魔法の一族の谷
「その……僕は、境界の者ではないのです。都の聖騎士で……僕がこの境界に来たのも、境界で様々な不穏が起こるという預言があったのですが、おそらくそれで戦いになると……実際、今、境界の地上では、外縁から湧き出してくる〝敵〟との戦いになっています。境界側はそれを食い止めるのは困難で、既に七つの内六つの砦を奪われ、先日もその奪回に大規模な出兵を行ったのですが……敗退してしまった」
ケンジャは目を閉じたまま静かにそれを聞いている。
「え……と、それから……それで……木馬を、探して今、この地下を来たんです。今、地上は雨による増水で移動もできなくなっているので……境界にはこんな雨が降ることはないと言う、この雨は何なのでしょう……ああその、木馬というのは、これもおそらく僕を追って都からやって来たもので、これには〝敵〟を退ける強力な力があるようなのです。この力とは……」
「魔法じゃな」
ケンジャが口を開いた。
「魔法……レチエの……」
ミシンは独り言のように呟く。
鼻歌はやんでいた。
ケンジャは、続ける。
「魔法には、その使い手の意志や願いといったものが宿る。それが宿りものの意識となり、そのものを行動へと駆り立てた」
レチエは、僕を助けようとしてくれたのだろうか。ミシンは思う。レチエの意志の入った木馬は僕の後を追って境界へ来た。しかし、レチエにもミシンを助けるということがどういうことなのかは、わかっていなかっただろう。木馬達は境界へ来たものの、何をすればいいのかわからなかった。そこにはレチエの強い願いが込められてはいたけれど。
ミシンはレチエのことを思った。
レチエはこんなことをして、何か罰を受けてやしないか。
「僕には……何の力もないのに……」
「境界の民には、魔法を扱うことはできない。魔法を扱える者は、境界を通ることができない。おまえは、境界に魔法をつなげる、魔法の力をもたらす役割を果たした」
「……それが僕の、役割……?」
それが、聖騎士の役割なのか?
「わからん。しかし現にそうではある。ということだが。魔法の力に対抗するには、魔法の力が必要だ。おまえは間接的にせよそれを境界にもたらすことに成功した」
「魔法の力に対抗するには……えっ? 〝敵〟もまた、魔法の力なのですか?」
「いや。おまえ達が〝敵〟と呼ぶ、外縁より出で来るもの達は、魔法ではない。魔法とは、明確な意志であり、願いである。かのもの達は、はっきりとした形のない、名づけることのできないもの達だ。境界の民の役割はかのもの達と戦い退けることであり、境界の民にはその力が備わっている。それが境界の民の定めでもある」
ミジーソは目を閉じ眠っているように見え、イリュネーの姿は煙の向こうに見えない。
木馬は、〝敵〟を消し去ったが、〝敵〟はどれだけ強靭なものでも斬れば打ち倒すことはできた。では木馬で対抗すべき魔法の力とは…… ミシンは、はっとした。
「きりん……あれは? あれはなんです? もしかして、あれが対抗すべき魔法の……?」
「きりんと呼ぶかどうかは知らん。だが、魔法の一族の谷から、聳えしものの群れが来て境界を滅ぼすという言い伝えは、昔からある」
「聳えしものの群れ……何かの群れが雨を引き連れてこの国を目指し……預言にあったあれか。じゃあ、魔法の一族の谷というのは……」
「外縁、じゃ」
外縁。
ヒュリカは、外縁のことを話した時に、身震いしていた。あのヒュリカが。恐ろしい。あそこは人間が行けるところではない。〝敵〟が湧き上がってくるその源。人間が行けば人間が〝敵〟そのものになってしまう。と。
「魔法が滅んだとされてからも、わずかに魔法を扱う者が生き残った。その血を絶やさぬよう、その一握りの者を都は保護した。その時、何がしかの理由で都に保護されずに爪はじきにされた一族がいた。その者達は都を逃れ、自分達だけの国を作った。それが、魔法の一族の谷……自分達だけで交配を繰り返したため、彼らの魔法の血は濃くなりすぎ、滅びてしまったという説もある。真実はわからん。その後、誰も彼らの姿を見た者はおらんのだからな」
「真実は、外縁に……けど、事実あのきりんの群れが来ているということは……あのきりんが魔法の力、なのだとしたら……彼らは尚、生きて……」
人間が行けば人間が〝敵〟そのものになってしまう。ヒュリカの言葉。
彼らはもう人間ではなく、自分達を爪はじきにした都を呪う呪いの根源そのものとして……?
とめどなく溢れ出てくる〝敵〟。それもまた彼ら自身の変わり果てた姿なのか。転身した姿なのか。
外縁に入ることができない以上、どうやって彼らを止めることができるのか。境界は……それに都も、この国は、滅ぶしかないのか…… ……
ミシンはいつしか、強いまどろみの中へ落ちていく。
……滅ぶしか…… ……いや、滅ばない、滅ぼさせはしない……
…… ……
気づけば、地下泉に浸ったまま眠っており、少し離れたところにミジーソの姿があった。
ケンジャ達の姿は一つも見えなかった。いつの間にいなくなったのだろう。
辺りには湯煙が満ちている。その中から、イリュネーが姿を現した。イリュネーはもう服を着ている。
「はあ。もう、いつまで浸かっている気? そろそろ、行くわよ。ミジーソ殿も起こしてあげて」
「あ……ああ」
イリュネーはまた煙の中に消えて、「早くして。さっさと着替えて」と声だけが響く。
ミシンとミジーソはさっと着衣をまとい、準備を整え、歩き出した。
さきの話は、ミジーソもイリュネーも聞いていただろうか。ミシンは何となくそのことは切り出さずにおいた。眠ってしまったためか、直前まで見ていたが思い出しきれない夢のように、さきのケンジャの話も輪郭がぼやけてしまっていた。
魔法の力、魔法の谷の一族……確かそんな話はした。自分が役割を担っているということについても漠然と聞いた気がする。そうだ、確かに自分は使命を帯びてここに来ているのだ。
そして今は、木馬が必要だ。〝敵〟と戦うために……その〝敵〟の根源は、真実は、おそらく外縁にある……そこは、魔法の一族の谷……




