
「……あなたも行ってくれると、安心なのですけれど」
アデリナを引きずるようにして連れて行くペルレを見送りながら、隣に立つアロイスに小声で聞いてみる。
ホルガーの手の者が裏口にいないとも限らないし、アデリナを運ぶ係としても一緒に行ってくれた方がありがたい。
だが、アロイスは眉を顰め、ホルガーから視線を外さずに答える。
「……あなたを攫ったのは私です。無事にお返ししなければ、殿下に申し訳が立ちません。それに、裏に手が回っていなければ仲間がいるので脱出できますし、手が回っていれば私が同行していたところで結局は捕まります」
「……そうですか」
「あなたの身は、私がお守りします」
アロイスはそう言いながら剣を構えなおし、エルナをかばうように前に立つ。
「既に鉱山の状況は伝えた。もう王太子妃候補に用はないはずだろう」
アロイスの訴えを鼻で笑うと、ホルガーは大袈裟に肩を竦めて見せた。
「鉱山の状況はどうでもいい。我々の目的は王太子妃候補をとらえることだ」
「……どういう意味だ?」
アロイスが困惑した様子でホルガーに声をかけた瞬間、背後から出て来た男に抑え込まれる。
同時にエルナも二人の男に腕を掴まれる。
アロイスに借りた上着が地面に落ち、男の靴がそれを踏みつけた。
「ホルガー!」
地面に顔をつける形で抑え込まれたアロイスが、怒りの形相で叫ぶ。
「――まあ。怖いですわ。大きな声を上げるのは、やめてくださる?」
場に似合わぬ高い声に顔を向けると、栗色の髪に軟玉の瞳の少女が微笑みながら近付いて来た。
「……あなたは。シャルロッテ・グルーバー侯爵令嬢?」
アロイスに名を呼ばれると、シャルロッテは満足そうに笑みをこぼした。
「ごきげんよう、アロイス・フォルツ様」
「どうしてこんなところに?」
睨みつけられながら問われても軟玉の瞳は全く動じることなく、動けないアロイスを見つめる。
「どうしてって。これは、わたくし達の立てた計画ですもの。当然でしょう?」