さようなら、ヒュリカ
境界の奥地を離れ、既に四の砦まで下がったミシンは、都への気の進まない帰り支度をしていた。
ここはヒュリカが、陣前の一騎打ちで銀色悪鬼を一刀のもとに斬り捨てた砦だ。あの時のヒュリカの太刀は一つの迷いもなく、どれだけ気持ちのいいものだったろう。何でも斬ってしまえそうだった。実際その後、次の砦の金色悪鬼も全く同じに一刀両断してしまうのだけど。
「ヒュリカ。あの時のきみなら、きっと……」
あの後ヒュリカはミシンのもとに真っ先に駆けてきて……
「ミシン、ミシン!」
ミシンは砦の二階の窓から顔を出す。下から自分を呼んだのは、青ざめた顔のイリュネー。一騎だ。
ミシンは足早に階段を下りた。
青ざめたその顔は、最初の悲惨な敗退の時を思い出させた。
イリュオンがいなくなった、と、イリュネーは静かに呟くように言い放った。
輸送隊を率い、イリュネーが先発しイリュオンが後発としてここへ向かってきたのだが、イリュオンの隊が追い付かず、どうやら途中で忽然と姿を消してしまったのだという。
イリュネーは少し口ごもってから、それは、あの時のあの場所で……夢で見た、あの……と言ってから、全く同じあの異様な雰囲気を感じた、と言った。かすかに震え、視線は俯いていた。
近くに侍っていたミルメコレヨンはこれを聞いてから、「いる……いるな」とはっきりと呟いた。
「いるってあの時の……あの敵が?」
イリュネーはミルメコレヨンに掴みかかりそうな剣幕で言った。
「いないって、もうあそこでは何も感じないって、言ったじゃない! 何故、今、今頃……」
最後は、弱々しかった。
林の中で静かに死んでいるイリュオン隊のイメージが、ミシンの脳裏に浮かんだ。
その時、陣地を覆う大きな影がざーっと過ぎ、けたたましい笑い声をあげて何かが飛来した。それは、ケトゥ卿の変わり果てた姿のあの大鳥だった。すると、暫く姿を見せずもういないのでは思われた黒い小さな鳥が、一斉に森から噴き出し一緒に舞い始めた。
陣中で悲鳴が響き渡った。
すぐに兵が木馬を引き連れて駆けてくるが、兵はそれを鳥に向けて放つことなく、ミシンに差し出した。
もうここに木馬は一頭しかいない。間違いなく、後方にも敵は待ち構えている。
「ミシン殿。木馬に乗っていかれるしかありません」
「こんな状況で、僕一人帰れるものか!」
馬鹿な、こんな馬鹿な、こんな、こんなことってあるのか……。
「王の命は絶対だ。戻らねば、聖騎士失格だ」
最初、わからなかった。言ったのは、ミルメコレヨンだ。
「何がわかる? 聖騎士でないおまえに。ミルメコレヨン!」
ミルメコレヨンはにやりと笑い、「おれは元聖騎士だ」と言った。
「今のおまえがしようとしていることと似たようなことをして、聖騎士から剥がれ落ちた騎士だ」
「な、何……」
「おまえにこそ何がわかる。ミシンめ。行け!」
ミルメコレヨンは木馬を切りつけた。
ぎゃあああああ!
すさまじい叫びが轟き、木馬は今までにない光を放って、駆け始める。
「うわあ」
ミシンはそれでも振り向くが、「振り落とされれば、死ぬぞ!」遠ざかっていくミルメコレヨンが言い放つ。
ミシンの前に飛んでくる鳥は全て、光の中に消えていく。
ケトゥ卿の変わり果てた大鳥だけが、ハハハハハ! と笑い立てながら、ミシンのすぐ上に鋭い大きな爪を突き付けながら、ぴったりと追ってくる。
「逃げるぞ! こいつ、逃げるぞ! 一人のちっぽけな聖騎士が境界から逃げていく! わはははははは」
ミシンはいっぱいに広がった光の中を、駆けて、駆け、境界の果てから遠ざかり、最初の地点へ向かっていく。
木馬は一気に速度を増し、景色が飛ぶ。
光の中の景色は皆、燃えているかのようにゆらぎ、時間が止まっているかのように映っている。光の眩い白と黄色とその向こうの境界の樹々の緑が混ざってそれが残像になっているような色。すぐにその色も、なくなる。完全に、光だけになる。
ケトゥ卿の砦も、燃えているように見えてくる。黒い粒々が張り付いている。
追ってくるケトゥ卿の大鳥は、静止画のようで、それでも尚ミシンの後を速度を緩めずぴったり付いてくる。笑い声だけが響いている。
一気に全てを過ぎ、雨の回廊の境界側の入り口まで来ていた。光が止む。色が、戻る。木馬は突如ぴたりと動きを止めていた。ミシンは木馬を降りる。
色は戻ったが、辺りは灰色がかった色しかない仄暗いところで、ほら穴のようになっている。雨の気配に包まれている。雨は降っていない。
雨の回廊の入り口に、ケトゥ卿の変わり果てた大鳥が張り付いて、ぴたりと動かないのに、相変わらず笑っている。静かなここに笑い声だけがそのまま響いている。
ミシンは、さよなら……と言って、それを斬り付けた。何度も何度も斬り付けた。
その中で、さようなら、ヒュリカ……とも呟いた。
(第6章・決戦 了)




