温泉地の出来事(一日目)
温泉地までに特に何事も起こらず、二回程の休息を入れて、夕刻には温泉地へと到着した。
温泉地は、古い楼閣の立ち並ぶ、古来より境界にある広大な温泉郷だった。
一団は、おこしやすと言う温泉宿の女将以下従業員達に迎えられ、ぞろぞろとその一時の安らぎの地へ足を踏み入れていった。
その夜は、疲れもあるので、ミシンは宿の部屋で食事を済ませるとすぐに眠りに就いた。
翌日の朝、窓から見ると、小雨がちらつき始めていた。
ミシンらも数日は十分に身体を休めてから、探索に赴くよう言われている。
温泉地には様々な、百にも及ぶ温泉がひしめいていた。女将にお勧めを教えてもらうと、露天風呂になっている巨大な岩棚風呂へと足を運んだ。雨が強くなるようなら、岩風呂は屋内にも続いているからという。
煙でいっぱいの、熱い湯に、身を浸す。
湯煙の中に、雨粒が舞い込んでくる。小雨はむしろ、心地よかった。ひんやりした空気が、頭上を流れていく。
雨……か。ミシンは温泉に浸りながら、旅の始めに通った雨の回廊を思い出し、それから、東の砦の中で降っていた雨のそら恐ろしさを思う。
そして、線の雨が世界を滅ぼす、とはどういうことなのか、と。
自分のような戦う者には、預かり知れぬことか……これまでの旅や、そこで起こった戦いに、思いを馳せる。やって来た木馬。魔法の灯かり……レチエの、魔法の灯かり……あたたかい……
ミシン!
どれだけか時間が経ったか。ミシンは湯の心地よさに、うとうとしていたようだった。
「ミシン! ここにいたか!」
駆けてきたのは、裸同然のイリュネーだ。岩棚の上の方から、呼びかけている。
「イリュ、イリュネー、ど、どうして、な……ここ、混浴?」
「ミシン! こっちへ来て! 早く、して!」
「な……」
そんなに急いだ誘いはないだろうと思ったが、実際、
「なに考えてる?! 見ないで、こっちは!」
慌てて両手でミシンの視線を遮る。
「ど、どうしろと……」
「あっち! ほら」
ミシンはおろおろとしながら、岩棚に上り、イリュネーを見ないようにイリュネーが指さした方にさっと顔を背けた。
雨の中、何か背の高い四本足の生きものがゆっくりと歩いていく。
群れからはぐれたように、一匹で。高くそびえ立つ首の先に、頭がなかった。頭のない、きりんのように見える。そしてその頭の代わりに、首のてっぺんにぼんやりとした灯かりをともしている。形は違うが、木馬に似ているとミシンは思った。あの灯かり、魔法の灯かりとは違うのか。都にはあんなものはいなかった。では、境界の生きものなのだろうか。
「どこかへ行こうとしているのだろうか。城の方? 敵……とは違うのか?」
「わからない。あのようなものは見たことがない。群れからはぐれた動物が、たださまよっているだけのようにも見えるが」
二人は暫く見ていたが、
「念のため、兵に見張らせるか、行き先の方角だけでも見届けさせるか」
とミシンは言い、先に風呂を出ると伝えた。
「宿の者にも、知っていないか聞いてみよう」
「わ、私が先に出る! のぼせる……じゃない、湯冷めするし! ミシンはほら、あっちを向いてて!」
温泉から出てきたミシンはこのことを兵に知らせ、自分もすぐ行くので見失わない内に後を追っておいてくれるよう頼んだ。が、ミシンが着替えて外に出ると、兵数名で外へ出てすぐにミシンが見たという辺りを探したが、既に去ってしまったのか何もいなかったという。
雨も激しくなってきており、あまり長く探索を続けることはできなかった。
「この雨ではのう」
イリュオンも兵と一緒に暫く外を探っていた。
「本当に見たんじゃな? 見たのはミシン殿だけか? どの辺りから見た?」
「岩棚風呂の上からだ。えっと見たのは他に……」
ミシンは少し躊躇った。
「イリュネーも――」
「な、姉じゃと一緒に入っておったのか? ミシン殿いつの間に、姉じゃとそのような間柄に」
「いーや違う、違う!」
こんな誤解をされてイリュネーに聞かされでもしたら、どうなることか。
ともあれ、見失ったのであれば仕方がなかった。
温泉宿の者にも聞いたが、近辺にそのような生きものが生息しているということはないし、これまでに見た者もないとのことだった。
雨がやんだら城に兵を遣わせ、念のために報告だけはしておこうとミシンは思った。あのような灯かりを持つ生きものが木馬以外にもいるというのは気になった。近臣や城付きの古い魔法使いになら、知っている者もいるかもしれない。




